第78話
朝の空気は冷たく澄んでいたが、ルナの様子は落ち着かないものだった。
黒い翼獣は庭の隅で身を小さく丸め、折り畳んだ翼を何度もわずかに震わせている。
この二日のあいだに、ルナのマナがだだ漏れになることはなくなり、尾の結晶化の進行もいったんは止まっていた。
それでも、尾の半ばから先は、もう石と変わらない。
そこに残っているのは、痛みと重さだけだ。
「ルナ。分かってるけど……やるべきよ」
リデルがそっと声をかける。
ルナはちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
この二日のあいだ、何度も翼を広げては――飛び立とうとするそぶりを見せ、そのたびに痛みに負けて地面へ爪を押しつけてきた。
その小さな試みが、今日で終わる。
グラナード家の庭には、アルスとセラ、トール、それに家の者たちが集まっていた。
バルドンは庭の端に立ち、大きな斧を手にしている。
刃はていねいに研がれ、朝日を受けて鈍い光を返していた。いつでも振り下ろせる、という構えだ。
ルナは、そんな大人たちの視線を避けるように、リデルの背中の後ろに身を低くして隠れている。
「拘束するか?」
バルドンが短く問うた。
「だめ」
即座に返したのはリデルだった。
「これは、ルナが選ばなきゃいけないの」
アルスは、その言葉を聞いた瞬間、前に檻の中へ入ったときのことを思い出した。
痛みを与える側ではなく、痛みを受ける側に選択を渡す。
あのときと、同じだ。
アルスはルナの前に歩き出し、振り返って手招きした。
「ルナ。怖いなら、僕のこと噛んでいいよ」
リデルの影から、ルナが恐る恐る顔を出す。
大きな瞳がこちらを見つめ、慎重に一歩、また一歩と近づいてきた。
アルスの目の前まで来ると、迷うように一瞬だけ足を止め――それから、決意したように首を伸ばす。
がぶり、とアルスの肩が噛まれた。
牙がアルスの肌に突き立てられる。
「よし、よし……」
片腕でルナの首を抱き込むようにして、ぎゅっと抱きしめる。
「ちょ、ちょっと。そんなことしたら、アルスが危ないよ!」
横からトールの声が飛んできた。
「いいんだ」
アルスはルナの体を支えたまま、短く答える。
「少しの痛みぐらい。ルナは今から、もっとすごいことをするんだから」
ルナは、細めた瞳でじっとアルスを見上げる。
牙にかかる力が、ほんの少しだけ強くなり、少しずつ肌に食い込んでくる。
怖さを噛み殺すみたいに。
バルドンは、その様子を黙って見ていた。
そして、何も言わぬまま一歩前に出る。
斧を肩の上へ持ち上げ――振りかぶった。
一度で切り落とすために。
余計な苦しみを長引かせないために。
「――っ!」
鈍い音とともに、刃が振り下ろされる。
次の瞬間、赤い飛沫があらゆる方向へ散った。
切り落とされた尾のほうで、まだ神経が残っているのか、ルナの筋肉が反射的に動いたのだ。
断ち切られた尾が地面の上で痙攣し、そのたびに血が土を染める。
それでも、ルナの上半身は必死に動きをこらえていた。
牙だけは、相変わらずアルスの肩を噛んだままだ。
アルスの服も、じわじわと赤く染まっていく。
「リデル! すぐに止血して!」
ミレイの声が響く。
「分かってる!」
リデルは用意していた包帯を手に取ると、すぐにルナの切り口へと駆け寄った。
布が瞬く間に赤く濡れていく。
それでも、巻き続ける。
魔石を使った簡易の止血具も併せて当て、血の流れを必死に押さえ込んでいった。
アルスは、ルナの頭を抱えたまま、その背をゆっくり撫で続けていた。
「大丈夫……大丈夫だから」
自分自身の肩からも血が流れているのを感じる。
でも、止めようとは思わなかった。
セラは、その一部始終から目を離さなかった。
導士として。
土脈隊として。
そして、ただ一人の見届け人として。
◆
ルナがようやく落ち着きを取り戻したころ、庭の空はすでに傾き始めていた。
痛み止めの薬が効いてきたのか、ルナはリデルの膝を枕にして、静かな寝息を立てている。
今日は一日、リデルが付きっきりになることになった。
アルスやセラ、バルドンとミレイはひとまず屋敷の中へ戻り、客間で腰を落ち着けていた。
トールは修練場に顔を出すと言って、ひと足先に出て行った。
ミレイが、アルスの肩へ新しい包帯を巻いてくれている。
噛み傷は深いが、骨まではいっていないらしい。
「グラナード家が、とても強い理由が分かりました」
出された茶を飲みながら、セラがぽつりと言った。
「みんな、信頼しあっているんですね」
「当たり前だ」
バルドンが短く答える。
窓の外では、リデルがルナのそばに座り、何か小さな声で話しかけている。
その姿を、誰もが自然と眺めていた。
「ここ数日は、驚かされてばかりです」
セラが続ける。
「わしもな」
バルドンの口元に、苦笑とも照れともつかない笑みが浮かんだ。
「常識にとらわれないことも、大切なことなのかもしれません」
セラの言葉に、バルドンとセラ自身が、思わずくすりと笑った。
「そういえば、犯人は見つかったんですか?」
包帯を巻き終えたアルスが、ふと思い出したように口を開く。
その問いに、部屋の空気がふっと張りつめた。
「……まだだ」
セラの声が低く落ちる。
「だが犯人は分かっている。組織的な常習犯で、珍しい生き物を密猟している」
言葉に、冷たい怒りが滲んでいた。
「今回は、そのうちの一人。ジルナールという晶装士だ」
アルスは、聞き覚えのない名を胸の中で繰り返す。
「必ず捕まえる」
短い宣告。
部屋の空気が一気に静まり返った。
セラは湯呑みの中身を飲み干し、音を立てないよう静かに卓へ戻す。
「今回、とても貴重な体験をさせていただきました」
やがて、セラが立ち上がった。
「今日はもう帰ります」
「うむ」
バルドンがうなずく。
「アルスも、また明日」
「はい。また明日」
そう答えると、セラは軽く手を挙げて客間を後にした。
扉が閉まる音を聞きながら、バルドンが小さく笑う。
「あやつも、少しは頭が柔らかくなったようだな」
「……指導も、もう少し緩くなったりしないでしょうか?」
アルスがつい期待を込めて言うと、バルドンは肩をすくめた。
「それは期待せんほうがいいだろうな」
ミレイがくすっと笑い、場の空気が少し和らいだ。
◆
夜、アルスは盆に乗せた食事を持って、再び厩舎へ向かった。
扉を開けると、驚くほど静かだった。
聞こえてくるのは、木と金属が触れ合う、こつこつとした規則正しい音だけだ。
リデルが、吊るされた義尾に向かって作業を続けている。
尻尾の長さを、ルナに合わせて微調整しているのだろう。
木で組まれた骨組みと、土の細工が繋ぎ目に施されている。そのひとつひとつを、彼女は確かめるように削っていた。
「はい、これ」
アルスが声をかけて盆を差し出す。
「ありがとう」
リデルは手を止めずに、言葉だけで返事をした。
アルスはその隣に腰を下ろす。
「なんか、作業速くなったね」
「そうかな」
リデルは少しだけ考えてから、言葉を続けた。
「マナも感じられるから、このあいだよりもっと正確な作業ができてる気がするの。
特に素体部分は、土のマナが潤沢だからやりやすいわ」
薄暗いランプの光に照らされた横顔は、子どもらしいあどけなさを残しながらも、もうヘンデルやノルンに劣らない職人の顔をしていた。
「……あっ」
小さな音がして、リデルの手元で器具の一部がぱきりと折れた。
「水のマナの観測機が壊れちゃった……どうしよう」
リデルが困ったように、しかしどこか期待を込めて、アルスのほうをちらちらと見る。
アルスは思わず笑った。
「……明日、学院から持ってくるよ」
「さすがアルス」
リデルが、安心したように、うれしそうに笑った。
厩舎の中には、再び静かな作業音と、草を噛むルナの小さな気配だけが満ちていった。




