第5話
マギア院の朝は、山とは違う音で始まる。
鍋の鳴る音。
遠くで鳴る鐘の音。
誰かが本を閉じる、ぱたんという軽い音。
アルスは薄い寝台の上で目を開けた。
天井は木ではなく、白い石でできている。
外から聞こえてくるのは、雪のきしむ音ではなく、人の気配だった。
胸の奥が、少しだけざわつく。
不安とも、期待ともつかない何か。
コン、コン。
「アルス、起きてる?」
扉の向こうから、聞き慣れ始めた声がした。
「……おきてる」
「よかった。朝ごはん行こ。先生にも、ちゃんと食べさせろって言われてるんだから」
リデルが扉を開け、顔を覗かせる。
相変わらずよく動く目で、部屋の中をざっと見回した。
「ちゃんと眠れた?」
「……すこし」
「そっか。じゃあ、今日は“すこし長い一日”になるよ。覚悟してね」
何の覚悟かは分からないまま、アルスは靴を履き、リデルの後をついていった。
◆
食堂は、思っていたよりも賑やかだった。
長い木のテーブルがいくつも並び、
ローブ姿の大人や、アルスより少し年上の子どもたちが座っている。
湯気の立つスープの匂い。
焼いたパンの香ばしい匂い。
魔石コンロの青い火が、壁際で静かに揺れていた。
「ここ、空いてるよ。座って」
リデルが椅子を引き、向かいに腰を下ろす。
木のトレイの上には、固めのパンと薄いスープ、少しの果物。
山での食事よりは、少しだけ色が多い。
アルスはスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。
「……あったかい」
「でしょ? ここ、食事だけはわりといいの。お金のない院は、もっとひどいって聞いたことある」
周囲から、ちらちらと視線が向けられているのをアルスは感じていた。
「あの子、この前来た……」「リュマ先生のところの?」
そんな囁きが、遠くで小さく揺れる。
アルスは、どう返していいか分からないから、何も言わない。
その沈黙を、リデルがさらりと埋める。
「気にしなくていいよ。新しい子が来たら、みんなだいたいあんな感じだから。
私も前は見られる側だったし」
「……リデルも?」
「うん。地方の村から初めて来たとき、ずーっと見られてた。髪の色が珍しいって」
自分の栗色の髪を指でつまんで、リデルは笑った。
「でも、そのうち飽きるから。人ってだいたいそういうものだよ」
アルスは少し考えてから、小さく頷いた。
「……たぶん」
「たぶん!」
リデルが、また同じ調子で返す。
アルスの胸のざわつきが、ほんの少しだけ軽くなった。
◆
「じゃ、今日はまず院内を案内してあげる。先生から頼まれてるんだ」
食事を終えると、リデルは胸を張った。
「だってアルス、昨日ここに泊まりに来ただけで、ほとんど何も見てないでしょ?」
「……うん」
「じゃ、出発!」
マギア院の中庭は、石畳が敷かれ、小さな噴水が中心にあった。
噴水の水は、魔石の力で絶えず循環しているらしい。
「あれが研究棟。おじさんたちが難しい顔して歩いてるところ。
あっちは図書棟。眠くなりたいときに行くところ」
「……ねむくなるの?」
「本が多すぎてね!」
リデルは指を一本一本伸ばしながら、建物を指していく。
「こっちが授業で使う教室。
こっちが魔石の実験場。もう少し大きくなったら、入っていいことになってる」
途中、年上の少年が声をかけてきた。
「リデル、それ新入り?」
「うん。リュマ先生のところの子」
「へえ。珍しいね。先生が直々に取ったって噂の」
少年の視線が、アルスの髪と目をなぞる。
白い髪。
紫の瞳。
アルスはどうしていいか分からず、視線を落とした。
「変なこと言ったら、先生に怒られるよ?」
リデルが、さっと少年とアルスの間に割って入る。
「この子、まだ山から降りたばっかりなんだから」
「山? ……ふーん。まあ、がんばれよ」
少年は肩をすくめて歩き去った。
アルスは小さく口を開きかけ、しかし言葉が見つからず閉じた。
「……かわってる、のかな」
「そりゃあ、ちょっとはね」
リデルはあっさりと言った。
「でも、ここにいる人、だいたいみんな“どこか変”だから。
普通の人は、マギア院なんかまでわざわざ来ないよ」
アルスは、少しだけその言葉を気に入ったような顔をした。
◆
午前の授業は、石造りの教室で行われた。
半円形に並ぶ机。
壁に描かれた世界地図と、五つの国の境界線。
黒板には、すでにいくつかの文字が書かれていた。
「今日からここでも学んでもらうことになる、アルスだ。
分からないことがあったら、あとでリュマに聞きな」
黒髪で細い目をした講師が、簡単にそう紹介しただけで授業を始めた。
「では続きだ。昨日は“魔石”的な視点から見た五つの国の成り立ちだったな。
今日は“導士”という存在が歴史に現れた時期についてだ」
アルスは、机の上の紙とペンを見つめる。
字はゆっくりなら読めるが、書くのはまだまだ遅い。
「この世界の人間は、本来マナを扱えない。
マナに触れるために生まれた道具が魔石であり、
魔石を埋め込んだ者たちが『晶装士』と呼ばれた」
講師は黒板に、簡単な図を描く。
人間の輪郭。
そこに、一つの魔石が埋め込まれる図。
「魔石使いは、埋め込んだ属性のマナだけを扱える。
火の魔石なら火だけ。水なら水だけ。身体に特異な影響が出ることもある」
リデルはさらさらとペンを走らせていた。
アルスは、その手つきだけをじっと見ている。
「それに対して――」
新たに、別の図が描かれる。
「ごく稀に、生まれつきマナを感じ取り、操作できる者が現れた。
魔石を使わずに、外の現象としてマナを動かす者。これが『導士』だ」
ざわめく声は、誰からも上がらない。
ここにいる者たちは、皆すでに何度も聞かされている話だからだ。
「導士は特異性こそ持たないが、現象を制御する力に優れる。
炎そのものをまっすぐ飛ばしたり、風の流れを織り直したり――
だが扱える属性は、多くて一つか二つに限られる」
アルスは、小さく息を飲んだ。
ユベルが使っていた魔法。
山で見た、炎の軌跡、水の流れ、石の動き。
それらが、今、言葉として繋がっていく。
「晶装士は、魔石を通してマナに触れる。
導士は、外の世界にただ触れてマナを動かす」
「そして魔法を扱うものを総称して『魔法士』と呼ぶ』
講師の声は淡々としていた。
◆
午後、アルスは再びリュマの部屋を訪ねた。
「来たね。座りな、アルス」
机の上には、いくつかの器具が並んでいた。
透明なガラス球、小さな魔石灯、空のコップ。
「今日は、あんたが何をどこまでできるのか、少し試してみようと思ってね」
リュマはガラス球を指でとんと叩いた。
「まずは、いちばん簡単なやつだ。
ここに火の魔石が仕込んである。火のマナが潤沢にあるだろう。
普通は、魔法士なら、少し意識を向けるだけで中に火花が灯せる」
アルスは、ガラス球を覗き込んだ。
「……どうするの?」
「ここからは、あたしじゃなくて、“あたしが知ってるやり方”を教えるだけさ。
火のマナをイメージして、指先を通して中に流し込む。
あたたかくて、少し暴れた光だと思えばいい」
アルスは頷き、ゆっくりと指先をガラス球に触れた。
目を閉じる。
息を吸う。
火。
あたたかい。
ゆらゆらする。
頭の中で、その形を掴もうとする。
――何も起きない。
「力を入れるんじゃなくて、撫でるみたいに……そうそう」
リュマの声に従い、アルスは何度かやり方を変えてみる。
ガラス球の底で、かすかに何かが揺れたような気がした。
「……ゆれた」
「どれくらい?」
「すこし。すぐ、きえた」
リュマは、ガラス球の中をじっと見つめる。
たしかに、ほんの一瞬だけ火花の残滓が見えた気がした。
「よし。次は風だ」
今度は、羽根の入った小さな筒が置かれる。
「中の羽根を、少しでいいから動かしてごらん。
風のマナを、指先から送り込むイメージで」
アルスは同じように指を当てる。
羽根は、ほんのわずかに震えた。
だが回るところまではいかない。
「……むずかしい」
「そうだろうね」
リュマの声に、責める色は一切なかった。
「アルス。あんたは、再構築のときみたいに“全部”を見ようとする癖があるだろう?
火だけ、風だけ、って切り分けるのは、むしろ苦手なんだろうさ」
アルスは、少し考えてから頷いた。
「……まざってるほうが、わかる。ばらばらは、わかりにくい」
「普通は逆なんだけどね」
リュマは肩をすくめた。
「まあ、予想はしてた。
再構築みたいなとんでもない魔法はできるくせに、
こういう“一つだけを動かす”魔法は、しばらく苦戦するだろうさ」
「……できない、の?」
「今は、ね。
でも、“できない”と決まったわけじゃない。
あんたの問題は、才能がないことじゃない。
才がありすぎて、力の向け方が分からないだけだよ」
アルスは、その言葉をうまく理解はできない。
ただ、責められていないことだけは伝わってきた。
「ゆっくりやろう。山での三年より、ここでの十年の方が“ゆっくり”かもしれないしね」
リュマは茶を一口飲み、ふっと目元を緩めた。
「今日はここまで。頭が疲れたろう? あとは好きにしていいよ」
アルスは静かに頷き、部屋を出た。
◆
寮の自室に戻ると、窓の外はすでに薄暗くなっていた。
街の方から、遠く鐘の音が聞こえる。
風が塔の隙間を抜ける音は、山のそれとは違う。
粗い毛布。
簡素な机。
小さなランプ。
それでも、この部屋には確かに、
「自分のために用意された場所」という感覚があった。
アルスは寝台に腰を下ろし、天井を見上げる。
ユベルの小屋とは違う。
山の夜とも違う。
けれど――
「……ここで、ねる」
自分で選んだわけではない。
けれど、ここで眠ることを“許されている”気がした。




