第59話
部屋の隅で火がくすぶっていた。
石を積んだ炉の上、鍋から立ちのぼる湯気が、薄暗い天井にゆらゆらと溶けていく。
木の机の上には、湯呑みと菓子皿が出しっぱなしになっていた。
さっきまで、ミレイが土の国の話をしていた場所だ。
戸口のほうで足音がした。
「それで、お前さん」
低い声とともに、がっしりとした影が居間に入ってくる。
昼間、リデルと抱き合っていたときよりも、少しだけ表情の固いバルドンだった。
「夕食ぐらいは食っていくんだろう」
当たり前のような調子でそう言われて、アルスはぱちりと瞬きをした。
「そうなんだけど、そうじゃなくて……」
隣で、リデルの声が少し掠れる。
いつもより歯切れが悪い。
彼女は椅子の縁を握ったまま、何度か言葉を飲み込み、それから思いきったように顔を上げた。
「えっと、その、アルスなんだけど」
「ん? どうした?」
バルドンの視線が、ゆっくりとアルスに向く。
さっきまでの柔らかい目つきが、少しだけ探るような光を帯びた。
「この国にいる間、うちで過ごしてもらおうと思ってたんだけど、ダメ?」
リデルの声が、炉の火よりも小さく落ちる。
一瞬、居間の空気が止まった。
「そんなこと、ダメに決まって――」
バルドンの口がそう動いたときには、もうリデルが椅子を引いて立ち上がっていた。
「お願い。おじいちゃん」
椅子の背に両手をかけて、少しだけ身を乗り出す。
上向いた瞳が、まっすぐバルドンをとらえる。
その目に、昼間の再会の涙が、まだ少しだけ残っている気がした。
「――ダメじゃ」
バルドンは視線を逸らし、わざとらしく咳払いをした。
「一人前になりたくば、自分で寝床ぐらい探さなければならん」
顎を撫でながら、どこか遠くの柱を見つめている。
アルスには、何を見ているのか分からない。
「そうかい」
台所のほうで、ミレイが穏やかに声を挟んだ。
鍋の蓋をずらしながら、振り返る。
「じゃあ、リデルも行かなきゃいけないね。二人でどこか宿を探しな」
その言葉に、リデルの肩がぴくりと動いた。
ミレイの顔を見る。
ミレイが目だけで小さく頷く。
「そうだよね。おじいちゃん……」
リデルはわざとらしくため息をついてみせた。
「宿ぐらい、自分たちで探さないと。ね、アルス。“一緒に”宿、見つけよう」
椅子の背から手を離し、アルスのほうへと半歩寄る。
一緒に、というところに、少しだけ力がこもっていた。
「うん。分かった」
アルスは素直に頷いた。
外はもう暗いが、宿を探すなら早いほうがいいのだろう。
そういうことを、アルスはリュマやアスリナから教わってきた。
だから頷いた。
それだけだった。
「――待て」
すぐ目の前で、どすん、と椅子が鳴った。
バルドンが勢いよく立ち上がっていた。
「今すぐとは言っとらん」
眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうにそう付け足す。
「お前らはまだ“半人前以下”じゃ」
太い指が、アルスとリデルを順に指した。
「半人前になるまでは、ここにおって良い」
居間に、一瞬の静けさが落ちる。
それから、くす、とミレイが笑いを漏らした。
リデルも、ほっと息を吐いて椅子に腰を下ろす。
テーブルの下で丸くなっていたウィルが、鼻を鳴らして短くため息をついたように聞こえた。
「本当ですか? ありがとうございます!」
アルスは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
胸の中が少し軽くなる。
宿を探すということが、どれくらい大変なのかは分からない。
けれど、ここにいていいと言われたことが、素直に嬉しかった。
顔を上げたとき、バルドンは一瞬だけ目を泳がせていた。
ぶつかった視線を慌ててそらし、また喉の奥で咳払いをする。
「礼を言うほどのことでもないわい」
ぶっきらぼうな声に、言い訳のような響きが混じった。
ミレイが笑いをこらえたように、口元に手を当てる。
「さ、話はあと。ご飯が冷めちまうよ」
ミレイがそう言って、食卓に皿を並べ始める。
◆
木の器に、湯気が立っていた。
芋と豆を長く煮込んだとろりとした煮込み。
茶色い穀物を炊いたものに、細かく刻んだ葉が混ぜ込まれている。
香ばしい匂いが、鼻をくすぐった。
「では」
バルドンが椅子を引き、座ったまま背筋を伸ばした。
「祈りの時間じゃ」
「……?」
アルスは反射的にスプーンに手を伸ばしかけて、止まった。
卓の向こうで、リデルが小さく首を振る。
「アルス、真似して」
小声でそう囁くと、両手をそっと組んで胸の前に上げた。
ミレイも静かに目を閉じる。
ウィルはテーブルの下で伏せたまま、頭をわずかに垂れた。
アルスは、隣のリデルの動きをそのまま真似る。
指と指を組む感覚が、少しぎこちない。
バルドンの低い声が、居間に落ちた。
「土よ。今日も我らの足場を支えてくれて、ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、炉の火のはぜる音まで、すべてその言葉の中に沈んでしまったように、部屋が静かになる。
「命をくれたものに、感謝を」
ミレイが続ける。
「先に逝った者たちが、安らかに土の下で眠れますように」
リデルも、小さく唇を動かしていた。
声は聞こえないが、同じ言葉をなぞっているのが分かる。
アルスは目を閉じたまま、その言葉の意味を追いかけようとする。
しばらくして、椅子のきしむ音が聞こえた。
「はい、おしまい。冷めちまうからね」
ミレイがぱちりと目を開け、いつもの調子に戻る。
アルスも手をほどき、そっとスプーンを握った。
「土の国ではね」
リデルが、器を引き寄せながら言う。
「食事の前に、こうやって祈りを捧げるの。……うちでも、やってたのよ」
「そうなんですね」
アルスがそう返すと、ミレイが少しだけ真面目な声になる。
「この国では、命を重んじるのさ」
煮込みをひと匙すくい、皿の縁で軽く落としてから続ける。
「食べ物になった獣や作物のおかげで、今の自分がいる。戦や病気で先に土に還った人たちがいて、今ここにいる。……それを忘れないように、ちょっとだけ思い出してから、口に運ぶんだよ」
言い終えると、ミレイはにこりと笑って、自分の器にスプーンを入れた。
アルスは煮込みを口に運ぶ。
芋の甘さと豆の重さが、じわりと舌に広がった。
塩と香草の香りが、鼻の奥に残る。
「どうだ」
バルドンが、ふいに問いかける。
「うまいか」
「……はい」
口の中のものを飲み込んでから、アルスは顔を上げた。
「とても、おいしいです」
言葉と一緒に、自然と笑みがこぼれていた。
バルドンは満足そうに頷き、それからぽつりと言う。
「命を粗末に扱う奴は、獣から好かれん」
テーブルの下で、ウィルが尾をひと振りした。
その言葉が、アルスの耳に残る。
ユベルの山小屋で、砕かれていった無数の魔石。
アルベスで見た、傷ついた晶獣たちの姿。
視線を落とすと、ウィルの背が見えた。
丸くなった体が、ゆっくりと呼吸に合わせて上下している。
スプーンを握る手に、少しだけ力が入った。
「食え。考え事はあとだ」
バルドンが短く言う。
アルスは「はい」と返し、また一口、煮込みを口に運んだ。
食卓には、皿の音と、小さな会話と、ウィルの鼻を鳴らす音が混ざり合っていた。
◆
「ここが、今日からお前さんが寝る場所だよ」
夕食が終わり、簡単な片付けを終えたあとで、ミレイが客間の戸を開けた。
木の扉が軋む。
中から、乾いた木と布の匂いが流れてきた。
部屋の真ん中に、しっかりした寝台がひとつ置かれている。
アルベスの寮の簡素なベッドよりも、ひと回り大きい。
窓は小さいが、外からの風が少しだけ入ってくる。
遠くの水音と、街のどこかで鳴る鐘の音が、かすかに聞こえた。
アルスは敷かれた布に手を触れた。
指の腹に、少し粗い織り目が当たる。
「……広い」
ぽつりとこぼれる。
部屋の中に、自分用の寝場所がひとつだけある。
「アルス」
背中から、ミレイの声がした。
振り向くと、彼女は戸口に寄りかかるように立っていた。
灯りの光が、皺の影を柔らかく落としている。
「リデルを、ありがとうね」
穏やかな目で、そう言う。
アルスは一瞬、言葉の意味を掴みかねた。
すぐに、胸の奥に浮かんだ言葉を、そのまま返す。
「僕のほうこそ」
手をぎゅっと握りしめる。
「リデルが、僕の最初の友達なんです」
ミレイの目が、少しだけ丸くなった。
それから、ふっと笑う。
「そうかい」
短い言葉だった。
けれど、その声には、何かあたたかいものが混ざっていた。
「おやすみ、アルス」
戸を閉める前に、ミレイがもう一度言う。
「――おやすみなさい」
アルスは、少し遅れて頭を下げた。
戸が閉まる。
金具が軽く鳴る音がした。
部屋の中に、静けさが戻る。
窓の外の気配と、家のどこかで木がきしむ音。
遠くで、バルドンとミレイの話し声が低く続いている。
布団に身を沈めながら、アルスは目を閉じた。
家の中で「おやすみなさい」と言ったのは、いつぶりだろう。
ユベル以来だ――と、暗がりの中で思う。
目の裏に、雪に埋もれた小屋の屋根が浮かんだ。
炉の火の赤がちらちらと揺れる。
そこから少し離れた場所で、「休め」と低い声が聞こえる。
その記憶と、今、木の家の中で響いた「おやすみ」が、静かに重なった。
ウィルが寝台の足元に上がり、丸くなる気配がする。
その温もりに、アルスの意識はゆっくりと沈んでいった。




