第69話
翌日の修練場は、いつもより少し静かだった。
抉られた溝や砕けた土柱が、斜めの光を受けて影を落としている。
その真ん中で、トールがひとり、土を操っていた。
足元から伸びた土の柱が、一瞬で槍に変わる。
次の瞬間にはそれを砕き、粉々になった土を宙に散らし、また集めて、板にして――。
休む間もなく、形を変え続けている。
アルスが修練場の入口に立つと、トールがこちらに気づいた。
土を鳴らして駆け寄ってくる。
「アルスくん。いや、アルス!」
呼び方を言い直したところで、勢いは変わらない。
「次は負けない!」
「うん」
短くうなずくと、トールは満足げに笑った。
そのとき、修練場の空気がわずかに張りつめる。
入口のほうから、規則正しい足音が聞こえてきた。
セラが来たのだ。
トールの背筋がぴんと伸びる。
アルスも軽く頭を下げた。
「揃ってるな?」
セラは二人を一瞥する。
「今日は、自分の課題について認識してもらう」
いつもより、少し硬い声音だった。
「トール」
名を呼ばれて、トールの肩がわずかに跳ねる。
返事の代わりに、姿勢を正して向き直った。
「昨日、お前はなぜ負けた?」
淡々とした問いかけ。
トールは唇を結び、一拍置いてから答えた。
「……油断しました」
「それで?」
すかさず、もう一つの問いが重なる。
「相手の分析を、怠りました」
「そうだ」
セラは短く肯定した。
「相手を見誤ることは、死に直結する」
その一言に、トールの喉がごくりと鳴る。
セラは続けた。
「他には?」
「……わかりません」
トールは正直に首を横に振る。
「そうか」
セラは視線を少し下に落とした。
「お前が負けた原因は、二つある」
土床を一度だけ踏む。
「一つは、マナの扱いが大雑把すぎることだ」
適度な間を置いて、言葉を継ぐ。
「アルスがやっていたように、大小さまざまな魔法を使うことで、相手を惑わす必要がある。すべて大きい魔法になると、それだけ発動に時間がかかる」
自分の名が急に出てきて、アルスは胸の奥がどきりとした。
セラの目は、トールから逸れない。
「もう一つは、マナの操作範囲を見破られたことだ」
トールの表情が強張る。
「アルス」
「はい」
「トールはどのくらいまでマナを操作できる? そこまで行ってくれ」
アルスはうなずき、トールの正面に立った。
昨日までの戦いを思い返す。
土の槍が届いた距離。板に弾き飛ばされた位置。足元の波にさらわれたあたり――何度も倒れた場所と、その少し外側。
その記憶をなぞるように、ゆっくり歩幅を数えて前へ進む。
「ここだ」と感じたところで、アルスは足を止めた。
「ここです」
アルスが振り向いて言う。
かなり離れている。
トールの攻撃が届くより、少し外側。
トールの目が見開かれた。
自分でも気づいていない距離まで、マナを伸ばしていたこと。
そして、その外側から、その「端」が見抜かれていたこと。
その両方に、今さらながら気づいたようだった。
「トール。分かるな?」
セラが静かに問う。
「もうこうなったら、お前の魔法は、ほぼ当たらない」
「――はい……」
トールは唇を噛み締めながら答えた。
「どうすればよかった?」
「悟らせないように……動くとか、するべきでした」
「それだけじゃない」
セラの声が、少しだけ鋭くなる。
「魔法の使い方も工夫しなければならなかった」
トールは、何かを噛みしめるように目を伏せた。
悔しさと共に、自分がまだ磨き切れていないことを、ようやく認め始めているようだった。
「次に、アルス」
セラが視線を向ける。
アルスはトールのそばから離れ、セラの前まで歩いた。
「はい」
背筋を伸ばして答える。
「お前に関しては、問題だらけだ」
容赦のない一言だった。
心臓が、きゅっと縮む。
「まず、マナの操作が遅すぎる。まあ、それはもう分かっているようだな」
アルスは小さくうなずいた。
「次に、反応が素直すぎる」
「?」
思わず首を傾げる。
「お前が昨日やったように、いろんな魔法を調整されたり、マナを集めるだけのフェイントを、トールにやられていたらどうなった?」
昨日、自分が試したあれこれが頭に浮かぶ。
砂埃。
時間差。
隙間を狙う細い魔法。
それを全部、今度は自分が受ける側だったとしたら――。
背中に、冷たい汗が流れた。
「……」
答えずとも、結果は見えている。
避けられない。
目を奪われた一瞬に、致命傷をもらって終わる。
「お前にトールが言った、『自分ができることは、相手もできると思え』を忘れるな」
「はい」
アルスは、喉が渇くのを感じながら答えた。
自分が「思いついた」工夫は、相手も同じように使える。
それを前提にしていなければ、いつか自分の首を絞める。
「ただ――」
セラは一瞬、言葉を切った。
「経験が少ない割には、発想は良かった」
ほんの少しだけ、声音が和らぐ。
アルスは驚いて顔を上げた。
セラはすぐに表情を引き締め直す。
「次に、知識が足りてなさすぎる」
「……知識?」
聞き返す。
「そうだ」
セラは即答した。
「今回は、相手が土の魔法士だったから良かったものの――」
言いながら、視線を修練場の土床に落とす。
抉れた跡。
砕けた柱。
「これが風の魔法士だったら、どうやって魔法を察知するか、分かるか?」
セラの問いに、修練場の空気がひやりと冷えた気がした。
アルスは無意識に、足の裏に意識を落とした。
土の中を流れるマナの線。
それを頼りにしてきた、自分の感覚。
だが、風には、土のような重さも、形もない。
(風のマナを感知すればいいのでは?)
一瞬そう考えて、アルスはそこで思考を止める。
確かに、自分は風のマナを感じることができる。
けれど今セラが聞いているのは、そういう話ではない。
“土のマナで”どうやって察知するか――その方法だ。
口を開きかけて――言葉が出てこない。
「なら、今から私が魔法を使おうとするから、魔法の痕跡と思われるものがあればいくつあったか数えろ」
セラの声が、淡々とした調子で告げる。
次の瞬間、セラの周りに土のマナが集まった。
地面の下で、いくつもの細い流れが動き出す。
アルスの感覚からすれば、その中心に集まる大きな流れを捉えるのは簡単だった。
そこに一本、はっきりとした線がある。
「4つです」
そう答えたのは、周囲で動いたわかりやすい流れを数えたからだ。
「もう一度言うぞ、『魔法の痕跡』を数えろ」
セラの声音が、わずかに強くなる。
(魔法の……痕跡?)
何を言っているのか、すぐには飲み込めない。
今動いているマナの線以外に、何かあっただろうか。
「トール。いくつだ?」
「8です」
迷いのない即答だった。
「惜しいな。9だ」
セラがわずかに口元だけを動かす。
自分とトールの答えの差に、アルスは目を瞬いた。
「トール。説明してやれ」
「はい」
トールが一歩前へ出る。
足の裏で土を踏みしめながら、セラの周囲をぐるりと見回した。
「セラさんの右上に土のマナが飛び散っています。おそらく風の魔法を使おうとして、マナが拡散してます」
セラの頭上、少し離れた空間。
アルスはそちらに意識を向ける。
確かに、ごく薄く土のマナが散っているような感触があった。
さきほどまで、気にも留めなかったほどの微かな揺れだ。
「次に――」
トールが淡々と説明する。
セラの足元の土が、わずかに内側へ引き寄せられていること。
左後ろのほうでは、土のマナが細かくばらけ、水のようにまた集まりかけていること。
少し離れた位置には、さきほど試しに火を起こそうとした痕跡が、粉のように残っていること。
「――だと思います」
ひと通り言い終えて、トールは口を閉じた。
「あらかた、いいだろう」
セラが軽く頷く。
「実際には私は他の魔法は使えんが、土のマナの動きを見ればある程度の危険は察知できる」
セラの言葉に合わせて、足元のマナの流れがすっと静まった。
さっきまで騒がしかった線が消え、修練場はいつもの土の気配に戻る。
「だから知識として入れる必要がある」
何を、どのように危険と見るのか。
どの程度の揺れなら、どの系統の魔法の前振りになり得るのか。
アルスは、自分が「感じられる」ことに安心して、その先にあるべき知識をまるで持っていなかったことを思い知らされる。
知らなければ、見えない。
知らなければ、死ぬだけだ。
胸の奥に、ひやりとした重みが落ちるのを、アルスははっきりと感じていた。




