第46話
香草茶の香りが、まだ部屋の中に残っていた。
土の国に行く。
リデルの「行きたい」という言葉と、アーデンの「わかった」が交わされてから、少し時間が経っている。
話はいつのまにか、「いつ出るか」「どういう道を通るか」みたいな、現実的な段取りの方に移っていた。
アルスはカップを両手で包みながら、その話を聞いていた。
「ただ、二人だけは心配ねぇ」
アスリナが、小さく呟いた。
さっきよりは表情も柔らいでいるけれど、その目の奥には母親としての不安がにじんでいる。
「ヘイメリア帯を抜けるんだろう? 国道とはいえ、危ないところだもの」
「俺も、今ここを離れられないしな」
アーデンが腕を組んだ。
「患者もいるし、研究もある。何より、アスリナをこのまま置いていくわけにもいかない」
「じゃあ、ウィルを連れてってもらいましょ」
アスリナがさらりと言った。
「それだと君が……」
アーデンが目を丸くする。
「ウィルは、君の足代わりでもあるんだぞ」
「少しぐらい平気よ」
アスリナは、当たり前のことのように言う。
「それに私も親として何かしたいの」
その言葉に、リデルがはっと顔を上げた。
「私とあなたの子どもが危ないところに行くのよ。何か一つぐらい、力にならせてほしいわ」
アスリナは、アーデンに視線を向けた。
「それに、あなたがもっと私の面倒見てくれるものね?」
「ア、アスリナ……」
アーデンが、さっきアルスがビンタしたときとは別の意味で固まる。
その様子に、アスリナはくすりと笑った。
「この子達見てたら羨ましくなっちゃったわー」
目だけでリデルとアルスを指し示す。
「お姫様抱っこでもしてくれるわよね」
「まあ、もちろんさ」
アーデンが反射的に胸を張る。
リデルが、思わず横目でそのやりとりを見た。
「……何これ」
小さく漏らした声に、アスリナが振り向く。
「さっきまで私の心配だったじゃない」
「それとこれとは別よ」
アスリナは、どこか楽しそうに答えた。
そのとき、部屋の外の廊下で、爪が床を打つ音がした。
と、ずしん、と少し重たい足音も混じる。
扉が鼻先で軽く押されるようにして開き、灰色の狼が頭を突っ込んできた。
鉱石のようにきらりと光る結晶が、肩や額のあたりにいくつか浮かんでいる。
大きな体に似合わず、目はどこか人懐っこい。
晶獣の狼――ウィルだ。
部屋の空気を一度嗅いでから、ウィルは大きくあくびをした。
そのまま、とことことアルスの方へ歩いてくる。
「わっ」
アルスは椅子から少し腰を浮かせた。
ウィルはそんなことおかまいなしに、アルスの周りをぐるりと一周する。
鼻先を近づけて、服の裾や手の匂いを確かめるように、ひとしきりくんくんと嗅いだ。
それから、満足したように尻尾を一度振り、アルスの腰に体を擦り付けてきた。
「うわ、ちょ、重……」
よろけそうになりながらも、アルスは思わず笑ってしまう。
「あら、ウィルが私たち以外に懐くなんて珍しいわね」
アスリナが目を丸くする。
「本当だ」
アーデンも驚いた顔だ。
「私にもあんなにこないのに」
「グラナート家に人が増えるのも時間の問題かもね」
アスリナがさらりと言い、ニヤリと笑う。
リデルは、顔を真っ赤にした。
「お母さん!」
「だって、本当のことでしょう?」
アスリナはおどけたように肩をすくめる。
アルスは、何のことかさっぱり分からない。
ただ、目の前の大きな狼に全力で意識を持っていかれていた。
「……ウィル。くすぐったいって」
もふもふとした毛並みに押されながら、アルスはそっと手を伸ばして耳のあたりを撫でた。
ウィルは気持ちよさそうに目を細める。
「でも不思議。本当にここまで懐いているのは珍しいわ」
アスリナは、興味深そうに二人――いや、一人と一頭を眺めていた。
「ウィルも付いていきたいの?」
問いかけるように声をかける。
「ワン!」
ウィルは短く吠えた。
その声は、大きいのにどこか弾んでいて、「行く」と言っているように聞こえた。
「なら、安心」
アスリナはふっと笑う。
「ねぇ、あなた。楽しみね」
何が、とは言わなかったけれど、声の調子でだいたい伝わってくる。
――多分、アーデンはこれからもっと働かされる。
「あ、あぁ」
アーデンは、どこか観念したように返事をした。
アルスは、ウィルの頭を撫でながら胸の奥でほっと息をついた。
頼もしい味方が一人――一頭、増えた気がした。
まだ見ぬヘイメリア帯や土の国への不安は消えないけれど、それでも心強い。
◆
やがて、テーブルのお茶もすっかり冷めて、壁の時計の針が遅い時間を指し始めていた。
「そろそろ戻らないと」
アルスがそう言うと、リデルも席を立った。
「送っていこうか?」
リデルが言いかけたところで、
「俺が行こう」
アーデンが立ち上がる。
「学院の近くまでなら、ちょうどいい散歩だ」
「ウィルも行く」
ウィルが勝手に決めたように立ち上がり、あくびをした。
「私はここで待ってるわ」
アスリナは、ベッド代わりの長椅子に腰を下ろしながら微笑む。
「アルス君」
彼女がアルスを見上げる。
「リデルを、よろしくね」
「はい」
アルスは、自然と背筋が伸びるのを感じた。
玄関で靴を履き、外に出る。
夜風が、昼間より冷たく頬を撫でた。
遠くで、どこかの家の風鈴が小さく鳴る。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
リデルとアスリナの声を背中に受けて、アルスはアーデンと並んで歩き出した。
その後ろを、ウィルが静かに付いてくる。
◆
夜のアルベスは、昼間とは違う顔をしていた。
店の灯りはほとんど落ちて、通りの灯りだけがぽつぽつと道を照らしている。
人影もまばらだ。
ウィルの足音と、アーデンの靴音、そしてアルスの足音だけが、石畳に規則正しく響いていた。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
静かな夜風と、遠くの犬の鳴き声だけが耳に入ってくる。
学院の塔が、遠くにぼんやりと見え始めたころ、アーデンがふいに口を開いた。
「ところで」
「はい」
「娘とはどういう関係なんだ?」
唐突な質問に、アルスは思わず足を止めそうになった。
「ん? 友達ですよ?」
正直にそう答える。
「そんなはずは……」
アーデンは、途中で言葉を切った。
夜の灯りに照らされた横顔は、どこか複雑そうだ。
「本当なのか?」
「? はい」
アルスは首をかしげながらも、はっきりと頷いた。
「リデルは、僕の最初の友達です」
それを聞いたアーデンは、深くため息をついた。
「はぁ……娘は苦労しそうだ」
「?」
アルスはますます首をかしげる。
何がどう苦労なのか、さっぱり分からない。
ウィルが、そのやりとりを聞いていたかのように、鼻を鳴らした。
アーデンは、しばらく黙って夜空を見上げていた。
月は半分ほど欠けている。
その光が、学院の塔の輪郭を薄く照らしていた。
「……アルス君」
やがて、アーデンがこちらを見た。
「はい」
「ありがとう」
短い言葉だった。
でも、その一言に、さっきまでの溜め込んでいたものが全部詰まっているように感じた。
「こちらこそ」
アルスは、自然とそう返していた。
「僕も、リデルと友達になれて良かったです」
アーデンは、少しだけ目を細めた。
「そうか」
その声には、どこか安心したような響きが混ざっていた。
学院の門が近づいてきたところで、アーデンとウィルは足を止めた。
「ここまでだな」
「送っていただいて、ありがとうございました」
アルスが頭を下げると、ウィルが名残惜しそうに鼻先を押し付けてきた。
「ウィル。またすぐ会えるよ」
頭を撫でると、ウィルは一声だけ短く吠えた。
まるで「分かってる」とでも言うように。
「じゃあ、また近いうちに」
アーデンが手を軽く上げる。
「はい。また」
アルスも手を振り返し、学院の方へと歩き出した。
背中越しに、ウィルの足音が遠ざかっていく。
夜風が、少しだけ強く吹いた。
明日から先のことを考えると、不安と期待が入り混じって胸がざわつく。
それでも、隣にリデルがいて、背中を押してくれる家族がいて、一緒に走ってくれそうな狼がいる。
それだけで、さっきより少しだけ、足取りが軽くなった気がした。




