第55話
幌馬車の中には、土と藁と、ほんの少しだけ獣の匂いがこもっていた。
この国では岩狼は珍しくないらしく、ウィルも「外の荷台」ではなく、普通に馬車の中にいる。
座席の足もとに寝そべって、時々、揺れに合わせて耳だけぴくりと動かしていた。
その首元を撫でながら、アルスはぽつりと口を開く。
「グラナードって、そんなに有名だったんだ」
昨日ランドたちが言っていたことを思い出す。
兵士なら誰でも知っている家――そう言われても、いまいち実感がなかった。
「そうみたいだね。私も知らなかった」
向かいの席に腰かけたリデルが、少し照れたように笑う。
そのときだった。
「あら、あなた、グラナードの家の子だったの?」
向かいの席の斜め隣に座っていた親子の母親が、ふいに話に入ってきた。
優しそうな目をした、淡い栗色の髪の人だ。
「え?」
リデルがぱちぱちと瞬きをする。
「じゃあもしかして、アスリナの娘なのかしら?」
「そうです! お母さんを知ってるんですか?」
思わず身を乗り出すリデル。
女性はふっと頬を緩めて、懐かしそうに目を細めた。
「アスリナは幼馴染だったの」
「すごい、そんなこともあるんですね!」
リデルが目を丸くする。
アルスも驚いて、思わずその女性を見つめた。
「ああ、そういえば名前を言ってなかったわね」
女性はそう言って、隣に座る男性と、そのそばにいた子どもたちを順番に示した。
「わたし、シルビア=レムハート。こっちがトーマ、この子がノア、この子がリナ」
トーマと呼ばれた男性は、少し照れくさそうに会釈する。
ノアとリナは、じっとウィルの方を見て、今にも飛びつきたそうにしていた。
「私はリデル=グラナード、こっちが――」
「アルス=ローデンです」
リデルと一緒に立ち上がって、アルスも慌てて頭を下げる。
軽く握手を交わすと、シルビアは何度か頷いた。
「そう、リデルちゃんにアルス君ね。よろしくね」
「よろしくお願いします」
座り直すと、自然と話の流れは“どうして土の国へ向かっているか”に移っていった。
リデルは「勉強しに行く」と簡単に説明し、シルビアたちは「仕事の帰りだ」と笑う。
アスリナが結晶化し始めたとき、アルベスで治療と研究のために暮らすことになった――そんな話も、ぽつぽつと出てきた。
「ってことは、アスリナはアルベスにいたってこと?」
シルビアがふと思い出したように問いかける。
「はい。アルベスで、お父さんと出会ったみたいで」
リデルが答えると、シルビアは懐かしげに小さく息を吐いた。
「久しぶりに会いたかったなあ。もう二十年近く会ってないもの」
「……今度、アルベスに来たとき、来てください。喜びます」
リデルは一瞬だけ目を伏せてから、そう言った。
その横顔には、ほんの少しだけ陰が差している。
今のアスリナの状態を知っているからこそ、簡単に「会えます」とは言えないのだろう。
シルビアは、その表情を見て、何かを察したように微笑んだ。
「ええ、そうするわ。そのときは、ちゃんと手土産を持っていかなくちゃね」
「……はい」
リデルは小さく頷く。
いつの間にか、ノアとリナはアルスたちの隣に移ってきていた。
二人とも、ウィルの背中や首元を恐る恐る、しかし嬉しそうに撫でている。
「この子、本当に大人しいのね」
シルビアが感心したように言う。
「うん。ちゃんと、いい子だから」
リデルが誇らしげに胸を張った。
ウィルは「当たり前だ」とでも言いたげに目を細めると、子どもたちに身を預けるように寝返りを打った。
◆
首都へ向かう道のりは、思っていたよりもなめらかだった。
揺れる馬車の中で、アルスは窓の外の景色と、向かいで話す親子の声とを、ぼんやり半分ずつ眺めていた。
やがて、幌の隙間から差し込む光が少し傾き始めたころ――
馬車は、首都バルクレインの外れにある宿場の広場で止まった。
「じゃあ、リデルちゃんは実家に帰るのね?」
荷物を降ろしながら、シルビアがリデルに声をかける。
「はい! そのつもりです」
リデルは、これから会う祖父母の顔を思い浮かべているのか、どこかそわそわしている。
アルスはふと、そこで自分のことを思い出した。
――そういえば、自分の寝床って、どうするんだ?
風の国のときは、学院に招かれた「お客様」として宿に泊まらせてもらえた。
あのときは、生活費も宿代も学院持ちで、寝る場所に困ることはなかった。
でも今回は、土の国。
宿代を払って泊まるにしても、ずっとそれを続けるわけにはいかない。
(……どうしよう)
考え込んでいると――
「――ルス、アルス!」
隣から、少し大きめの声が飛んできた。
「えっ?」
顔を上げると、リデルが心配そうに覗きこんでいる。
「どうしたの? さっきからぼーっとして。考え事?」
「あ、うん。ちょっと……土の国でどうするか、全く考えてなくて」
「どういうこと?」
「宿とか、どこで寝ればいいんだろうって」
正直に言うと、リデルが「ああ」と納得したように頷いた。
そこへ――
「じゃあ、うち来なよ!」
元気な声が割り込んできた。
ノアだ。荷物を抱えたまま、目を輝かせてこちらを見ている。
「そんな、急に……」
アルスが苦笑する。
「あら、別にいいわよ」
その言葉に、トーマも頷いた。
「ああ、そうだね」
「えっと、その……」
何と返せばいいか迷っていると――
「ア、アルスはうちで寝泊まりするので!」
リデルの声が、少し裏返った。
全員の視線が、一斉にリデルへ向く。
「えっ?」
アルスは間抜けな声を出してしまう。
リデルは慌てて言葉を継いだ。
「もともと、そのつもりだったから! おじいちゃんとおばあちゃんの家、客間もあるし。だから、その……」
シルビアが、ふふっとおかしそうに笑った。
「あら、そうなの? じゃあ仕方ないわね」
ノアとリナが、同時に「えー!」と声を上げる。
「ウィルにまた会いたかったのに!」
「ウィルと一緒に寝たいー!」
「いつでも会いに来ていいよ」
リデルが、少し得意げに胸を張る。
「やったー!」
子供達ははしゃいでいる。
アルスはリデルに小さな声で聞く。
「……いいの?」
アルスが思わず聞き返すと、リデルはこくりと頷いた。
「いいの」
「……ありがとう」
言葉にすると、胸の中の不安が少しだけ軽くなる。
リデルは、そう言ったあと、くるりとアルスから顔をそむけた。
頬が、ほんのり赤く染まっているように見えたけれど――
アルスには、その理由までは分からなかった。




