第58話
どれくらい、話し込んでいただろう。
ミレイから、若いころの話をいくつも聞いた。
谷翼隊で崖を飛び越えたときのこと、岩狼隊と張り合っていたころのこと、バルドンと出会ってからのこと――。
気づけば、窓の外の光はだいぶ傾いている。
木の枝越しに差し込んでいた陽が、ゆっくりと橙色に変わりはじめていた。
居間の中も、灯りをつける前の、柔らかい夕方の色に満ちている。
湯飲みの中のお茶はとっくに空になっていて、その代わり、土の皿の上には、焼いた穀物の素朴な菓子が少しだけ残っていた。
ウィルはテーブルの下で丸くなっている。
家の匂いにすっかり慣れたのか、鼻先を前足に乗せて、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
「――それでね、その崖にいた岩狼が、今のガロスなのよ」
ミレイが楽しそうに笑う。
ガロス。バルドンの岩狼であり、ウィルの親でもある晶獣だ。
「お祖父様の岩狼さん、ですよね」
「そう。あの子ももう歳だから、最近はあんまり無茶させてないけどね」
ミレイが言ったそのときだった。
玄関の方から、がちゃん、と大きな音が響いた。
続けて、がさがさと何かを運ぶ気配と、低い男の声がする。
「なんじゃこの荷物。……また変なものを押し付けられたのか?」
ぶつぶつと文句を言う声は、聞き取りやすいくらいに大きい。
ウィルがぴくりと耳を立てた。
リデルも、はっとしたように顔を上げる。
「あ……」
短く漏れた声に、ミレイが目を細めた。
「帰ってきたわね、あの人」
ほどなくして、足音がこちらへ近づいてくる。
どすどす、と重い靴音。
扉が乱暴に開いて――
「やはり、国の頭の硬い連中はなにもわかっておらん。現場の者たちをもっと――」
部屋に入ってきた男は、開口一番、文句から始めた。
髪には白いものが混じり、日焼けした肌には細かい傷と皺が刻まれている。
がっしりした身体つきではないのに、そこに立っているだけで、部屋の空気が少し変わったように感じた。
それが、バルドン=グラナードだった。
眉間に深い皺を寄せながら、腰にぶら下げた荷物袋をどさりと床に下ろす。
「やれやれ、あいつらは自分で土を踏んだことがないんじゃないか。机の上で――」
そこまで言って、ようやく視線がこちらを向いた。
リデルと目が合った瞬間、その表情が止まる。
「あはは……おじいちゃん、おかえり」
リデルが、少し照れくさそうに笑って言った。
一瞬。
本当に一瞬だけ、時間が止まったように見えた。
次の瞬間、バルドンの顔が、まるで別人のように柔らかくなる。
「おお! リデル、リデルじゃないか!」
声の調子が、文句を言っていたときとまったく違う。
肩に入っていた力が抜け、目尻の皺がいっせいに笑い皺に変わる。
「どうしたんだ? こんなところまで」
バルドンが大股で近づいてくる。
「もしかして――おじいちゃんに会いにきてくれたのかい?」
「えーっと。そんなところ」
リデルが曖昧に笑う。
それだけの言葉で、バルドンは目を潤ませた。
「そうか、そうか……!」
大きな手で頭をがしがしと掻きながら、何度も頷く。
「今日はなんていい日なんだ」
心の底からの言葉のようで、聞いているこちらまで少し照れくさくなる。
足もとでウィルが立ち上がった。
とことこと近づき、バルドンの前に座る。
尻尾はわずかに揺れているが、背筋はぴんと伸びて、きちんと「仕事人」として挨拶しているようだった。
「おお、ウィル坊もいたのか。元気にやっていたのか?」
バルドンが笑いながら首元を撫でる。
ウィルは尻尾を一度だけ強く振って、それから静かに鼻を鳴らした。
久しぶりに会う主を前にしても、過剰にはしゃぎすぎない。その姿に、長い付き合いを感じる。
「お前たちがここにきてくれるだけで、わしは嬉しい」
バルドンは、しみじみと言った。
その声は、さきほど玄関で荷物に文句をつけていた男と同じものとは思えないほど、柔らかかった。
……が。
「――で、お前は誰だ、小僧?」
◆
急に、矛先がこちらに向いた。
さっきまでの柔らかさが嘘のように、その目がぐっと細くなる。
とてつもないプレッシャーが、真正面からぶつかってきた。
(……っ)
息が詰まりそうになる。
近くで見ると、バルドンは、ただの六十代くらいの老人にしか見えない。
けれど、その身体の周りには、目に見えない何か――重い土と風と獣の気配が、幾重にも積もっているように感じた。
背中の汗が、一気に冷たくなる。
喉がひゅっと鳴った。
「……えっと、あの、えっと」
言葉がうまく口から出てこない。
リデルには、この圧力は伝わっていないらしい。
横で、きょとんとした顔でおじいちゃんを見上げている。
そのバルドンの腕を、ミレイが「はいはい」と言わんばかりにぺしんと叩いた。
「みっともないからやめなさい。こんな子に」
ため息まじりの一言。
途端に、空気が少し軽くなる。
それでも、バルドンの視線は、アルスから離れなかった。
「えっと、ア、アルス=ローデンと言います」
なんとか名乗る。
続けて、何を言うべきか、ほんの一瞬だけ迷って――
「リデルの友達です」
それだけを、はっきりと言った。
瞬間。
バルドンの顔つきが、また柔らかくなった。
「そうか、リデルの友達か。ならいい」
あっさりとした一言。
何がトリガーになったのか、アルス自身にも分からない。
けれど、「リデルの友達」という言葉が、この家に入るための合言葉みたいに感じた。
「それで、お前さんたち。なんでこっちに来たんだい?」
バルドンが、どかっと椅子に腰を下ろしながら問う。
さっきまでの圧は消えているが、その目はまだ、まっすぐこちらを見ている。
アルスとリデルは、互いに顔を見合わせてから、それぞれ自分の目的を話した。
リデルは、土の国で魔道具のことをアスリナのために勉強をしたいこと。
アルスは、リュマに送り出され、土の魔法の修行に来たこと。
ミレイは黙って聞いている。
ウィルはテーブルの下で、じっと前足を揃えて座っていた。
「ふむ、ふむ……」
バルドンは腕を組んで、二人の話をひと通り聞いてから口を開いた。
「アルス君は、分かった」
「え?」
思わず聞き返す。
「あのセラ=ドロステの指導を受けられるなら、誰もが羨ましがるだろう」
セラ=ドロステ。
その名前を聞いたとき、ミレイが少しだけ眉を上げた。
「おじいちゃん、知り合いなの?」
「まあな。あやつは頭も固いが、足元はしっかり土を踏める女だ。……そういうのは、嫌いではない」
バルドンは、わずかに口元を緩める。
「マナの扱いについては、この国でも指折りの導士だ」
「問題はリデルだが、難しいじゃろうな」
そこで、話題が切り替わった。
「なんで?」
リデルがきょとんとして尋ねる。
「いや、結論としては可能だ」
バルドンは、真面目な顔になる。
「ただ、色々と問題があるのも事実での」
そこで、一度言葉を切った。
その目は、アルスでもリデルでもなく、もっと遠く――窓の外の、夕方の森を見ているようだった。
何かを思い出しているような、そんな表情。
部屋の中に、ほんの少しだけ重たい沈黙が落ちる。
「それをやっている者も、実際いるからな」
やがて、バルドンはそう続けた。
「学院やこの都市で、じっくり勉強するといい。見えてくるものがあるはずじゃ」
その言い方は、「無理だ」と切り捨てる大人のそれではなかった。
かといって、軽く「大丈夫だよ」と言うわけでもない。
できる。けれど――簡単ではない。
そんなニュアンスが、言葉の端々に滲んでいた。
リデルは真剣な表情で頷く。
「……うん。頑張ってみる」
「それでいい」
バルドンが短く言う。
その横で、ミレイがふっと笑った。
「まぁ、バルドンの言うことは七割くらいで聞いておけばいいのよ」
「三割は?」
リデルが首をかしげる。
「残り三割は、孫の前で格好つけたいだけだから」
「おい」
バルドンがむっとする。
部屋の空気が、また少しだけ柔らかくなった。
夕陽はさらに傾き、窓の外の木々が長い影を落としている。
土の国での暮らしが、本格的に動き出そうとしていた。




