第71話
翌日も、空は変わらず高かった。
アルスはいつものように学院へ向かっていたが、門へ近づくにつれて、人のざわめきが耳に入ってきた。
「かわいそうに……」
「なんてことを」
「誰がこんなことを」
ひそひそとした声と、押し殺した怒りが混ざった空気。
門の前に輪ができていて、その中心に、大きな鉄の檻が置かれていた。
檻の中に、真っ黒な獣がいた。
翼の生えた真っ黒な狼。
大きさはウィルよりほんの少し小さいくらいだが、大人二人は背に乗せられそうだった。
嘴のついた口元には、狼のような鋭い歯が覗いている。目は丸く大きく、鳥のようにくっきりとした輪郭をしていた。
耳は細長く、根元から少し反り返っている。
緊張しているのか、首まわりの羽毛が逆立ち、黒い毛並みは闇に溶けるような色をしている。
鳥の羽のような鬣が、首から背にかけて流れていた。
胴体の羽模様は、谷の等高線のようなカーブを何本も描いている。
脚は四足獣のそれだが、指先には鋭い鉤爪が生えていた。
爪の付け根には小さな羽毛の房がついている。
尾の根本には長い羽毛束があり、緊張に合わせて扇のように少しだけ開いたり閉じたりしていた。
目は琥珀色で、とても澄んでいた。
檻の近くには、セラとオルドが立っていた。
セラの周囲の空気が、いつもより冷たい。
「セラさん、何があったんですか?」
アルスが近づきながら声をかけると、セラはすぐにこちらを振り返った。
「アルス。下がっていろ」
短い言葉。
その瞬間、檻の中の獣が低く唸り、こちらを睨みつけた。
次の刹那、檻の床のわずかな隙間から土が噴き上がり。
檻の中から伸びた土が、鉄格子の隙間をすり抜けて、槍のようにアルスへ伸びてきた。
アルスは、その動きを見てからではなく、マナの揺れに合わせて体を横へ滑らせる。
周囲から小さなどよめきが起こる。
「晶獣?」
足を止めながら問うと、オルドが肩越しに答えた。
「そうだ。ただ、誰とも盟を持たない晶獣だ」
「誰とも盟を持たない?」
「そうじゃ。誰かが勝手に魔石を埋め込んだんだ」
その胸元には、中型ほどの大きさの魔石が埋め込まれている。
尻尾の先は、すでに硬い結晶になっていた。
オルドの声には、硬い棘が混ざっていた。
出会ったときの穏やかさは消え、表情も厳しい。
「アルス君。君も知っているかもしれんが、この国では獣に魔石を埋め込むとき、双方の契約がいるんじゃ」
「はい。知っています」
アルベスでも教わったことだ。
盟晶の儀と呼ばれ、その儀を受けた獣を晶獣と呼ぶ、と。
「しかし、その契約もなしに魔石を埋め込むような大罪人がいたようじゃ」
オルドの周りの大人たちも、顔を曇らせていた。
怒っている。
オルドだけではない。
見守っている教師たちも、警備の兵も、その視線に怒りと嫌悪を宿している。
そして、檻の中のこの獣自身も。
アルスは、ゆっくりと視線を檻の中に戻した。
黒い獣は、牙を見せているわけでも、暴れ回っているわけでもない。
しかし、肩には力が入り、全身がこわばっていた。
その目には、どこか怯えと疲れが滲んでいる。
「じゃあ今、この子は……」
アルスがつぶやくと、セラが低く答えた。
「突然マナを知覚できるようになり、困惑しているだろう」
続けて、視線を獣から外さないまま言葉を重ねる。
「感情のままに自身のマナが動き、勝手に魔法が発現している」
言われてみれば、檻の中のマナはぐちゃぐちゃだった。
怒り、恐怖、痛み――それらが、そのまま力になって漏れ出している。
「普通はマナの扱いを”盟友”に教えてもらうが、その相手はどこかに逃げたようだ」
セラが吐き捨てるように言う。
普通なら、契約を結んだ導士が側にいて、マナの扱い方を教える。
この獣には、その役割を果たすべき人間が、どこにもいない。
「もう尻尾のほうで結晶化も起きてしまっている。もう長くはない」
セラは、結晶になっている尾の先を見やった。
「それに、生き残ったとしても、あの尾では飛ぶこともままならんだろう」
アルスは、黒い翼と結晶化した尾を見比べた。
空を飛ぶための体を持ちながら、空を奪われる。
「なぜそんな酷いことを?」
気づけば、口に出していた。
「この子が珍しいからじゃろうな」
オルドの声が低くなる。
「珍しいんですか?」
問い返すと、オルドは頷いた。
「かなりな。翼獣の一種で、ルキア種と呼ばれている」
「ルキア……」
聞いたことのない名だった。
セラがオルドの言葉に付け足すように続ける。
「翼獣の中でも、頭も良くて身体能力も高い。森を音もなく飛ぶことから、“森の影”、“夜の狩人”とも呼ばれる」
周囲の教師たちが小さくざわめく。
「個体数も少なく、翼獣の中でもひときわ気性も荒く、プライドも高い」
「だから無理やり?」
アルスが呟くと、セラは重く頷いた。
「そうだろうな。信頼関係が築けないと思って、操ろうと無理やり埋め込んだんだ」
セラが静かに怒っているのを、アルスは肌で感じた。
周りのマナがわずかに揺れている。
セラ自身が何もしていなくても、その苛立ちが空気を震わせていた。
「この子はどうなるんです?」
アルスは、檻の中の獣から目をそらせないまま問うた。
「このまま、生きていてもいずれ結晶化が進む。だから――」
オルドが言いかけた、そのとき。
「ダメです!!」
鋭い声が、ざわめきと空気を切り裂いた。
皆の視線が、一斉にそちらへ向く。
◆
リデルが人垣をかき分けて、こちらに駆けてくる。
小さな体に不釣り合いな勢いで走ってきて、足元の土に躓きかけながらもどうにか踏ん張った。
突然の動きに、檻の中の翼獣がびくりと肩を震わせる。羽毛が逆立ち、低い唸りが漏れたが、今度は魔法が発現することはなかった。
「リデル……」
思わず名を呼ぶ。
リデルは振り返りもせず、オルドと檻のあいだに飛び出した。
「ま、待ってください!」
張り詰めた声が、ざわついていた空気を一瞬だけ鎮める。
「リデル君」
オルドが落ち着いた口調でリデルを呼ぶ。
だがリデルは、その声を聞きながらも一歩も退かなかった。肩で息をし、ぎゅっと拳を握りしめている。
「だって、この子は何もしてないのに、そんな――」
言い切る前に声が震えた。
檻の中の黒い瞳と、真正面から向き合っている。
(かわいそうなこと、ないじゃないか)
アルスも同じことを思っていた。
突然マナを押し込まれ、世界の見え方だけ変えられて、気づけば檻の中にいる。
その理不尽さを、うまく言葉にできない。
「リデル君」
オルドがもう一度名を呼ぶ。諭すような声音だ。
それでもリデルは、ぎゅっと唇を噛んで首を振った。
「――飛べなくなるぐらいなんですよね?」
ようやく絞り出した声は、怒りと悲しみで掠れていた。
「それなら、私が面倒見ます!」
迷いのない宣言だった。
周囲の教師たちが「何を言っているんだ」と小さくざわつく。
「おい」
隣から伸びた手が、そっとリデルの肩に置かれた。
セラだった。
「分かってる。みんな、お前と同じ気持ちなんだ」
セラの声は低いが、その中に責める色はない。
「リデルと言ったか? あの子を見てみろ」
促されて、リデルはもう一度檻の中を見た。
翼獣は、尻尾のほうを庇うように体を丸めていた。下半身をあまり動かすまいとするたびに、筋肉がぴくりと震える。
結晶化した尾の先が、わずかに土を擦るたび、痛みに耐えるように喉の奥で低い声が漏れた。
「結晶化は痛みを伴う」
セラが静かに言う。
「このままでは、周りに被害を撒き散らす獣になってしまう」
言葉に感情をあまり乗せていないのに、ひとつひとつが胸に刺さった。
痛みに耐えられなくなったとき、暴れる。暴れれば、その力は周りを壊す。
「……はい」
リデルは小さく返事をした。目はまだ涙で滲んでいる。
「いや、ありがとう」
セラが言った。
「お前が、みんなの気持ちを代弁してくれたんだ」
周囲で黙って見ている大人たちも、顔を伏せたり、唇を引き結んだりしている。
誰もが胸の内で同じことを思っていて、ただ言葉にできなかっただけなのだ。
「それに、すぐに処分するわけにもいかない。危険だから、許可もいる」
セラは短く現実を告げる。
勝手に判断して殺すことも、ここに放置しておくこともできない。
「なら、それまで一緒にいていいですか?」
リデルが顔を上げた。
「刺激はしないようにしますので……」
必死に絞り出した言葉だった。
本来なら、檻に近づけるだけでも危ない。
セラはちらりとアルスに目をやる。
アルスは無言で、その視線を受け止めた。
危険は分かっている。それでも――と、自分もどこかで思っていた。
「……わかった。それで気が済むのなら」
セラはそう答えた。
リデルはほっと息を吐き、檻のそばまで一歩だけ近づいた。
黒い翼獣が、その小さな人影をじっと見つめ返す。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかにだけ緩んだ。




