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造物のアルス  作者: おのい えな


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第52話

 灰色の影が、弾かれた矢みたいに飛んできた。


 アルスは反射的に足をずらす。

 風を裂く音と一緒に、狼の爪がすぐ横をかすめた。


 地面に着地した飢狼は、そのまま滑るように向きを変え、低い姿勢のままウィルに飛びかかる。


 牙と牙がぶつかる音がした。


 ウィルの体格は、相手よりひと回り大きい。

 何度も戦いをくぐり抜けてきたせいか、身体の動きにも無駄がない。


 前足で相手の体勢を崩し、肩から突きかかる。

 飢狼はそれをすれすれで躱し、逆に横から噛みつこうとしてくる。


 乾いた土を蹴る音と、唸り声だけが、荒れた渓谷に重なって響いた。


(……すごい)


 アルスは一瞬、見惚れそうになった。


 けれど、すぐに我に返る。


(僕も、何かしないと)


 フィノみたいに、地面を固めて足を取ることくらいなら――そう思って、アルスはそっと足もとに意識を向けた。


 土の流れをつかもうとする。


 けれど、ヘイメリア帯の地面はほとんど反応してくれなかった。


 ひび割れた地面は乾ききっていて、いつも感じる「流れ」がほとんどない。


(……だめだ。この土地じゃ、魔法は頼りにならない)


 指先に力を込めても、土は鈍く沈黙したままだった。


 その間にも、ウィルと飢狼のぶつかり合いは続いている。


 何度かの噛みつき合いを繰り返しながら、やがてウィルが少しずつ押し始めた。

 体格の差と、戦い慣れた経験の差が出てきたのだろう。


 飢狼は息を荒げ、毛並みの間から血をにじませている。


 その濁った目が、一瞬だけ逸れた。


 視線の先には、幌馬車。


 その隙間から、小さな身体が身を乗り出していた。


「ウィル、がんばれー!」


 子どもの声。


 昨日、ウィルのお腹を枕にして寝ていた子だ。


「だめ! 隠れてなさい!」


 母親が慌てて抱き寄せようとする。

 けれど、子どもはウィルから目を離せず、半身を外に出したままだ。


 その瞬間、飢狼の身体から、違う種類の力がにじみ出た。


 勝てない、と悟ったのかもしれない。


 ウィルの方から、馬車へ。


 飢えた視線が、迷いなく向きを変えた。


 地面を蹴る音が変わる。

 全力の、一直線の突進。


「っ――」


 アルスの身体が、先に動いていた。


 短剣を握りしめたまま、飢狼と馬車のあいだに飛び出す。


 間近で見る飢狼の牙は、思っていたよりもずっと大きくて、鋭かった。


 熱を帯びた獣の息が顔にかかる。


「っ……!」


 避けきれないと判断して、アルスは両腕を広げるようにして、その頭を抱え込んだ。


 上あごと下あごを、それぞれ腕と肩で押さえつける形になる。


 腕の中で、飢狼の筋肉がびくん、と跳ねた。


 すぐ目の前に、牙だらけの口。


 いつ噛み砕かれてもおかしくない距離。


「っ、この……!」


 全身の力を総動員して、アルスは押し返した。


 普通なら、子どもの力でどうにかなる相手じゃない。


 けれどアルスの身体には、ずっと前から、普通じゃない力が宿っている。


 腕が焼けるように痛む。

 指先が痺れて、力が抜けそうになる。


 それでも、少しずつ、ほんの少しずつだけ、飢狼の首の角度を戻していく。


 背中が、幌馬車の木枠にぶつかった。


 馬車に乗っていた子どもの息が、すぐ後ろで詰まるのが分かる。


(ここで、退がったら――)


 喉の奥まで上がってきた恐怖を、歯を食いしばって押し込める。


 飢狼の目が、目の前でぎらついた。


 それでも、アルスは視線を逸らさなかった。


 そのとき。


 横から、灰色の影が飛び込んできた。


 ウィルだ。


 アルスと飢狼のあいだに割り込むようにして、飢狼の首筋に牙を打ち込む。


 そのまま地面へ叩きつけた。


 乾いた土の上で、飢狼の身体がごろりと転がる。


 ウィルが飢狼を押さえつける。


「……っ!」


 アルスは、身体が勝手に動いた。


 馬車に背中を預けたまま、短剣を握り直す。


 押さえつけられた飢狼の喉元に、刃を突き立てた。


 肉を裂く鈍い感触。

 刃が、骨の手前で止まる。


 次の瞬間、勢いよく血が噴き出してきた。

 それは、温かくて、生々しくて。


 アルスは、自分の手の中から「何かが消えていく」感覚を、否応なく突きつけられた。


 飢狼の脚が、数度ひくりと痙攣し――やがて、動かなくなる。

 喉の奥が、きゅ、と締め付けられた。


(……殺した)


 初めての、はっきりとした「命のやり取り」。


 頭が少し、遠くなる。


「お兄ちゃん!」


 袖口を、後ろから小さな手がつかんだ。

 さっき身を乗り出していた子どもだ。


「ウィルと、お兄ちゃんが、守ってくれた……!」


 顔をくしゃくしゃにして、笑っている。


 母親は、子どもを抱き寄せながら、何度もアルスの方へ頭を下げた。


「ありがとう。本当に……」


「い、いえ……」


 アルスは、どう返事をしていいか分からなかった。

 手の中の短剣には、まだ赤黒いものがこびりついている。


(守ったのは、ウィルだ)


 実際、最初の戦いも、最後の一撃のチャンスも、ウィルが作ってくれた。

 自分は、その隙に刃を突き立てただけだ。


(僕は、全然……)


 胸の内で否定する声と、袖を握る小さな手の温かさが、ちぐはぐに混じり合う。

 遠くから、怒号と唸り声がまだ少し聞こえていた。


 そちらを見ると、ランドとドーガ、そのほかの護衛たちが、最後の飢狼たちを追い払っているところだった。

 二匹ほどが、こちらの様子をうかがったあと、あきらめたように踵を返し、谷の奥へと消えていく。


 ランドは追いはしなかった。


 ただ、肩で息をしながらそれを見送り、ドーガの首元をぽんと叩く。

 彼らの足もとには、すでに何頭もの飢狼の死体が転がっていた。


 その光景は、決して気持ちのいいものではなかった。


 ◆


「カイ! 落ち着いて! もう敵はいないよ!」


 フィノの叫び声が、別の方向から聞こえた。


 アルスが振り向くと、少し離れた場所で、カイが暴れていた。


 翼を半ば広げ、足を引きずりながら、近づこうとする人たちを威嚇するように嘴を鳴らしている。


 後ろ足の一本から、赤い血が伝っていた。

 どうやら戦闘の最中に、飢狼に噛みつかれたらしい。


「みんな、近づかないで!」


 フィノが息を切らしながら叫ぶ。


 彼女自身も、片膝を地面につけていた。

 胸元には、小さな土の魔石を押し当てている。


 充填用の石だ。

 戦闘で消耗した埋め込みの魔石に、少しでも土のマナを戻そうとしているのだろう。


 額には汗が浮かび、顔色もあまりよくない。


 それでも、カイから目を離そうとはしなかった。


「痛いのと、怖いので、わけがわからなくなっているんだ……」


 小さくこぼした言葉が、風に紛れて聞こえた。


 アルスとリデル、ウィル、そのほか数人の旅人たちが、遠巻きにその様子を見守っていた。

 カイの鳴き声は、威嚇のそれであると同時に、どこか泣き声のようにも聞こえた。


(痛いよ、助けて――)


 そんなふうに訴えているように見えてしまう。


 気がつくと、アルスの足は、一歩前に出ていた。


「アルス!?」


 隣のリデルが、小さく悲鳴を上げる。


「君! 危ないから下がって!」


 フィノの声が飛ぶ。


 その直後だった。


 カイの翼が、ばっ、と大きく動いた。


 鋭い爪が、アルスの頬をかすめる。


「っ……!」


 熱いものが走った。


 視界の端で、ウィルが低く唸るのが見える。

 今にも飛びかかりそうな体勢だ。


 アルスは、片手を軽く上げてウィルを制した。


「大丈夫」


 自分に言い聞かせるように、そう口にする。


 ゆっくりと、カイに向き直った。


 怒りと恐怖と痛みが入り混じった目が、アルスを射抜く。

 それでも、アルスは視線をそらさなかった。


 そっと、カイの傷ついた足に手を伸ばす。


「……痛かったんだね?」


 できるだけ、静かな声で。


 カイの身体が、ぴたりと固まった。


 嘴の先が、かすかに震えている。


 アルスの手は、自分でも分かるくらい血で汚れていた。

 さっき飢狼の喉を裂いたばかりの手だ。


 その手が、今は、別の生き物の痛みに触れようとしている。


 カイの目が、じっとアルスを見た。


 そこにあるのが、敵意ではないと気づいたのかもしれない。


 張り詰めていた身体の力が、少しだけ抜けていく。


 荒い呼吸が、ほんの少しだけ静かになった。


「カイ……?」


 フィノが、不安と驚きの入り混じった声を漏らす。


 カイは、ゆっくりと視線をフィノに移し、それからまたアルスへ戻した。


 そして、おずおずとした動きで、アルスの頬に嘴の先を押し当てた。


 さっき自分が引っかいた傷の上に、そっと触れる。


 「……大丈夫? ごめん」とでも言いたげな仕草だった。


 その様子を見ていた人たちが、一斉に息を呑む。


 フィノは、何が起きているのか理解できない、といった顔で目を見開いた。


「カイが……」


 それ以上、言葉が続かなかった。


 ウィルも、どこか不思議そうにその光景を眺めている。


 砂混じりの風が、一度だけ、三人と二頭の間を通り抜けていった。


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 飢えた獣たちの吠え声が消えたあとに残ったのは、焚き火もない、ただの静寂だった。


 その真ん中で、アルスは、自分の手の重さだけを確かめるように、そっと指先に力を込めた。

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