第64話
あの日から、三日が経っていた。
翌日も、その次の日も、アルスは決まった時間に学院の修練場へ足を運んだ。
二日とも、結果は似たようなものだった。
門の前でリデルに「また行くの?」と心配そうに見送られ、
修練場の真ん中でトールに「懲りないね」と笑われ、
全力で魔法を放って、全力で打ち砕かれて、土まみれになって帰る。
初日は何が何だか分からないまま吹き飛ばされ、
二日目は「もっと攻めれば何とかなる」と思って踏み込んでいって、より酷くやられた。
そして三日目――今日は、最初から決めてきた。
攻撃は狙わない。
「避けることだけに集中して、観察する」ことにする。
◆
「アルスさん、また避けてばっかじゃ、一生クリアできないよ!」
土の上を蹴る音と一緒に、トールの声が飛んできた。
修練場の土床には、今日も新しい傷跡が増えている。
抉られた溝、砕け散った板の破片。昨日と一昨日、その前から刻まれた跡の上に、さらに上書きされていく。
アルスはその中央で、息を整えながら立っていた。
(挑発には、乗らない)
胸の中で静かに言い直す。
足元から、土の中のマナの流れが伝わってくる。
トールが片手を上げる。
床が、波打つように盛り上がる。
アルスはその前兆を、ほんのわずかに早く感じ取ることができた。
脚に力を込め、横へ跳ぶ。
さっきまでいた場所から、土の柱が鋭く突き上がった。
細い槍の群れが、一拍遅れで空を突く。
「わかった! それなら付き合うよ!」
トールが笑った。
楽しそうな声と反比例するように、攻撃の勢いは増す。
土の床がさざ波のように震え、複数の点から一斉に塊が浮き上がる。
拳大、耳石ほどの大きさの塊が、ばらばらの軌道でアルスを襲った。
アルスは走る。
前に出るのではなく、横へ、斜めに。
迫る塊の、僅かな隙間を縫うように。
頬をかすめていく土の感触。
耳元で弾ける破裂音。
昨日までなら、避けきれずに肩を打たれ、足をもつれさせて転んでいた。
だが今日は――昨日より、避けられる。
息が荒くなりながらも、アルスは頭のどこかを冷たいままに保つ。
(魔法の発生範囲、魔法の種類、速さ……それから――)
床を伝ってくるマナのうねりに、意識を集中させる。
(発生する“場所”)
トールがマナを握るとき、その気配は一点だけではない。
足の裏、指先、その場の土のあちこち。
だが、毎回完全にばらばらというわけでもなかった。
トールの腕が動くたびに、決まって強く揺れる場所がいくつかある。
目では見えないが、足の裏と、皮膚の奥で、そこが分かる。
いつ、どこに、どんな魔法を打ち出そうとしているのか。
それが、少しずつだが分かるようになってきていた。
視線に頼らない。
広い意味で「視える」わけではない。
けれど、危ないと感じる方向は、もう勘だけではなくなっていた。
「アルスさん、こっち!」
トールが指を鳴らす。
距離が離れる。
一定の範囲を超えると、トールは魔法の使い方を変えた。
近いときは足元を抉り、壁で挟み込む。
一定以上離れると、土を飛ばす魔法だけに切り替えるか、逆に距離を詰めてくる。
(おそらく、トールがマナを自在に操作できる距離の端……感知できる外れ。そこから先は、勘と経験で補ってる)
アルスは、そんな仮定を頭の中に置く。
「もう! 逃げてばっかり!」
トールが不満そうに叫んだ。
マナの流れも、わずかに荒くなる。
足元から伝わる土の脈動が、ささくれ立つ。
(イライラしてる……)
それも、アルスには分かる。
「……ほう?」
修練場の端で腕を組んでいたセラが、わずかに口角を上げた。
視線は、アルスとトールの間を行き来している。
ほんの少しだけ、その目に興味が宿った。
「くそ!」
トールが舌打ちする。
片腕を大きく振りかぶると、床の広い範囲から同時に土が盛り上がった。
さっきまでの塊とは違う。
地面そのものが、高さを持って押し寄せてくる。
アルスは直前でその波から身を翻す。
足元で土の板が立ち上がり、空気を切り裂いて通り過ぎていく。
板がぶつかった壁は、鈍い音を立ててひび割れた。
砂埃が、視界一面に舞い上がった。
目の前が、黄土色に染まる。
息を吸うと、喉に砂のざらつきが張り付いた。
「どこだ!?」
トールの声が、反対側から聞こえた。
土を動かす気配が、あちこちで散る。
(――いける)
アルスは足元の土を軽く押し、その反動を使って横へ跳んだ。
砂埃に紛れて、トールの側面から回り込む。
足が滑らないように、地面との接触を確かめながら進む。
土の中のマナの流れが、前方に集まっているのを感じる。
トールは正面のどこかに、次の一撃を準備している。
(後ろは、今――)
空いている。
アルスはトールの背後に出る位置まで走り込んだ。
息をひとつ殺し、掌を土に向ける。
足元から、細い棒を伸ばす。
砂に紛れて、背中を狙うように。
魔法が発動しようとした、その瞬間――。
「やっと、引っかかったね」
砂煙の向こうで、トールがニヤリと笑った気配がした。
アルスの足の裏に、ざわりと冷たいものが流れ込む。
(……!)
危険な信号が、一帯を駆け巡る。
(避けられない)
反射的に体に力を入れたときには、もう遅かった。
足元の土ごと、下から大きく弾き飛ばされる。
視界が裏返った。
体がふわりと宙に浮き、そのまま横向きに投げ出される。
地面に落ちた衝撃が、鈍い痛みとなって背中から走った。
口の中に、乾いた土の味が広がる。
トールの足音が、近づいてきた。
「自分が出来ることは、相手もできると思わなきゃ」
見下ろす声。
(そうか……)
アルスは、痛みの向こうで理解する。
(僕がトールの魔法の前兆を感じられるように、トールも僕の魔法の前兆を感じていたんだ)
”自分にできることは、相手にもできる。”
その当たり前を、今の今までどこかで忘れていた。
アルスは、土を払って上体を起こした。
「……ありがとう。教えてくれて」
息を整えながら言う。
トールは一瞬、目を丸くした。
悪態として言ったつもりだった。
それなのに、目の前の少年は、本気で礼を言っている。
全然効いてないどころか、むしろ喜んでいるように見える。
妙な不気味さが、トールの背筋を少しだけ撫でていった。
「それにお兄さんの魔法は発動が遅すぎるね」
トールは苦笑する。
「それじゃ一生、僕には当てられないよ」
言葉は容赦ない。
けれど、その口調には、最初の頃ほどの嘲りはなかった。
アルスは黙って、土の感触を確かめる。
足の裏から、修練場全体のマナの流れが伝わってくる。
トールが土を動かせる範囲。
その外側。
自分の感覚が届く場所を、静かに測ってみる。
――トールが「遠い」と感じるよりもっと先にも、かすかな揺れを感じ取れる。
セラが見ている位置より、少し後ろ。
修練場の端の、さらに向こう側。
土の中を流れるマナのかすかな骨組みが、そこまで伸びているのが分かった。
だが、トールは気づいていない。
アルスが、トールの魔法範囲の遥か外から、魔法の前兆を感知できていることを――。




