第70話
あれから、もうひと月ほどが過ぎていた。
毎朝の鍛錬、学院での授業、そして夕方からのセラの修行。
どれもが「少しキツい」ではなく、「全力でやっとついていける」ものばかりだ。
その日も、アルスは日課の反復練習を終えたところだった。
グラナード家の裏庭。
固く踏み固められた土の上に、ひとりと三匹が転がっている。
「ウィル。変わって。明日から代わりにセラさんの修行やってきて」
アルスはウィルの首元に抱きつきながら、地面に溶けるような声で言った。
ウィルは「また始まった」という顔で、ふん、と鼻を鳴らすだけだ。
尻尾は一応、ゆっくり一度だけ揺れた。
少し離れたところでは、バルトンの晶獣で岩狼のガロンが日向の土の上で大の字になって寝ている。
石と土でできた大きな体が、まるでただの岩の塊のように動かない。
ミレイの晶獣で翼獣のハルナは木陰から、そんな三者を眺めていた。
澄んだ瞳に浮かぶのは、心配というより――どこか、手のかかる子どもを見るような柔らかさだった。
「みんなの名前は今からアルス=ローデンだからお願い……誰か代わりに行って……」
アルスは、地面に向かって半分本気、半分投げやりに呟く。
ウィルは耳だけ動かし、ガロンは微動だにせず、ハルナは小さく瞬きをしただけだった。
「ひどい……」
情けない声が、自分でも情けなく聞こえる。
セラの修行は、思っていた以上に容赦がなかった。
土の上に立っているだけで、全方位から魔法の気配が飛んでくる。
体にマナを纏う訓練も、慣れないうちは全身が鉛のように重くなる。
体のどこかが常に痛くて、どこかが常にだるい。
アルスは、ウィルの首に頬を押しつけたまま、土の感触だけは確かめておこうと、足の裏に意識を落とした。
そんなときだった。
「あら、アルス。ただいまー」
門のほうから、明るい声がした。
振り返ると、リデルが大きな荷物を抱えて立っていた。
両腕いっぱいに箱や包みを抱え、その顔だけがひょこっと覗いている。
「おかえりー……」
アルスは、力の抜けた声で返事をした。
「相変わらずモテモテね」
リデルは笑いながら近づいてくる。
ウィルにしがみついているアルス。
日向で転がっているガロン。
木陰から様子をうかがうハルナ。
その光景を見れば、そう言いたくもなるのだろう。
アルスは、ようやく身体を起こした。
「持つよ」
そう言って、リデルの腕から荷物を受け取る。
予想以上の重さに、思わず腕が沈んだ。
「重いね。これ、何?」
「ようやく、試しに魔道具を作ってみることになったから。材料と器具を学院から持ってきたの」
リデルの声には、疲れと同じくらい高揚が混じっている。
この一ヶ月、リデルは学院でも忙しそうだった。
図書室にこもって書物を読みふけったり、街で義手や義足をつけた人に話を聞いたり、その義肢を作っている職人のところへ通ったり――そんな姿を、アルスは何度も見ている。
「見てもいい?」
自然と、そう口をついて出た。
「いいよ」
リデルは嬉しそうに頷いた。
◆
グラナード家の裏庭には、作業場がある。
塀に囲まれた一角に、屋根だけの簡素な建物があり、そこに机と棚が押し込まれていた。
道具類がたくさん並んでいるが、どれも長いこと使われていないのか、薄く埃をかぶっている。
「わあ、こんなに器具あるんだ。持ってこなくて良かったかも」
棚を見上げながら、リデルが小さく笑う。
「広いね」
アルスは荷物をそっと床に下ろした。
木箱の角が土に沈む鈍い音が響く。
「ありがとう、アルス」
「ううん」
リデルは箱を開け、中身をひとつずつ取り出し始めた。
金属の輪や細い棒。
皮のバンドや、見慣れない形の工具。
そして、小さな木片がいくつも、包み紙にくるまれている。
「できそう?」
アルスが尋ねると、リデルは手を止めて、少しだけ考えるように目を細めた。
「そうね。技術的には、できると思う」
慎重な言い方だった。
「資料とか、実際に作ってるところとか見せてもらったから。やり方自体は分かるよ」
その声音には、覚悟の色も混じっている。
「でも問題は、この魔道具の素体にする材料」
リデルは包みから木片を取り出して、掌の上で転がした。
温かみのある、淡い色の木。
土のマナを含んでいるのか、指先にかすかなざらつきが伝わってくる。
「たまに街で見かけるでしょ、義手とか義足つけてる人」
「うん」
アルスは以前、街角で見た人々の姿を思い出した。
片腕だけ木になっている人。
膝から下が金属と革で出来ている人。
それが当たり前のように、そこにあった。
「これが本人に合っていないと、そもそもうまく動かないし、拒絶反応もあるかもしれないんだって」
「拒絶反応?」
「すごく痛いんだって」
リデルの顔が、少し曇る。
アルスは、自分の腕を見下ろした。
自分の体のどこかが、別のものに置き換わる想像をしてみる。
上手くはできなかった。
リデルは続ける。
「土の国には、潤沢な土のマナを含んだ木がたくさんあって、その中から選びやすいんだけど……」
掌の木片を、光にかざして眺める。
「アルベスでは、そういう木を用意するのが難しいかもしれなくて」
「どんな木がいいの?」
アルスは素朴な疑問を口にする。
「なるべく本人の代わりとなる部分と、似てないといけないんだって」
「?」
アルスには、うまくイメージができない。
似ているとは、形なのか。
硬さなのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
「ま、その前に私がちゃんと作れるようにならなきゃって感じで、まずは試作してみようかと」
リデルは、そう言って照れくさそうに笑った。
「見てていい?」
アルスが尋ねると、リデルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。
「いいよ」
返事は短かったが、口元がわずかに緩んでいた。
◆
それからしばらく、作業場には静かな音だけが響いていた。
木片を削る、さらさらという音。
細い道具が金属を叩く、かすかな高い音。
マナを通したときに、素材が応える低い震え。
アルスは邪魔にならないよう、作業台から少し離れた場所に腰を下ろして、それを見ていた。
リデルは集中すると、ふだんより口数が減る。
眉間に少しだけ皺を寄せ、手元だけを見つめている。
工具を持つ指先は、驚くほど迷いがない。
このひと月のあいだに、何度も頭の中で組み立ててきたのだろう。
ウィルたちは、作業場の入口近くでそれぞれ好きなように寝そべっていた。
ガロンは相変わらず岩のように動かず、ハルナはときどき顔を上げてリデルの背中を見ている。
ウィルだけが時折、アルスのそばまで来て、鼻先で腕を小突いた。
「……大丈夫だよ。ちゃんと見てる」
アルスは小声でそう返し、再び視線を作業台に戻す。
リデルの指先で、木と金属が少しずつ魔道具の形を取り始めていた。
土の国の木。
そこに、誰かの失われた手足の代わりとなる仕組みを組み込んでいく。
それはきっと、この国でしか生まれないものだ。
静かな作業音が続く。
セラの修行のときとは違う。
ここには、痛みも怒号もない。
そのかわりに、じわじわと積み重なっていく何かがある。
アルスは、工具の音と、マナが揺れる気配を聞きながら、大きく息を吐いた。
修練場とは違う場所で、それぞれの「修行」が始まっている――そんなことを、ぼんやりと思った。




