第54話
翌日。
ヘイメリア帯の空は、相変わらず乾いていたが、昨日と比べるとどこか少しだけ柔らかかった。
あれから、獣に襲われることはなかった。
飢狼の死体はすっかり見えなくなり、血の匂いも風に流されて薄れていく。
それでも――
短剣を握ったときの感触だけは、まだ指先に残っていた。
刃が肉を割って、骨の手前で止まったあの感覚。
温かいものが一気に流れ出して、手の中から「何か」が消えていった瞬間。
それを思い出すたび、胸の奥が少しだけざわつく。
でも、今は振り返っている暇はない。
馬車の列は、きしむ車輪の音を立てながら、ヘイメリア帯の出口へと向かっていた。
◆
「なあ、谷翼隊なんて、岩狼隊の半分の人数もいないくせにさ」
休憩のたびに、ランドとフィノはなにかしら言い合いをしていた。
焚き火のそばで干し肉をかじりながら、ランドが言う。
「量より質でしょ」
フィノは当然のような顔で言い返す。
「質に関しても微妙だな?」
「じゃあ今度、崖の上り下り競争でもする?」
「崖を登るために岩狼がいるんじゃないんだが……」
ぶつぶつ言いながらも、ランドの口元にはうっすら笑みが浮かんでいる。
喧嘩のように聞こえるけれど、どこか楽しそうだった。
子どもたちは、そんな二人の言い合いを遠くで聞きながら、ウィルやドーガ、カイの周りを走り回っている。
「ドーガ、乗ってもいい?」
「カイ、もう一回飛んで!」
はじめは警戒していたはずのドーガも、今では子どもたちに耳を引っ張られても我慢している。
カイも、フィノに「もう一回だけ」となだめられながら、低く滑空しては子どもたちを喜ばせていた。
二匹とも、どうやら子どもには勝てないらしい。
ウィルも、そんな光景を横目で見ながら、どこか誇らしげに鼻を鳴らす。
人と獣とが、少しずつ同じ空気を吸い始めている――そんな感じがした。
◆
それからしばらく。
ひび割れた大地の隙間に、ぽつりと緑色の影が見えた。
苔のような、低い草だ。
馬車が進むごとに、その数は少しずつ増えていく。
やがて、草だけでなく、背の低い灌木が目につくようになった。
さらに進むと、どこかの誰かが整えたであろう小さな畑が現れる。
それは最初、ただの土の盛り上がりに見えた。
だが近づくと、そこにはちゃんと芽吹いた作物が並んでいる。
段々畑のように段差をつけて整えられた畝も見えた。
「……緑が増えてきたね」
幌馬車から顔を出したリデルが、目を細める。
「死の渓谷を、抜けてきたんだな」
アルスも、胸の奥でひっそりと息を吐いた。
遠くに、木と土で組まれた塀が見えてくる。
その内側には、小さな家々が点々と並んでいた。
「着いたかも」
空の上から、フィノの声が飛んだ。
カイが一度大きく翼を打ち、ゆっくりと高度を落としていく。
土の国側の詰所は、アルベス側のそれとは比べ物にならないほど大きかった。
詰所というより、もうひとつの小さな村だ。
塀の内側には、木と土壁で作られた家が十数軒。
それぞれの家の横には、細長い畑や菜園がくっついていた。
畑では、背の低い土人形がせっせと鍬を振るっている。
背丈は子どもくらい、顔には目と口が簡単に刻まれているだけだが、その動きはどこか楽しげだった。
道端には、水飲み場がいくつも設けられている。
そこでは、大地鳥が長い脚を折りたたんで水を飲み、小さな角獣が首を突っ込んでいる。
大地鳥は、太い脚と丸い胴体を持つ大きな鳥だ。
荷車を引いている個体もいれば、背に人を乗せている個体もいる。
空には、カイより一回り小さな翼獣が、ゆっくりと輪を描いていた。
「わぁ、すごいね」
リデルが思わず声を上げる。
ウィルも、見慣れない獣たちの匂いに鼻をひくひくさせた。
「着いたんだね。土の国、ドロスティアに」
アルスは小さく呟いた。
ヘイメリア帯の「飢えた土地」から一転して、生き物と植物と土の匂いが入り混じった空気。
それが、この国の入り口だった。
◆
馬車は詰所の広場に集められ、順番に手続きが行われることになった。
「君たちはこれからどうするんだ?」
荷物の確認を終えたあと、ランドがこちらへ歩いてくる。
鎧のあちこちに付いた土埃が、今回の護衛の激しさを物語っていた。
「このまま馬車に乗って、首都のバルクレインまで行きます」
アルスが答える。
「そうか。じゃあ俺たちとは、一旦ここでお別れだな」
ランドは少し寂しそうに笑った。
「ランドたちはどうするの?」
リデルが尋ねる。
「今回の仕事の報告をして、ひと息ついたら、また向こう側だ」
「向こう側?」
「戻るのさ。アルベス側へ」
ランドは指で、いま通ってきた方角を示した。
「護衛の仕事は、すぐに次が来る」
「大変なんだね……」
「慣れれば、そうでもないさ」
そう言いつつ、その目にはやはり疲れがにじんでいた。
「それと、リデル君」
「はい?」
名前を呼ばれて、リデルが姿勢を正す。
「お祖父様にはよろしく言ってくれ」
「おじいちゃんを、知ってるの?」
「兵士をやっていれば、グラナード家の名は誰でも知っている」
ランドは肩をすくめる。
「土の国を守ってきた家だ。知らない方がおかしい」
「えっ? この子、グラナードの家なの!?」
後ろから割り込んできた声に、リデルが目を瞬かせた。
フィノだ。目を丸くしてリデルを見ている。
「じゃあ、リデルのお祖母様は、あの《ミレイ=グラナード》!?」
「ミレイおばあちゃんも、有名なの?」
リデルはきょとんとした顔で首をかしげた。
「有名なんてもんじゃないわよ!」
フィノは思わず声を上げる。
アルスは思わずリデルの横顔を見た。
本人は、自分の祖母がそんなふうに語られていることを、まったく知らなかったようだ。
「すごい! リデル、今度会わせて! サイン欲しい!」
「え、う、うん。いいけど……」
リデルは事情が飲み込めていないまま、曖昧に頷く。
フィノは両手を合わせて小さく跳ねた。
「決まりね。今度絶対行くから」
「その前に、俺たちの仕事が溜まってなければな」
ランドが苦笑する。
「……ああ、それと」
ランドは、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「今度、またどこかで一緒になったら、そのときは岩狼の扱い方をもっと教えてやるよ」
「じゃあ私は、崖の飛び方と、谷の風の読み方を教えてあげる」
フィノが負けじと言う。
「え、えっと……」
アルスは、押し寄せる約束に戸惑いながらも、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「じゃあまた、出るときに一緒になれるといいな」
「うん。そうだね」
ランドがそう言って手を差し出す。
アルスも手を伸ばし、固く握り返した。
「それじゃあ、仕事に戻る。気をつけて行けよ」
「カイもドーガも、またね!」
リデルが手を振ると、カイが短く鳴き、ドーガはそっぽを向いたまま尻尾だけを一度振った。
二人は次に、子どもたちの方へ挨拶に行った。
子どもたちは、「またねー!」「絶対岩狼隊入るからね!」と口々に叫ぶ。
ランドとフィノは、それぞれに頭を撫でたり肩を叩いたりして応えた。
さっきまで言い合いばかりしていた二人が、今は同じ方向を向いて笑っているのがおかしかった。
「いい人たちだったね」
リデルがぽつりとつぶやく。
「……うん。いい人たちだった」
アルスも、同じように答えた。
◆
馬車の手続きは、土の国の役人たちによって手際よく進められた。
「目的地は?」
「バルクレインです」
カウンターの向こう側で、髭を生やした男が書類にさらさらとペンを走らせる。
「グラナード……?」
リデルの姓を聞いた瞬間、男の眉がぴくりと動いた。
ランドのときと同じように、微妙に態度が丁寧になる。
「首都までは、丸一日と少しだ。途中で休憩を挟みながら行く。体調は大丈夫か?」
「大丈夫です」
アルスとリデルが揃って頷くと、男は安心したように書類を束ねた。
「では、次の便の馬車に乗ってくれ。バルクレイン行きはあの列だ」
指さされた方には、新しく荷を積み込んでいる馬車が数台並んでいた。
詰所の塀の向こうには、さらに広い平原と、その先にぼんやりと盛り上がる影が見える。
あれがきっと、土の国の中心――首都バルクレインなのだろう。
「……行こっか」
「うん」
ウィルが横で小さく鳴いた。
ヘイメリア帯の乾いた風は、もう背中の方へと遠ざかっている。
これから吹くのは、土と獣と、人の匂いの混じった風だ。
アルスたちは、新しい馬車へと乗り込んだ。
ドロスティアの奥へと続く道が、その先に待っている。




