第62話
黒髪の女性の視線が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。
「だ、誰だお前は」
さっきのより、ほんの少しだけ語尾が強くなった。
「……アルスです。アルス=ローデンと言います」
アルスは慌てて名乗る。
「こ、この学院で土の魔法を学ばせてもらいたくて、その……」
言いながら、胸元の荷物を探った。
リュマから預かった封筒の感触が、指先に触れる。
「えっと、これをリュマから預かっていて」
アルスは封筒を取り出し、両手で差し出した。
「リュマ?」
女――セラは、名前を聞いた途端に片眉をわずかに上げた。
近づいてきて、乱暴ではないがためらいなく封筒を取る。
封蝋を爪で割り、中の紙を引き抜いた。
ゆっくりと、目を走らせていく。
修練場の真ん中では、少年――トールが息を整えながらも、ちらちらとこちらを気にしていた。
だが、セラは一度も少年のほうを見ず、紙から視線を外さない。
静かな時間が流れた。
やがて、紙面からふと目を離し、セラはアルスのほうを見た。
その瞬間、足元がぐらりとした気がした。
地面そのものが動いたわけではない。
だが、足の裏からじかに伝わってくる「何か」の流れが、急に変わる。
土の中で、何かが起きかけている。
そんな感じが、ひやりと膝から上がってきた。
思わず一歩、踏みかけた足を止める。
「……」
セラは何も言わず、紙に視線を戻す。
土はそのままだった。
足元の違和感も、いつの間にか消えている。
さっきのは――気のせいだったのだろうか。
アルスが戸惑っていると、セラが紙を折りたたみながら短く言った。
「リュマの弟子?」
視線だけが、またこちらに向く。
「今ので反応もできないのに?」
言葉と同時に、足元の気配が再び変わった。
さっきよりも、はっきりと。
土が持ち上がろうとする。
アルスの足の真下で、何か細いものが形になりかけているのを、皮膚の裏側が察知した。
胸がきゅっと縮む。
考えるより先に、体が一歩、後ろへ跳ねた。
足を離した途端、さっき自分が立っていた地点で、ごく小さな音がした。
土の表面が、針の先で突かれたように、ちいさく崩れる。
アルスは自分の足元と、その少し前の地面とを見比べた。
セラは紙を封筒に戻しながら、わずかに口角を上げた。
「まあ。勘はいいみたい」
淡々とした声だったが、そこにわずかな評価の色が混ざっているのが分かった。
「アルス君? と言うのかな?」
セラが、封筒を指先でくるりと回す。
「私に向かって、魔法を放ってみてくれ」
「……いいんですか?」
アルスは思わず聞き返した。
さっき足元で起こりかけたことが、なんだったのかは分からない。
ただ、「この人に向けて撃つ」ということが、妙に大きなことに思えた。
「いいよ」
セラはあっさりと言った。
「どうせ当たらない」
言い切られた。
アルスは息を飲む。
けれど、ここで断ったら、きっと何も始まらない。
アルスは土の上に片膝をつき、手のひらを地面に当てた。
掌の下の土は、乾いているが、ほどよく締まっている。
そこに、自分のマナを押し込む。
土が、ほぐれる。
絡め取るように先を細くして、棒のような形にまとめていく。
その棒を、セラへ向かって突き出した。
伸ばした先で、土の棒がぐんと細くなる。
速度を上げようと意識を込めた、そのときだった。
別の場所から、鋭い何かが走ってきた。
土の中を伝ってくる、刺さるような気配。
次の瞬間、横合いから飛び込んできた細い土の針が、アルスの伸ばした棒をあっさりと貫き、粉々に砕いた。
「――なっ?」
アルスは目を見開いた。
自分が形にするよりも早く、別の土が動いた。
自分より強い力で、自分の魔法を叩き壊した。
「遅い」
セラの声が落ちる。
「遅すぎる。本当に土の導士なのか? 十歳くらいの子でも、もう少し速いぞ」
言いながら、セラは手を軽く払った。
足元で、あの針のような土の気配が、音もなくほどけていく。
アルスは喉がひりつくのを感じた。
自分の魔法だけが壊されたのではない。
もしさっき、足元で起きかけていたものが本気で向けられていたら――と想像しかけて、思考が途切れる。
セラはため息をつき、封筒――紹介状をアルスに突き返した。
「嫌だ」
短く。
「お前への指導はしない」
「……僕が弱いからですか?」
思わず口から出ていた。
セラは即答する。
「そうだ」
迷いはない。
「それにね」
わざとらしく肩をすくめる。
「大して努力もしてないくせに、コネを使えばなんとかなると思っている人間が嫌いなんだ」
「コネって、そんなこと――」
否定しようとして、言葉が喉で止まった。
実際には、リュマの紹介でここに来ている。
何も知らない土地で、誰の目にも止まらずに学院へ入ろうとしたわけではない。
リュマの顔が浮かぶ。
あの人は、アルスを信じていた。
自分の弟子として、土の国に送り出してくれた。
胸の中がぐらぐらと揺れる。
アルスは深く息を吸い、吐いた。
「確かにそうです」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かる。
「コネを使ったかもしれません。……すみませんでした」
頭を下げる。
土の匂いが、近くなる。
一拍、間を置き、顔を上げた。
「――ただ、このまま引き下がるなんてこと、できません」
まっすぐにセラの目を見る。
視線がぶつかる。
さっきと同じ、足元を掬われるような感覚が喉元まで上がってきたが、今度は踏みとどまった。
セラの目が、わずかに細められる。
「なら、分かった」
顎をほんの少し上げる。
「条件を出そう」
その声に、修練場の空気がまた固くなった気がした。
「トール!」
セラが修練場の奥に向かって声を張る。
「こっちにおいで」
「はーい!」
すぐに、元気な返事が返ってきた。
先ほどまで魔法を放っていた少年が、小走りにこちらへ駆けてくる。
額には汗が光り、頬はまだ上気していた。
「それ誰? セラさん」
少年が、アルスを見上げる。
「お前の練習相手だよ」
「?」
トールはきょとんと目を瞬かせた。
「アルス君。一週間だ」
セラがアルスのほうを向き直る。
「一週間の間に、一撃でもトールに魔法を当てることができれば、君のことを指導しよう」
「……一週間の間に、一撃でも」
アルスは言葉をなぞってから、拳を握った。
「わかりました。やってみせます」
胸の奥に、不安と、妙な高揚が同時にわき上がる。
「マジかよ。セラさん、この人強いのか?」
トールが、半分わくわくしたような顔でセラを見上げた。
「やってみればいいじゃない」
セラは肩をすくめる。
「よっしゃ」
トールが短く笑う。
修練場の真ん中へ、二人で歩み出る。
踏みしめるごとに、足の裏から土の感触が伝わってきた。
「あの、名前はなんて言うんですか?」
立ち位置を決めながら、トールがアルスに尋ねる。
「アルスです。君は?」
「俺はトール。ちなみにアルスさんは何歳なの?」
「十四歳……だったと思う。君は?」
「思う? 変なの。俺は十二歳だよ」
トールが笑い、少しだけ間が空いた。
空気が、静かに張り詰める。
「じゃあ、いくよ!」
トールが先に構えを取る。
土の上で、靴の底がきゅっと鳴った。




