第47話
リュマの部屋には、いつもより紙束が多かった。
机の上だけじゃなく、床の端まで書類の山が侵食している。
そのあいだから、あの風鈴の音がかすかに聞こえた。
風の国から持ち帰ったガラスの風鈴だ。
窓際の細い柱に吊るされていて、ときどき気まぐれに鳴る。
「で、結局二人で行くことになったのかい」
紙に目を走らせたまま、リュマが言った。
「でって、なにさ」
アルスは、ちょっとむっとしながら言い返す。
「それに二人じゃないよ。三人だ。狼――ウィルも行くんだ」
「二人と一匹だろうが」
リュマは鼻を鳴らした。
「まあ、ウィルが一緒なら多少はマシかね。あの道は、物騒すぎる」
土の国へ続くヘイメリア帯は、飢えた土地だと聞いたことがある。腹を空かせた獣だけがうろつく道。
そこに生きるものは、いつも何かに飢えている。
「ほれ」
リュマが不意に立ち上がり、机の引き出しをごそごそと漁り始めた。
しばらくして、小さな封筒を一枚ひっぱり出す。
「これを持っていきな」
「何これ?」
アルスが受け取ると、封筒の表には見慣れない名前が書かれていた。
「紹介状」
リュマは、椅子にどすんと腰を下ろす。
「向こうにいる“セラ=ドロステ”っていう、あたしの教え子に渡しな」
「……それが、“姉”弟子?」
アルスは、前に聞いた話を思い出して首をかしげる。
「まあ、そうとも言う」
リュマは片眼鏡を指で押し上げた。
「立派な姉弟子だよ」
「どんな人なんだろう」
アルスが封筒を裏返しながら尋ねると、リュマは少しだけ遠くを見る目をした。
「賢くて、おとなしい子だよ」
「ふーん」
アルスは、セラという見知らぬ誰かの姿を想像した。
ドロスティアという名前の街。
土の導士ばかりが集まる学院。
その中で、リュマに教わった何かを今も覚えている人。
どんな人なんだろう。
怖い人だろうか。
それとも、リュマみたいに口は悪いけど、根っこは優しいのだろうか。
「ああ、それとアルス」
リュマの声の調子が、少し変わった。
「ん?」
「あんたは今から、ユベルの魔法を禁止するよ」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、心臓がどくんと大きく脈打つ。
少し間が空いてから、ようやく言葉が口から出た。
「なんで?」
「課題を忘れたのかい?」
リュマは、机の上の紙束を指でとんとんと叩いた。
「土の導士として、一人前になること?」
「そうだ」
短く、迷いのない声だった。
「それなのに他のマナを使ってちゃ話にならない」
「でも――」
喉元まで出かかった言葉を、アルスは飲み込んだ。
ユベルの魔法は、自分の宝物。
そう思う部分が、胸のどこかに確かにある。
「お前は、まだ魔法士として魔法の発想が弱い」
リュマの言葉は、淡々としていて、だからこそ重い。
「だから、一個に絞っていろんな使い方を試しな」
アルスは、言葉を失った。
頭の中で、別の声が蘇る。
『全ては発想次第。――もっと自由に考えるものさ』
風の国で、エルネが言っていた言葉。
あのときは、「すごい魔道具を作れる人だからこそ言えるんだ」と思っていた。
でも、今リュマが言っていることも、同じ場所を指しているのかもしれない。
ひとつのマナに絞って、その中でどう戦うか、どう守るか。
「……わかったよ」
少し拗ねたような声になってしまった。
自分でも子どもみたいだと思う。
「そうだよ」
リュマは、口元をわずかに緩めた。
胸の中のもやもやは完全には晴れない。
でも、リュマが間違ったことを言っていないのも分かっている。
「そういえば、ユベルのやつも土の国出身だったね」
不意に出てきた名前に、アルスの背筋がぴんと伸びた。
「……ユベルが?」
土の国。
その言葉とユベルの姿が、うまく結びつかない。
「なんだったかな、あいつの苗字は」
「? ローデンだよ」
「ちがう、旧姓だよ」
「旧姓?」
「おまえそんなことも知らないのかい。通常姓は女性の姓を受け継ぐのさ」
「そのくらい知ってるよ。火の国以外は女性の姓を名乗るんでしょ」
そういえば、ユベルの口から「家族」の話を聞いたことはほとんどない。
「……ああ、思い出した。マグナス。ユベル=マグナスと名乗ってたっけ?」
「ユベルの……家族の名前?」
アルスは、聞き慣れない響きを口の中で転がした。
「さあね。血の繋がった家族か、世話になった家か。本人がたいして話したがらなかったからね」
リュマは肩をすくめる。
「もしかしたら、いるかもしれないね。ユベルのこと知ってる人」
土の国に行けば、ユベルのことを知っている誰かに会えるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が少しざわついた。
「どうだろうな。知っててももうだいぶお年寄りだよ」
リュマは、わざと軽く言ったような声で続けた。
ユベルの過去に触れることが、楽しみなのか、怖いのか。
自分でもはっきりとは分からなかった。
「それで」
リュマが、わざとらしく咳払いをした。
「今回は何を買ってきてくれるんだい」
部屋の窓から、小さな風が入り込む。
ガラスの風鈴が、ちりん、と鳴った。
アルスは、少し笑って肩の力を抜いた。
「まだ何も決めてないよ」
「いいかいアルス。変なものほど、後で役に立つんだ」
リュマの目が、片眼鏡の奥で楽しそうに光っていた。
◆
学院の食堂には、まだいくつかの灯りが残っていた。
夕食の時間はとうに過ぎていて、人の数も少ない。
それでも、漂う匂いとざわめきの名残は、相変わらず温かい。
アルスが食堂の扉を押して中に入ると、温かい空気とスープの匂いがふわりと流れてきた。
「ミーナ。元気そうだね」
「あー、アルス」
窓際の席に座っていたミーナが、ぱっと表情を明るくして手を振った。
アルスはその席まで歩いていき、向かい側の椅子を引いて腰を下ろす。
「おー、アルス。珍しいね、どうしたの?」
「今度は土の国に行くことになったんだ」
「えーいいなー」
ミーナは机の向こう側から身を乗り出した。
その反応はいつも通りで、少しだけ肩の力が抜ける。
「だから、これを」
アルスは肩から下ろした鞄の口を開け、小さな布袋を取り出した。
袋の中では、淡い色の結晶がいくつも触れ合って、かすかに音を立てる。
「これ、エルネさんから頼まれてたもの」
「うん。ありがとう」
ミーナは両手で袋を受け取り、その重さを確かめるように持ち上げた。
「お父さんも喜ぶよ」
その言い方に、少しだけ誇らしげな色が混ざっていた。
「風の国に、今度はいつ行くの?」
「一ヶ月後ぐらいかなー? お母さんの研究次第」
ミーナは、いつもの調子で答える。
「じゃあその時はエルネとエルドによろしくね」
「わかった!」
短いやりとりの中に、風の国とアルベスがちゃんとつながっている感覚があった。
ミーナが袋を大事そうにしまいかけて、ふと思い出したように顔を上げる。
「あ、アルス!」
「お土産お願い!」
迷いのない一言だった。
「もちろん」
アルスは、思わず笑って頷いた。
食堂の窓の外には、夜のアルベスの街灯りがにじんで見える。
風の国。土の国。
少しずつ場所は増えていくけれど、そこにいる人たちと交わした約束が、細い糸みたいにつながっていく。
アルスは胸の前で鞄の紐を握り直し、窓の外の暗さを見つめた。




