第53話
飢狼の吠え声が消えて、どれくらい時間が経っただろう。
渓谷の空気は、まだ血と土の匂いが混じったままだった。
それでもさっきまでの張りつめた空気は、少しずつほどけていく。
「ウィル? 怪我はない?」
リデルが、ウィルの体の周りをぐるりと一周するようにして覗き込んだ。
岩狼はふん、とそっぽを向いた。
「こんな程度で怪我してたら恥だ」とでも言いたげな顔だ。
「本当に大丈夫?」
リデルがしつこく毛並みをかき分けて確認していると、ウィルはわずかに眉間に皺を寄せた。
けれど、嫌がって振り払うことはしない。
どこを見ても、血で濡れているのは飢狼たちの方だけだった。
「……平気そうだね」
「うん。よかった」
アルスも胸をなで下ろす。
「ウィル。ありがとう。君のおかげだよ」
そう言って首元を撫でると、ウィルはわずかに目を細めた。
「ウィル、大活躍だったね」
リデルも続けて頬を寄せる。
二人から立て続けに礼を言われて、ウィルはどうにも落ち着かなさそうに視線を泳がせた。
顔つきだけ見ると「べつに当然だ」と言っているようなのに、尻尾だけがぶんぶんと忙しなく揺れている。
――分かりやすいなあ。
アルスは、そんな様子を見て、少しだけ口元を緩めた。
◆
少し離れたところでは、フィノがカイの足に包帯を巻いていた。
「ここ、まだ痛む?」
優しく問いかけると、カイは短く鳴いて、わずかに足を浮かせた。
「……ごめんね。もう少しだけ我慢して」
フィノの顔にも疲労の色が濃い。
胸元には、さっきまで当てていた土の魔石の残り香がまだ残っている。
その向こうでは、ランドが馬車隊のリーダーと何か話していた。
飢狼の死体は、護衛たちが少しずつ道の脇に運んでいる。
そこへ、ちいさな影が何人か駆けてきた。
「ウィルと、お兄ちゃん、かっこよかった!」
「かっこよかった!」
さっきの子どもたちだ。
両側からぴょこぴょこと飛び跳ねながら、アルスとウィルを交互に見上げている。
「改めて、本当にありがとう」
後ろから追いついてきた父親が、深く頭を下げた。
「さっきも礼は言ったけれど……あれがなければ、どうなっていたか」
「い、いえ。僕は何も……。ウィルががんばったんです」
アルスは思わず俯いた。
本当に、ほとんど全部ウィルがやってくれた。
「そんなことない!」
子どもたちが、同時に声を上げた。
「お兄ちゃんウィルと一緒に、かっこよかった!」
「そうそう!翼の子にも優しかった!」
きらきらした目で見つめられて、アルスは返す言葉を失った。
「僕、決めた!」
一人が、ぐっと拳を握りしめる。
「将来、岩狼隊に入る!」
「私は、谷翼隊に入る!」
もう一人も負けじと胸を張った。
「「お兄ちゃんみたいになる!」」
二人そろってそう叫ぶものだから、その場が一気に明るくなる。
「あらあら、すみません。この子たち、さっきからこればっかりで」
母親が苦笑しながら頭を下げる。
「いえ……」
アルスはどう反応していいか分からず、曖昧に笑うしかなかった。
自分では「全然足りない」としか思えていないのに、
誰かから見れば、少しは「かっこよく」見えたのかもしれない。
そんなことを思うと、胸の奥がむずがゆくなる。
「君たちなら大歓迎さ」
「そうね。お姉さんも大歓迎」
いつの間にか近づいてきていたランドとフィノが、会話に割り込んできた。
ランドは子どもたちの頭をぽんぽんと撫で、フィノは腰に手を当ててにこりと笑う。
フィノは子どもたちから視線を外し、今度はアルスの方をまっすぐ見た。
さっきまでのからっとした笑顔より、少しだけ柔らかい表情だ。
「さっきはありがとね。カイのこと」
「いえ、こちらこそすみません。勝手なことをして」
フィノは肩をすくめるようにして笑った。
「いいのよ。……次は許さないけど」
冗談めかした言い方とは裏腹に、その目にははっきりとした感謝と心配がにじんでいた。
「ところで――」
ランドが、ふっと表情を引き締めた。
「疲れているところ悪いが、血の匂いに誘われて他の獣が来るかもしれん。すぐに移動したい」
その言葉に、ざわついていた空気がもう一度引き締まる。
「みなさん、馬車に戻ってください! すぐ出発します!」
馬車隊のリーダーが声を張り上げた。
旅人たちは慌ただしく荷物を持ち直し、馬車へと戻っていく。
飢狼の死体はできるだけ道から離れた場所に寄せられ、簡単な土をかけられた。
そうして、列は再び、きしむ車輪の音とともに動き出した。
◆
ヘイメリア帯の道をしばらく進んだころ。
先頭にいたランドが手綱を他の兵に預け、後ろの方まで歩いてきた。
「アルス君」
名前を呼ばれて振り向くと、すぐそばまでランドが来ていた。
ドーガは少し離れて、無言で並走している。
「さっきはありがとう。助かったよ」
「いえ、本当に……。ほとんどウィルがやってくれたんです」
アルスは視線を落とした。
あのとき、もしウィルが飛び込んでこなければ、自分がどうなっていたか分からない。
「それでいいのさ」
ランドはあっさりと言った。
「俺たち岩狼隊は、岩狼と一緒に戦うためにいる」
そう言って、ドーガのたてがみを軽く撫でる。
ドーガはわずかに目を細めただけで、余計な反応はしなかった。
「君は土の晶装士なのかい?」
何気ない口調だった。
けれど、アルスの身体は一瞬だけ固まる。
「……いえ。土の導士です」
少し迷ってから、正直に答える。
ランドは小さく呟いた。
「魔石も埋めていないのに、あれだけ岩狼と呼吸を合わせられるとは」
ランドは少し考えて、アルスの肩をちらりと見る。
「アルス君。岩狼隊に入らないかい?」
「えっ?」
アルスは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「君には素質があると思う」
ランドの声色は冗談めいているようでいて、その目は意外なほど真剣だった。
どう返していいか分からず、アルスが口ごもっていると――
頭上から、ひゅう、と風を切る音がした。ランドの隣に音が落ちる。
「ちょっと待って」
声とともに、カイの影が少し低く滑空してくる。
その背から、フィノが身を乗り出して叫んだ。
「さっきの見てなかったの? アルス君……だっけ? どう見ても谷翼隊にふさわしいでしょ!」
「は?」
間の抜けた声を出したのは、ランドの方だった。
「だって、あのカイよ?」
フィノは胸を張る。
「あの気難しい翼獣――カイと、あそこまで心を通わせた人なんて見たことないわ。
翼獣使いは数が少ないのよ。うちとしては喉から手が出るほど欲しい人材だわ」
「カイが気難しいのは、フィノが甘やかしすぎているからだろう」
ランドがぼそりと返す。
「何ですって?」
フィノの眉がぴくりと跳ねた。
「戦士でもない、ましてや晶装士でもないのに、あそこまで岩狼と連携を取れる者はおらん。岩狼と息を合わせられる奴は貴重なんだ」
「いいえ、谷翼隊よ。空から状況を見て、地上と合わせて動く。あの一歩は、谷翼隊の素質だわ」
二人の声が、じりじりと熱を帯びていく。
「岩狼隊だ」
「谷翼隊よ」
アルスは完全にタイミングを失い、苦笑いするしかなかった。
その横で、ウィルが「あきれた」と言いたげにため息をつき、ドーガは視線をそらす。
カイも、「やれやれ」とでも言いたげに短く鳴いた。
人間三人と獣三頭、全員の空気が微妙に揃っているのがおかしい。
「ランドさーん! この先、どのくらい進みますかー?」
前の方から、御者の声が飛んできた。
ランドとフィノの言い合いが、そこでようやく止まる。
「……ともかく、少し考えておいてくれ。“岩狼隊”のことを」
ランドが、半分冗談のように、半分本気の目つきで言う。
「ええ、そうね。“谷翼隊”のことを考えておいて」
フィノも負けじと笑みを浮かべた。
二人は最後にぎろりと睨み合い――すぐにそれぞれの持ち場へ戻っていった。
フィノはカイと一緒に空へ、ランドはドーガとともに先頭へ。
残されたアルスとウィルは、肩の力が抜けたように同時に息を吐いた。
馬車の方へ向かうと、リデルがにやにやしながら言う。
「モテモテだね、アルス」
「モテ……って、そういうのとは違うと思うけど」
アルスは顔を赤くしながら視線をそらした。
ウィルはそんな二人を横目に見て、ふん、と鼻を鳴らす。
それでも、尻尾だけは、やっぱり少しだけ楽しそうに揺れていた。




