第67話
翌朝。
学院の修練場には、まだ冷たい空気が残っていた。
昨日までに刻まれた無数の溝や抉れた跡が、斜めに差し込む朝日で浮かび上がる。
その真ん中に、アルスとトールが向かい合って立っていた。
「アルスさん! 今日は何考えてきたんですか?」
開口一番、トールが笑う。
息は弾んでいない。肩の力も抜けている。
もう何度も繰り返してきた勝負の延長だと、彼は本気で思っているのだろう。
アルスは答えず、静かに息を整えた。
足の裏で土を踏みしめる。
トールの“射程圏内”――あの少年が自在に土を飛ばせる範囲の、そのぎりぎりの縁を行ったり来たりしながら、じりじりと歩を進めていく。
「今日はまた砂埃で目眩ししますか? それとも遠くから当たるのを祈って魔法を打ちますか?」
相も変わらず、トールの口数は減らない。
挑発を受けながら、アルスは土の中のマナの流れに集中した。
(――もう、真正面から当てようとは思ってない)
トールが片足で床を強く踏みしめる。
足元から土の杭が何本も立ち上がり、蛇のようにアルスの足首を絡め取ろうと迫ってきた。
アルスはその直前に一歩だけ横へずれる。杭はぎりぎり踵をかすめて通り過ぎ、遅れて砕けた土片が裾を叩いた。
トールの攻撃は容赦ないが、三日目までの動きの積み重ねで、アルスの足も体もようやく追いつき始めていた。
ただ逃げているわけではない。避けながら、どの位置なら生き残れるかを測っていく。
アルスは逃げながら、今度はこちらからも魔法を織り交ぜていく。
拾い上げた小石ほどの土の塊を、軽く弾くように前へ飛ばす。
トールはそれを見もしないで払った。足元の土を少しだけ盛り上げ、軌道をずらすだけで、塊は簡単に横へ逸れていく。
さらに、棒状の土を細く伸ばし、足元から狙う。
短く、速く。自分なりに出来る限りの速度で。
それもまた、トールの足が動く前に、周囲の土が先回りして棒の進路を塞いだ。
小さすぎる魔法には、ほとんど目もくれない。
ある程度以上の大きさと勢いになった途端、トールの意識がそちらへ向き、即座に対応される。
(どこからが意識の対象外なのか――)
アルスはそう考えながら、魔法の大きさと速さを少しずつ変えていった。
ふと、特定の大きさの魔法にトールが反応していないことに気づく。
それは、トールが周囲の土を動かすために流し続けているマナの“波”に、かき消されてしまうくらい小さな魔法。
土の中に見えない印をいくつか置いておく。
小さく、目立たず、けれど確かにそこだけマナの密度が高くなるように。
自分の足元にも、ひとつ。
続けて、今度は斜め後ろから細い土の針が走る。
アルスは振り返らない。
土の中でマナが細く絞られる感触だけを頼りに、身を屈めて転がるように前へ出る。
針はさっきまでアルスがいた場所を貫き、床に浅い傷を刻んだ。
トールの感覚なら、本気で狙われている魔法の前兆には必ず気づく。
ならばそこを狙う。
息を整えながら距離を取り直す。
(――仕掛ける!)
アルスは、思い切って地面に手をついた。
土が浅く削れ、ざらりと舞い上がる。
砂埃が一気に広がり、視界を淡い茶色で覆った。
「またこれですか? これは通用し――」
トールが言いかけた瞬間、その周囲でマナの揺れが一斉に跳ね上がった。
いろんな方向から、時間差で土の棒が飛び出す。
足元から。
背後から。
斜め上から。
トールを囲むように、土の棒が襲いかかった。
「――っと!」
トールが床を蹴る。
砂埃の向こうで、小さな影が滑るように動いた。
伸びてくる棒を、最小限の動きで避けていく。
手のひらで叩き折り、足で弾き、時には土の塊をぶつけて軌道を逸らす。
一本、また一本。
土の棒は次々と砕かれ、ばらばらの破片になって床に落ちた。
「甘いですよ。こんな子供騙しが通用するとでも」
砂埃の中から、トールの声が響く。
「――うん」
短い返事が返った。
そのときには、アルスはもうトールの懐に潜り込んでいた。
砂埃のおかげで、トールの視線は遠くから飛んでくる魔法に向いている。
すぐそばで動く気配には、ほんのわずかに意識が遅れる。
「でも、”これ”に気づかなかったでしょ」
アルスは自分の足元を指先でなぞった。
そこには、さっきからずっと溜めていた小さなマナの塊がある。
最初に印を付けた、目立たない“跳ねる場所”。
さっきまで飛んでいた棒よりも、ずっと小さい。
トールの感覚なら、“狙われている”とは判断しなかった前兆。
アルスは、トールの腹の前――自分の足元のすぐ上で、そのマナを一気に解放した。
床の土が、ぽん、と軽く跳ねる。
避けようとするトールの腕を掴む。
「力強っ――」
トールが反射的に身を引こうとした瞬間、
跳ね上がった小さな土の塊が、そのまま彼の腹にぶつかった。
「……っ!」
トールの体がびくりと揺れる。
衝撃は大きくない。
だが、完全に予想外の方向からの一撃だった。
◆
当たったのは小石程度の土。
衝撃も、何もあったものじゃない。
だが、それでも事実として――当たった。
「い、今のはノーカン!」
トールが叫んだ。
腹を押さえながら、信じられないものを見るようにアルスを指差す。
「そんな小さい魔法は反則でしょ!」
アルスは何も言わなかった。
ゼエゼエと荒い息を繰り返しながら、ただ立っている。
砂埃の向こうで、セラの視線だけが静かにこちらを見ていた。
「いや。お前の負けだ、トール」
セラが口を開く。
「負けてない!」
トールが振り返る。目尻がうるんでいる。
「こいつがナイフを持っていたら、お前は死んでいたな」
「――っ!」
言葉を失ったトールの喉が鳴る。
さっきの一撃は、ただの土の塊だった。
だが、あの距離で、腹ではなく喉や胸を狙われていたら――。
トールは悔しそうに唇を噛み締め、そのまま踵を返した。
土を蹴る音が、修練場から遠ざかっていく。
残された静寂の中で、セラがアルスのほうを見た。
「アルス君。おめでとう。よくここまでやった」
「はい」
喉が乾いて、うまく声が出ない。
それでも、どうにか絞り出す。
「――でも、今のはトールが未熟だったからこそだ」
「……はい」
それも分かっていた。
もしトールがもう少し年上で、もっと場数を踏んでいたら。
あの一撃さえ、簡単に見切られていたかもしれない。
「やらなきゃいけないことはわかるな?」
セラの問いかけに、アルスは頷く。
「マナの扱いを、もっと上手くできるようにならなければいけません」
「そうだ。魔法の発動の遅さは、魔法士にとって致命的だ」
導士であろうと、晶装士であろうと。
“魔法を使う者同士”で戦うなら、それは変わらない。
「すぐに出来るようになりなさい。それまで待ってあげるなんてことしないわ」
言いながら、セラはほんのわずかに目を細めた。
「だから明日から、マナの使い方を体に叩き込む」
その声音には、容赦という言葉が一切なかった。
「音を上げないわよね?」
アルスは背筋を伸ばした。
「はい!」
返事は、さっきよりはっきり出た。
胸の奥で、恐怖と同じくらい強い期待がじりじりと熱を持ち始めていた。




