第6話
「アルス、起きてる?」
扉の向こうから、聞き慣れ始めた声がした。
「……おきてる」
「よかった。朝ごはん行こ。先生にも、ちゃんと食べさせろって言われてるんだから」
リデルが扉を開け、顔を覗かせる。
栗色の髪が、朝の光に少しだけ揺れた。
彼女は相変わらずよく動く目で、部屋の中をざっと見回す。
「……また、靴、左右逆だよ」
アルスは足元を見下ろした。
たしかに、右足に左の靴、左足に右の靴を履いている。
「……めんどくさい」
「めんどくさくない!ほら、こっち」
リデルはしゃがみ込んで、靴をくるりと入れ替えてくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、行こっか。」
◆
食堂は、思っていたよりも賑やかだった。
長い木のテーブルがいくつも並び、
ローブ姿の大人や、アルスより少し年上の子どもたちが座っている。
湯気の立つスープの匂い。
焼いたパンの香ばしい匂い。
魔石コンロの青い火が、壁際で静かに揺れていた。
「ここ、空いてるよ。座って」
リデルが椅子を引き、向かいに腰を下ろす。
木のトレイの上には、固めのパンと薄いスープ、少しの果物。
山での食事よりは、少しだけ色が多い。
アルスはスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。
「……おいしい」
「でしょ? ここ、食事だけはわりといいの。お金のない院は、もっとひどいって聞いたことある」
そのとき。
「お、リデルとアルス!」
食堂の入口から、よく通る声が飛んできた。
背の高い少年が、パンを片手にこちらへ向かってくる。
短い黒髪を無造作に撫でつけ、まっすぐな目をしていた。
「ちょっと、声が大きい、ヴァーン。朝からうるさいって怒られるよ」
その横から、ふわふわの短い髪の少女が顔を覗かせた。
軽い足取りで、空気ごと滑り込んでくるような動きだ。
「細かいな、ミーナ。ほら、ここ空いてるし、座っていいか?」
ヴァーンは勝手知った様子で椅子を引き、どっかと腰を下ろした。
隣にミーナも腰掛ける。
「……おはよう」
アルスがぽつりと言うと、ヴァーンはにっと笑った。
「おはよう、アルス」
「おはよう、アルス。ちゃんと眠れた?」
「……」
「そっか。ま、最初の一週間はみんなそんなもんだよ」
ミーナはスープをすすりながら、気楽な声で言った。
「アルス、食べないとすぐ顔色悪くなるからね。昨日も途中でふらってなってたでしょ」
「……なってた?」
「なってたな。俺の鍋に倒れ込むんじゃないかと思った」
ヴァーンが笑いながら言うと、リデルがすかさず眉をひそめた。
「それ、ヴァーンが鍋を片手で振り回すからでしょ。火の国出身だからって、なんでも素手で触ろうとするの、やめなよ」
「平気だって。ちょっと熱いくらいだ」
「平気じゃないよ!」
ミーナが即座に突っ込む。
リデルとミーナの突っ込みが同時に入る。
アルスはそのやり取りを、どこか不思議そうに、けれど少しだけ楽しそうに見ていた。
周囲から、ちらちらと視線が向けられているのをアルスは感じていた。
「あの子、この前来た……」「リュマ先生のところの?」
そんな囁きが、遠くで小さく揺れる。
アルスは、どう返していいか分からないから、何も言わない。
その沈黙を、ミーナがさらりと破った。
「ね、アルスは山でどんな風に生活してたの?」
「……ふつうに?」
「山で狼とか狩ってたりした?」
「そんなわけないでしょ。アルスはこんなに小さいんだから」
リデルが笑いながらパンを割る。
「とりあえず今は食べよ。ほら、スープ冷める」
アルスは言われた通りに、もう一口スープを飲んだ。
◆
「じゃ、午前の授業まで少し時間あるから、図書棟寄ってく?」
食事を終えると、リデルが提案した。
「アルス、字の練習もしないとでしょ。昨日もノートの半分、ひらがなで埋まってたよ」
「……かくの、おそい」
「遅くてもいいから、読めて書けたほうが楽だよ。ね?」
ミーナも頷く。
「歴史の先生、字が汚いと黒板読みにくいしね。
アルス、自分でノートまとめ直せるようになると便利だよ」
アルスは、少しだけ考えてから頷いた。
「……いく」
◆
図書棟は、外見だけならどこの国にあってもおかしくない、落ち着いた石造りの建物だった。
中に入ると、ひやりとした空気と、紙とインクの匂いが迎えてくる。
天井まで届く本棚が、規則正しく並ぶ。
窓から差し込む光は柔らかく、あまり音のない空間だった。
「なんか、ここ来ると眠くなるんだよね」
ミーナが小声でぼやいた。
「それはミーナが授業前にここで昼寝しようとするからでしょ」
リデルが呆れたように笑う。
「アルス、こっち。人が少ない机のほうが、練習しやすいよ」
三人は窓際の小さな机に座った。
リデルが紙とペンを取り出し、アルスの前に置く。
「じゃあ、まずは“国の名前”から書いてみよっか。
イグラシア、サラディア、ファルセリア、ドロスティア、グロリアン。昨日黒板に書いてあったよね?」
アルスは、紙の上に視線を落とした。
ゆっくりとペンを握る。
指先は魔法を使うときよりも、少し強張っている。
「……イ、グ、ラ、シ、ア」
字は少し歪んでいるが、読めなくはない。
「うん、“イグラシア”は分かるね。次は“サラディア”」
隣で見守っていたミーナが、小声で助け舟を出す。
「“サ”は、ほら、ここをもうちょっと丸く」
アルスの手に、ミーナの指先がそっと触れた。
彼は一瞬だけ目を瞬かせ、それからまた紙に集中する。
「……サ、ラ、ディ、ア」
「うん、いい感じ。最初の頃の私より上手いよ」
リデルが笑いながら、自分の昔のノートをめくってみせる。
そこには、今のアルスよりよほどひどい形の文字たちが並んでいた。
「ファルセリアは、ファが難しいんだよね」
「……ファ」
アルスはペン先を止め、少し考える。
ミーナが指で空中に字を書くように動かす。
アルスはそれをじっと見て、紙の上に真似した。
かすかに曲がった線。
けれど、彼なりに丁寧に書かれた“ファルセリア”が、紙の上に並んだ。
「……できた」
「うん。ちゃんと読める。大丈夫」
リデルは満足そうに頷く。
「アルス、字を覚えるとね、いろんなものを読めるようになるよ。
それに、あんた自身のことも、あとで文字で残せる」
「……じぶんの、こと?」
「うん。今日あったこととか、思ったこととか。
あとで読み返すとね、“あのときの自分”がちゃんと残ってるって、ちょっと不思議なんだ」
リデルは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「ドロスティアからここに来たときの日記、今でもたまに読むし」
「……ふしぎ」
「ふしぎだよ。でも、いいふしぎ」
ミーナが笑いながら椅子にもたれた。
「さ、そろそろ行かないと。歴史の授業、遅刻したら先生にじっと見られるからね。あれ、地味に怖いんだ」
「こわいの?」
「静かに怒るタイプだからね……一番怖いやつ」
リデルが苦笑する。
アルスは紙を丁寧に畳み、胸元のポケットにしまった。
そこには、ユベルの手紙と一緒に、新しい文字が増えていく。
◆
午前の授業は、石造りの教室で行われた。
半円形に並ぶ机。
壁に描かれた世界地図と、五つの国の境界線。
黒板には、すでにいくつかの年号と単語が書かれている。
「じゃあ、今日も昨日の続きからだ」
黒髪で細い目をした講師――ラウロが、淡々とした声で言った。




