第60話
鼻先をくすぐる匂いで、アルスは目を覚ました。
芋を煮た甘い匂いと、香草のすっとする香り。
寝台の下を、誰かが通る足音がきしむ。
「……」
ゆっくりと身を起こす。
薄い布の向こうで、窓が淡く明るくなっていた。夜はとっくに明けているらしい。
戸口のほうで、こんこん、と軽く叩く音がした。
「アルス、起きてる?」
リデルの声だった。
「はい」
返事をすると、戸が少しだけ開く。
隙間から、リデルの顔がのぞいた。
「おはよう、アルス。もうご飯できてるってよ」
いつもの調子で言う声の奥に、ほんの少しだけ緊張が混ざっているように聞こえた。
「……おはようございます」
アルスは布団から足を下ろしながら答えた。
「顔洗っておいで。下で待ってるから」
リデルはそう言って、ぱたんと戸を閉める。
簡素な洗面台で水をすくい、顔をぬぐう。
冷たい水が皮膚を撫で、意識がはっきりとする。
階段を下りると、居間のほうから賑やかな気配がした。
「おはようございます」
戸口から覗きこむと、ミレイが振り返る。
「おはよう、アルス。よく眠れたかい?」
大きな木のテーブルの上には、湯気を立てる器がいくつも並んでいた。
リデルはもう席について、スプーンをつま先でいじっている。
「バルドンさんは?」
アルスが周りを見回すと、ミレイが顎で窓の外を示した。
「とっくに起きてるよ。いつもの鍛錬してから戻るのさ。……ほら」
ちょうどそのとき、裏口のほうで戸の開く音がした。
大きな影が一つ入ってくる。
「ふう……」
軽く息を吐きながら、バルドンが手ぬぐいで首元の汗を拭っていた。
「おう、起きとるか」
アルスと目が合うと、短く頷く。
「おはようございます」
「うむ」
バルドンは自分の席につき、椅子を引いた。
「よし、食べるか」
いつものように、全員が席につく。
昨夜と同じように、短い祈りの時間があって、それからスプーンの音が鳴り始めた。
器の中では、芋と豆の煮込みが今日も湯気を立てている。
少し違う香草が混じっているのか、匂いは昨日と違った。
「そういえば、リデル」
煮込みをひと口飲み込んだあとで、バルドンがスプーンを置いた。
「今日はこのあと、予定あるのか?」
「ある」
リデルはすぐに答える。
「アルスと一緒に、こっちの学院行くつもり」
少し背筋を伸ばして言った。
「そうか。何か伝はあるのか?」
「うん。一応、お父さんから紹介状書いてもらってる」
リデルは自分の鞄を軽く叩いた。
「アルスは――」
「僕の師匠から紹介状もらってます」
アルスも、足元に置いた荷物へ視線を落とす。
アルベスを出る前、リュマが真剣な顔で渡してくれた封筒の手触りが、すぐに思い出せた。
「ふむ」
バルドンは顎を撫で、少しだけ目を細める。
「ふむ、それだけじゃ足りんかもしれんな。ちょっと待っとれ」
バルドンが席を立ち、奥の部屋へとどすどす歩いていった。
ほどなくして、厚手の封筒を二つ手にして戻ってくる。
「ほれ」
ダイニングテーブルの上に、それをぽんと置く。
「これをまず学院の受付に見せるといい」
封筒の口には、赤い蝋が垂らされている。
その上に押された印章には、岩を重ねたような紋が刻まれていた。
「なにこれ?」
リデルが身を乗り出す。
バルドンは「なんでもない」と言いたげに鼻を鳴らし、
「ほかにも用事はある。ついでじゃ」
とだけ言う。
ミレイが苦笑しながら、二人の前に封筒を押しやった。
「とりあえず持ってお行き。なくさないようにね」
「ありがとうございます」
アルスは丁寧に頭を下げ、封筒を手に取った。
蝋の表面に、指先が少し食い込む。
そこから冷たいような、重たいような感覚が伝わってくる。
「じゃあ、片付けて支度してらっしゃい。ウィルは……」
「留守番」
テーブルの下で寝そべっていた岩狼が、鼻を鳴らした。
ミレイが笑う。
「そうかい。家を頼んだよ」
ウィルは尻尾だけをぱたんと振った。
◆
「いってきます」
「いってきます!」
玄関先で、アルスとリデルは揃って頭を下げた。
ミレイが笑顔で手を振り、バルドンは腕組みをしたまま頷く。
ウィルは戸口の影から顔を覗かせて、名残惜しそうに鼻を鳴らした。
二人が広場へ出ると、朝の光が斜めに裂環の斜面を照らしていた。
段々に連なる家々。
岩の段差を下りるたび、通りの高さが目に見えて変わっていく。
石を打つ音。
遠くで、土を運ぶ荷車の軋む音。
高い場所から流れてくる水路には、土の魔道具で動く揚水装置が取り付けられていた。
踏み板に人が乗ると、板の下に仕込まれた石が淡く光り、輪がゆっくりと回転して水を引き上げていく。
「あれ、面白いね」
リデルが水路のほうを指さした。
アルスも立ち止まり、しばらくその動きを眺める。
踏み板を交代で踏みつつ、笑い合っている人たち。
運ばれていく水が、別の小さな水路へと分かれていく。
通り沿いには、市場が広がっていた。
共生林から運ばれてきた木材が整然と積まれている。
その隣では、削り出された岩の建材が無造作に積み上げられていた。
木を削る音。
石を割る音。
それらが混ざり合い、賑やかなざわめきになって街を満たしている。
「ここ、歩くだけで楽しいけど、寄り道しすぎると怒られそうだね」
リデルが苦笑いしながら、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
アーデンが描いてくれたという地図だ。
「ええっと……こっちが家で、坂を下りて、こっちの橋を渡って……」
指で道筋をなぞりながら歩く。
束ねられた木の橋を渡ると、少し開けた場所に出た。
そこから見上げると、ひときわ高い塔が空を貫いている。
「あれが学院らしいね」
リデルが目を輝かせた。
塔の足元には、森のように樹々が植えられている。
石の建物と木々が、互いに押し合うことなく、きれいに混ざり合っていた。
石積みの壁に絡まる蔦。
木の影から覗く窓。
風が枝を揺らすたび、葉の隙間から光がこぼれ落ちる。
「……きれい、だね」
アルスも思わず立ち止まる。
魔石や術式とは違う形で、マナが静かに流れているのを、肌で感じた。
土と木と人の気配が、ひとつの場所に集まっている。
「行こ」
リデルが鞄を持ち直す。
二人は門をくぐり、石畳の道を進んだ。
◇ ◇ ◇
バルクレイン院の入口には、簡素な受付が設けられていた。
木のカウンターの向こう側に、一人の女性が立っている。
腰まである髪を後ろで一つに束ね、帳簿のようなものをめくっていた。
「すみません」
リデルが一歩前に出て声をかける。
「えっと、おじいちゃんがこれをまず渡せって」
鞄をごそごそと漁り、封筒を取り出した。
アルスも、自分の荷物から大事にしまっておいた封筒を取り出す。
「はい。これをお願いします」
カウンター越しに、二人分の封筒が差し出された。
受付の女性は、慣れた手つきでそれを受け取る。
最初に上になっていた封筒に目を落とし――ぴたりと動きを止めた。
蝋の上に押された紋章を見た瞬間、彼女の顔色が変わる。
「――っ」
小さく息を飲む音が、アルスにも聞こえた。
「ど、どうかされましたか?」
アルスが恐る恐る尋ねると、女性ははっとして顔を上げた。
「し、少々お待ちください!」
カウンターの端に封筒をそっと置き、慌てたように奥の扉へ駆けていく。
扉がばたんと閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……」
受付前に、二人だけが残された。
「ねえ」
リデルが小声でささやく。
「やっぱり、これ……」
テーブルの端に置かれた封筒へ視線を向ける。
赤い蝋と、岩の紋章。
「そんなにすごいのかな」
アルスも、同じものを見つめた。
廊下の奥から、足音がいくつか近づいてくる。
さっきの女性が戻ってきた。
今度は姿勢を正し、緊張した面持ちで立っている。
「お待たせいたしました」
さきほどとは明らかに違う丁寧な口調だった。
「こ、こちらにお越しください。院の者がお話を伺いたいそうです」
彼女は慌てて身を引き、二人に道を開ける。
廊下の向こうには、石壁と木の扉が続いていた。
どこかから、淡いマナの匂いが漂ってくる。
アルスとリデルは顔を見合わせた。
足が自然と重くなる。
バルドンさん、何をやったのだろうか――。
アルスは胸のうちでそう呟きながら、一歩、廊下の中へ足を踏み入れた。




