第51話
「何かから逃げているのかは分からないが、こっちに向かってる」
頭上から、フィノの声が落ちてきた。
見上げれば、灰色の空を切り裂くように、カイの影が低く旋回している。
その背にしがみつくようにして、フィノがこちらを見下ろしていた。
「どのくらいの規模だ?」
ランドが短く問い返す。
「十強ぐらい。そんなに多い数じゃない」
「……が、こちらは全員を守らないといけない」
ランドは小さく息を吐いてから、顔を上げる。
「私は先に行って、牽制してくるわ」
フィノがそう言うと同時に、カイが翼を大きく広げた。
岩の欠けた崖の側面すれすれを、矢のように滑っていく。
ヘイメリア帯の乾いた風が、白い羽毛をかすめた。
◆
「戦える者はいるか?」
ランドの声が、馬車の列のあいだに響いた。
数人の男が、ためらいがちに手を挙げる。
護衛ではないが、旅慣れた腕の太い者たちだ。
そのとき、ウィルがちらりとアルスを見上げた。
黄色い瞳が、「どうする?」と問いかけてくる。
アルスは、一瞬だけ迷ってから、そっと手を挙げた。
「ありがたい。あなたたちには馬車を守ってもらいたい」
ランドは頷き、全員の顔を見回した。
たしかに飢狼の数は多くないのかもしれない。
それでも、ここには子どもも年寄りもいる。
誰か一人でも抜けられたら、それだけで被害が出る。
「大丈夫だ。安心してくれ。ほとんどの奴は俺たちが担当する」
ランドは、まだ不安そうな旅人たちに向けても声を投げる。
「あなた達は、この馬車を守ってくれ」
幌の隙間から顔を出していたリデルの顔が、きゅっとこわばった。
アルスは、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
――風の国へ向かう旅の途中、盗賊に襲われたとき。
あのときも、ほとんど何もできなかった。
リデルを守ることも、誰かの役に立つこともできなくて、ただ息が切れるまで走っていただけだった。
今度は、同じにはしたくない。
アルスは、ウィルの背から降りた。
「一回、馬車の中に戻ろうか」
背中に乗っていた子どもを抱き上げ、幌馬車に乗せる。
リデルがすぐに手を伸ばして、その子を受け取った。
そのときだった。
「君」
背後から声がした。
振り向くと、ランドがすぐそばまで来ていた。
ドーガは少し離れたところで、じっとこちらを見ている。
「その子は君の晶獣じゃないんだったな」
ランドはウィルを顎で示した。
「だからよく分かっていないと思うが、その子には絶対に魔法を使わせないこと」
アルスが黙ったままでいると、ウィルが「分かってるさ」とでも言いたげに目を細めた。
「最悪、結晶化を招く。注意してくれ」
その言葉に、アルスとリデルの顔が同時に引き締まる。
「……分かりました。絶対に使わせません」
アルスは、ウィルを見据えて答えた。
リデルが一歩近づき、ウィルと額を突き合わせる。
「絶対使っちゃダメよ。お母さんが悲しむ」
ウィルは、静かに目を閉じてその言葉を受け取った。
「それでいい」
ランドは満足そうに頷いた。
「そういえば、君たちの名前は?」
「アルス=ローデンです」
「リデル=グラナードです。この子はウィル」
リデルがウィルの首元を撫でながら答える。
「グラナード……?」
ランドの目がわずかに見開かれた。
次の瞬間、彼は口の端をわずかに上げる。
「グラナード家のご息女か。なおさら、守らんとな」
「え?」
リデルがぽかんとする。
「さあ、そろそろ来るぞ。リデル君は馬車に乗りたまえ」
その言葉に重なるようにして、地面のどこかが、かすかに震えた。
遠くから、低い地響きのような音が近づいてくる。
「アルス。ウィル。頼むぞ」
「はい」
アルスは短く返事をし、腰の短剣の柄を握り直した。
ウィルが、隣で低く唸る。
◆
音の正体は、すぐに目に見える形になって現れた。
ひび割れた大地の向こうから、影がいくつも飛び出してくる。
骨ばった身体。
肋骨が浮き出るほどに痩せ細った四肢。
毛並みはところどころ抜け落ち、残った毛も土埃で汚れていた。
目だけが、ぎらぎらと光っている。
飢狼――飢えた狼たち。
先頭を走る一頭が、喉の奥から低い咆哮を絞り出した。
それに呼応するように、後ろの影も次々と声を上げていく。
乾いた谷に、飢えた声が反響した。
「カイ!」
頭上からフィノの叫び。
カイが翼をすぼめ、一気に高度を落とす。
すれ違いざまに、翼の模様が淡く光った。
次の瞬間、地面の一部がぎゅっと硬く締まり、飢狼の何頭かが足を取られて転ぶ。
そこへ、前線の護衛たちが飛び込んだ。
「ドーガ!」
ランドの号令とともに、岩狼が地を蹴る。
灰色の影が、飢狼の一頭に正面からぶつかった。
そのまま大地に押し倒し、むき出しの牙で首筋に噛みつく。
ランドは、別の一頭の懐に滑り込み、短槍で喉元を一突きにした。
止めどころを迷わない、迷いのない動き。
フィノとカイは、上と横から敵の足を絡め取っていく。
ランドとドーガは、正面からそれを仕留めていく。
人と獣。
二人と二頭の動きに、無駄な隙はほとんどなかった。
「……すごい」
アルスは思わずつぶやいた。
その横で、ウィルが「俺だってあれくらいは」と言いたそうに鼻を鳴らす。
どこか誇らしげな横顔だった。
だが、全部が前だけを見ているわけではない。
ランドたちに押しとどめられた群れの中から、何頭かが横へと飛び出した。
「来るぞ!」
護衛の一人が叫ぶ。
側面から、飢狼が三頭、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。
二頭は途中で方向を変え、別の馬車へ向かった。
残りの一頭が、まっすぐアルスたちの方へと突っ込んでくる。
喉の奥から唸り声を漏らしながら、地面を削るような勢いで。
背中に汗がにじむのが分かった。
「リデルは中に!」
アルスが叫ぶと、幌の隙間から顔を出していたリデルが、慌てて中へ潜り込んだ。
アルスは短剣を抜き、ウィルと並んで一歩前へ出る。
ウィルの低い唸りに応じるように、一頭の飢狼が歩みを緩めた。
互いに円を描くように距離を詰め、黄色い目と濁った目がじりじりと絡み合う。乾いた地面を踏む足音だけが、少しずつ近づいてくる。
アルスの喉が、ごくりと鳴った。
風の国へ向かう旅の途中、盗賊に襲われたときのことが頭をよぎる。
あの時、自分はほとんど何もできなかった。息が切れるまで走って、どうにかミーナを助けただけだ。
――今度は、同じにはしない。
視界が現在に引き戻される。目の前の飢狼は、口の端から糸のような涎を垂らし、背を低くしていた。
今にも飛びかかろうと、前足に力を溜めているのが分かる。
短剣を握る手に、自然と力がこもる。掌に食い込む柄の冷たさが、かえって頭をはっきりさせた。
ひときわ大きく、飢狼の喉が鳴る。
次の瞬間、その灰色の影が、地面を蹴って跳びかかってきた――。




