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造物のアルス  作者: おのい えな


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第45話

 学院の中庭は、もう人の気配がほとんどなかった。


 昼間は生徒たちの声でいっぱいになる石畳も、今は薄闇に沈んでいる。

 木の影が伸び、風が通るたびに葉がさわさわと揺れた。


 アルスは、息を切らせながら中庭に入った。


 ここまでに、思いつく場所は一通り回った。


 川沿い。よく風鈴の音が聞こえる広場。学院へ続く坂道。

 それでも見つからなくて、最後にここに戻ってきた。


 中庭の中央、いつも二人で座っていたベンチがあるあたりを見やる。


 薄暗い中で、誰かの影が見えた。


 ベンチの端に、小さく丸くなって座っている。


「……リデル」


 名前を呼ぶと、肩がびくりと動いた。


 アルスが近づいていくと、月明かりに照らされて、うつむいた横顔がはっきりする。


 両膝を抱えたまま、頬を膝に押しつけていた。

 さっき叩かれた方の頬は、まだ少し赤い。


「こんなところにいた……」


 アルスは、少しだけ息を整えてから言った。


「さ、帰ろう」


「いや」


 間髪入れずに返事が来た。


 顔は上げないまま、膝に押しつけた頬の向こうから、くぐもった声だけが返ってくる。


「アスリナさんも心配してたよ」


「しらない」


 短く、固い。


 アルスは、ベンチの少し離れたところに立ったまま、夜風を一度深く吸い込んだ。


 どう言えばいいのか、頭の中で言葉が空回りする。


 帰ろう、と繰り返すだけじゃ、きっと動かない。


 ここから何かを変えたいと思うなら、自分の方がなにか言わなきゃいけない。


 それは、さっきアーデンに向かって言葉を放ったときと、似た種類の恐さだった。


 それでも、言葉を選ぶしかない。


「リデル」


 少しだけ間を置いてから、アルスは口を開いた。


「僕はね、最初にできた友達が君でよかったって思ってる」


 リデルの肩が、ほんの少しだけ動いた。


「君は、僕のお世話係だったのかもしれない」


 入学したばかりの頃のことを思い出す。

 右も左も分からず、学院のことも、アルベスのことも知らなかった自分。


 何から何まで世話を焼いてきたのは、ほとんどリデルだった。


「でも、君からいろんなこと教えてもらって、ミーナやヴァーンにも会えて」


 ミーナの笑い声。

 ヴァーンの馬鹿みたいな勢い。


 そのどれも、リデルがいなかったら出会えていなかった。


「君が僕の世界を広げてくれたんだ」


 自分で言っていて、顔が熱くなる。


 けれど、ここで引き返したら、さっきの言葉たちが嘘になってしまう気がして、アルスは視線をそらさず続けた。


 リデルはまだ顔を上げない。

 それでも、「……うん」と小さく返事が聞こえた。


 ちゃんと聞こえている。


「だから、今度は僕に力にならせてくれる?」


 言いながら、自分でも無茶を言っていると思った。


 自分のことでさえ、まだまともに整理できていないのに。


「……どうやって。アルス弱いじゃない」


 ようやく顔を少し上げたリデルが、横目でこちらを見る。


 涙はもう落ち着いているけれど、目の周りは赤い。


「そうだね」


 アルスは、苦笑いを浮かべた。


「それでも、僕がガツンとアーデンさんに文句言ってやる!」


 自分で言って、ちょっとおかしくなる。

 さっきビンタを見て、足がすくんだのは自分の方だというのに。


「なんなら、一発ビンタかましてやる!」


 リデルが、ぴくっと肩を震わせた。


 しばしの沈黙のあと、ふっと小さく笑い声が漏れる。


「……ガツンと?」


「うん。ガツンと」


「思いっきりやってくれる?」


「思いっきりやるさ」


 言いながらも、本当にやったらどうなるだろう、という未来が頭の中でちらついて、アルスは心の中でだけ頭を抱えた。


 でも、今はそれでいい。

 少なくとも、さっきより少しだけ、リデルの表情が柔らかくなっている。


 リデルは袖でごしごしと目元をこすった。


「元気出た?」


 アルスがそう聞くと、リデルは少しだけ考えるように黙ってから答えた。


「……まだ」


 返ってきたのは正直な言葉だった。


 それから、すっと手が伸びてくる。


 リデルが、アルスに向かって片手を差し出していた。


「手、つないで」


「え?」


 少し驚いて聞き返すと、リデルは涙の跡の残る顔で、わざとらしく顎を上げた。


「はい、って言うの。アルス」


 その表情がどこかおかしくて、アルスの口元も緩む。


「はい、リデルお嬢様」


 少しだけ芝居がかった口調で答えて、差し出された手を取る。


「予期に計らえ」


 リデルが、今度は笑いをこらえきれないような顔で言った。


 二人は顔を見合わせて、くすりと笑う。


 指を絡めるようにして、しっかりと手を繋いだ。


 ベンチから立ち上がる。


 夜の中庭は、風がひんやりとしている。

 校舎の窓から漏れる灯りが、石畳を淡く照らしている。


 二人は、その光の中を並んで歩き出した。


 そこから先、家に着くまでのあいだ、どちらも一言も喋らなかった。


 それでも、不思議と寂しくはなかった。


 ◆


 グラナード家の前に着いたときには、空はすっかり暗くなっていた。


 玄関の上の小さな灯りが、門と庭の一部だけを照らしている。

 窓の向こうには、暖かな光が揺れていた。


 玄関前で、二人は立ち止まった。


 繋いでいた手が、わずかに強く握られる。


「……入るよ」


 リデルが、小さくつぶやいた。


「ちゃんと謝るんだよ」


 アルスが言うと、リデルは頷いた。


「……うん」


 扉を開くと、家の中の灯りと匂いが一気に流れ込んでくる。


 いつもの薬草とお茶と布の匂い。

 そして、今日はそこに、ほんの少しだけ緊張の匂いが混ざっている気がした。


「……ただいま」


 リデルが、いつもより小さな声で言う。


「おかえり」


 廊下の奥から、アスリナの声が返ってきた。


 ほどなくして、リビングの方からゆっくりとした足音が近づいてくる。


 扉が開き、アスリナが現れた。


 さっきよりも顔色は少し悪いけれど、それでもしっかりと立っている。

 隣には灰色の狼が寄り添い、支えるように歩いていた。


「おかえり」


 アスリナはそう言って、迷いなくリデルを抱きしめた。


 リデルも、驚いたように目を見開いてから、その腕の中に顔を埋める。


「……ただいま」


 小さくそう返す声が聞こえた。


「おかえり」


 背後から、もう一つの声がした。


 振り返ると、アーデンがリビングから出てきていた。


 しばしの間、言葉を失ったように立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと手を伸ばす。


 アスリナが一歩横にずれると、今度はアーデンがぎこちなくリデルを抱き寄せた。


「……おかえり」


 それだけを言う。


 リデルは少しだけ戸惑ったようにしながらも、その腕の中に身を預けた。


 その様子を見ていたアルスの方に、リデルがちらりと視線を向ける。


「アルス」


 呼ばれて、アルスは「うん」と頷いた。


「……約束、守って」


 目だけで、そう言われる。


 そういえば、そんなことも言った。


 アーデンにガツンと言って、一発ビンタしてやる、と。


 冗談のつもりでもあった。

 でも、今この空気の中で「やっぱり嘘でした」とは言えない。


 アルスは一度喉を鳴らしてから、一歩前に出た。


「……アーデンさん」


 アーデンが、リデルから身体を離し、こちらを見る。


「すみません!」


 アルスはそう言うなり、勢いよくアーデンの頬に平手を飛ばした。


「馬鹿野郎!」


 ぱんっ、と乾いた音が、家の中に響いた。


 自分でも驚くくらいの音だった。


 ヒョロい体のくせに、今日は走り回って身体も温まっていて、力の加減を間違えたのかもしれない。


 その場にいた全員が、一瞬固まった。


 アーデンは、大きく目を見開いたまま動かない。

 アスリナも口元を押さえ、灰色の狼だけが耳をぴくりと動かした。


 アルスは、慌てて頭を下げる。


「本当にすみません! 約束なので!」


 続けて叫ぶと、最初に吹き出したのはアスリナだった。


 くつくつと肩を揺らし、やがて声を上げて笑い始める。


「な、なんだそりゃ……」


 頬を押さえながら、アーデンも笑いをこらえきれなくなったようだ。


 頬に赤い手形をつけたまま、苦笑いしながら頭をかく。


「ふふっ……あははっ」


 リデルも、最初はぽかんとしていたが、すぐにつられるように笑い出した。


 しばらくのあいだ、三人の笑い声が続いた。


 アルスは、なんだかよく分からないままその光景を見ていた。

 さっきまで張りつめていた空気が、笑い声に混じって少しずつ溶けていく。


「さあ、そこにいないで入りなさいな」


 アスリナが、笑いながらもアルスの方に視線を向ける。


「お茶、入れたから」


「は、はい」


 アルスは靴を脱ぎ、リビングの方へと足を踏み入れた。


 ◆


 リビングのテーブルには、すでにカップが四つ並べられていた。


 湯気の立つお茶からは、ほのかな香りが漂っている。

 アスリナのお気に入りだと前に聞いた、少し甘い香草茶だ。


 四人が席に着くと、しばしの沈黙が降りた。


 湯気がゆらゆらと揺れ、カップの表面に小さな波紋が広がる。


 最初に口を開いたのは、アーデンだった。


 テーブルの上で両手を組んだまま、俯いた姿勢から声だけがこぼれる。


「リデル」


「なに」


 向かいに座ったリデルが、少し身を乗り出した。


「すまない」


 アーデンは、顔を上げずに続けた。


「お前の気持ちを考えなくて」


「ほんとね」


 アスリナが、すかさず横から突っ込む。


 アーデンは肩をすくめて、小さく息を吐いた。


「でも、分かってほしい」


 ようやく顔を上げる。


「お前が心配なんだ」


「……わかってる」


 リデルは、カップの縁に指をそっと沿わせながら言った。


「分かってるけど」


 指先が、少しだけ強くカップを押した。


「でも……、それでも行きたいの」


 言葉と一緒に、視線がまっすぐアーデンに向く。


「わたしも、家族の一員として、お母さんのために何かしたいの」


 その「何か」が、どれほど重いかは分かっている。


 アルスは、リュマの工房で聞いた話を思い出した。


 腕や足を切り、代わりに土の魔道具をつける。

 完全な元通りではなくても、動けるようにする可能性。


 それがどれほど怖い選択かも。


「……リデル」


 アーデンは、言葉を失ったように娘を見つめた。


「リデル。でも分かってる? 土の国に行くのは楽ではないのよ」


 アスリナが、静かに口を挟む。


「それに、お母さんは自分のことより、あなたのことを優先してほしいの。分かるわよね」


 優しい声の中に、はっきりとした願いが混ざっていた。


「今の私の最優先がお母さんなの」


 リデルは、迷いなく答えた。


「だから、行きたいって言ってるの」


 アスリナは、しばらく何も言わなかった。


 湯気の向こうで、娘の顔をじっと見つめる。


「……そう」


 やがて、短く息を吐いた。


「なら、私はもう止めないわ」


「アスリナ!」


 アーデンが思わず声を上げる。


「あなた、もうリデルは立派な大人よ」


 アスリナは、夫に視線を移した。


「もう自分で何かを決めるのよ」


「そんなこと。まだ……」


 アーデンは反射的に否定しかけて――途中で言葉を止めた。


 リデルを見る。

 握りしめた手と、まっすぐな目を。


「いや」


 小さく首を振った。


「そうだね」


 その声には、諦めではなく、何かを手放す覚悟のようなものが宿っていた。


「リデル」


 改めて、アーデンは娘の名前を呼ぶ。


「最後に、もう一度だけ聞くよ」


 言葉を選ぶように、一拍置いてから続けた。


「本当に行きたいんだね?」


 リデルは、まっすぐ父の目を見る。


「行きたい」


 はっきりとした声だった。


 アーデンは、目を閉じる。


 そして、ゆっくりと息を吐きながら言った。


「ーーわかった」


 部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。


 アルスは、その瞬間、自分の胸の中にもじわじわと何かが広がっていくのを感じた。


 土の国。

 リュマの弟子。

 アスリナの腕。リデルの覚悟。


 それらが全部、自分の進む道と一本の線で結ばれていく。


 カップの中のお茶は、少し冷め始めていた。


 外では、夜風が風鈴を揺らしていた。


 家の中の笑い声と話し声に混じって、かすかな音色が何度も何度も響いていた。

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