第79話
それから一週間ほどが過ぎた。
ルナの尻尾は、もうあの血まみれの切断面ではなかった。
木と金属と魔石が組み合わされた義尾が、土の国の陽を受けて淡く光を返している。
ルナが歩くたび、その根元に組み込まれた土の細工がわずかにしなり、遅れて木の節が柔らかく追従した。
何度も何度もやり直し、削り、組み替えた結果だった。
「ルナ、どう? まだ重い?」
リデルが、庭の真ん中でルナの後ろ姿に声をかける。
ルナは首だけこちらを振り向け、少し考えるように瞬きをしたあと――義尾をゆっくりと回してみせた。
「ぎゃう」
短い鳴き声。
不満でも拒絶でもない。
アルスには、それが「これならいい」という及第点の返事に聞こえた。
「ふふ、よかった」
リデルが胸の前で手をぎゅっと握る。
自分で考え、手を動かし、初めて形にした魔道具。
それを、ルナが当たり前のように身につけて、当たり前のように動かしてくれている。
その事実が、リデルにはたまらなく嬉しいのだろう。
ルナがふいに頭を上げた。
風向きを確かめるように鼻先を上げ――次の瞬間、翼を大きく広げる。
飛ぶつもりだ。
リデルもアルスも、思わず息を飲んだ。
土の上に爪を一度深く食い込ませる。
大きく翼を振り下ろすと、静かな音を立てて、ルナの体がふわりと浮き上がった。
次に瞬きをした時には、ルナはもう上空にいた。
黒い体が、青い空の中で小さく回る。
自分の尻尾の重さを確かめるように、滑るような軌道で弧を描き、時折大きく旋回した。
「……飛んだ」
アルスの口から、思わず言葉が漏れる。
ルナは、決して高くは飛ばない。
それでも、義尾を振り、翼を折り、また大きく広げて――地上の二人から見ても分かるほど、自由に空を動き回っていた。
ひとしきり空を周ってから、ルナは弾んだ軌道で二人のいる方へ戻ってくる。
着地の際に土が少しだけ跳ねた。
ルナの瞳は、まだ高揚が冷めきらない光を宿している。
「ルナ! よかったね!」
リデルが駆け寄り、尻尾の付け根をそっと撫でる。
瞳はうるんでいるのに、口元は笑っていた。
「……うん。よかった」
アルスもその隣に立ち、ルナの首をゆっくり撫でた。
ルナは満足げに喉を鳴らすと、ふと思いついたように顔を上げる。
庭の向こう、厩舎のほうを一度見ると、そのまま走り出していった。
「ルナ?」
呼びかけに返事はない。
少しして。
ルナは一匹ではなく、もう一匹の翼獣のハルナとともに戻ってきた。
その口には、大きな鞍が咥えられている。
ルナはそのまま駆け寄ってきて、リデルの足元で鞍をどさりと落とした。
そして、アルスとリデルの背中を順番に、ずい、と鼻先で押す。
「……乗ってって言ってるの?」
リデルが、さすがに「それは無茶じゃない?」という顔でルナを見る。
ルナは尻尾を一度振り、きっぱりと頷くように首を動かした。
その後ろに、ハルナが歩み出てくる。
落ち着いた瞳でルナとリデルを見比べ、小さく鳴いた。
「……ハルナが教えながら飛んでくれるの?」
リデルが尋ねると、ハルナは目を細めて、まるで「そのつもりだ」とでも言うように頷いて見せた。
ルナは期待に満ちた瞳で二人を見上げている。
「……じゃあ、分かった!」
リデルは、観念したように息を吐いた。
◆
「ちょっとサイズが合ってないね。今度、調整しようね」
リデルはルナの背に鞍を装着しながら、いつもの調子でぶつぶつと呟く。
鞍はもともと普通種用のもので、ルナの体格には少し大きい。
それでも、帯の位置を少し工夫すれば、今はどうにか固定できそうだった。
ルナはそんなことお構いなしとばかりに、早く飛びたくてたまらない様子で足踏みしている。
「分かったから、ちょっと待って」
リデルがあわててその胸元を押さえる。
すっかり、落ち着きのない子どもを宥めているみたいだ。
「そういえば、ルナは何歳ぐらいなの?」
鞍の帯を締めながら、アルスが何気なく尋ねる。
「この毛並みだと十歳ぐらいじゃない? 翼獣は長生きらしいから、まだまだ子供だと思う」
リデルはそう言いながら、最後の留め具を確認した。
「――よし。できた」
言うと同時に、ルナがすぐさま姿勢を低くする。
背に乗れと言わんばかりに、地面すれすれまで体を沈めていた。
「じゃあ、はい。アルスが先に乗って」
「うん」
アルスは頷き、ルナの肩に手をかける。
「じゃあ、乗るね」
足をかけて、慎重に鞍の上へ身体を持ち上げる。
背中の感触と、しなやかな動きが脚の下から伝わってくる。
「じゃあ次、私ね」
リデルがアルスの前に乗り込んでくる。
鞍の広さの問題で、二人の距離はどうしても近くなる。
背中越しに、リデルの体温が伝わってきた。
二人とも無事に収まった。
リデルの顔は見えないが、露わになった耳が赤く染まっているのが分かる。
「――ルナ! お願い!」
リデルの号令が飛ぶ。
次の瞬間、ルナが大きく翼を広げた。
地面を蹴った感触のあと、視界が一気に青に塗り替えられる。
胃のあたりがふわりと浮く。
風が顔を打ち、リデルの髪が前へ流れ、アルスの頬をかすめた。
「……わあ。すごい……すごいよ、ルナ!」
リデルが、抑えきれない声で叫ぶ。
背中越しでも、その震えが伝わってきた。
後ろから、ハルナが一定の距離を保ってついてきている。
時折、様子を見るように少し近づいては、また離れていった。
「ルナ! 重くないー!?」
風音に負けないよう、リデルが精一杯の声で問いかける。
「がう!」
ルナが短く鳴いた。
「そう! よかった!」
意味は分からないけれど、きっと「重くない」と言っているのだろうと、アルスは勝手に解釈する。
空の世界が、ゆっくりと動き出す。
地面で見上げていた青空が、今は視線と同じ高さにある。
土の国の家々の屋根、遠くに伸びる土脈の丘、学院の塔の尖端までもが、いつもと違う角度で見えた。
ルナの翼の一振りごとに、世界の見え方が少しずつ変わっていく。
義尾が、ちゃんと空の中で働いている。
切り落とされたはずのものの代わりに、新しく得た「尻尾」が、ルナの体を支え、空中での姿勢を整えている。
ルナの喉から、小さな鳴き声が何度も漏れた。
喜びとも、解放ともつかないその声を聞きながら、アルスは胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。
きっと今日という日は、三人と二匹にとって忘れられない日になる。
ルナが、もう一度高く翼を打った。
青い世界の中を、黒い影が、しなやかに駆け抜けていく。




