第43話
グラナード家の屋根が見えてきたとき、リデルの足が少しだけ遅くなった。
石畳の角を曲がる。
夕方の光の中で、小さな庭と白い壁が見えてくる。
「ーー自分の家なのに、なんか緊張する」
門の前で立ち止まり、リデルがぽつりとつぶやいた。
「そうだね」
アルスは隣に立ちながら答えた。
胸の奥で、自分も同じように何かが固くなっているのを感じる。
ここに来るのは、三度目。でも、今日の用件は今までで一番重い。
リデルは小さく息を吸い、両頬を軽く叩いた。
「よし!」
そう言って、門を押し開ける。
玄関先の軒には、丸いガラスと木の板でできた風鈴が吊るされていた。
風が通り抜けるたび、澄んだ音が鳴る。
「ただいま」
リデルが扉を開けながら声をかけると、すぐに家の奥から足音が近づいてきた。
「おかえり。あれ、お友達?」
扉の向こうに現れたのは、黒髪にうっすら白いものが混じり始めた男だった。
白衣の袖を雑にまくり上げたまま、少し疲れた顔で笑っている。
アーデン。リデルの父だ。
「あ、アルスっていいます」
アルスは慌てて頭を下げた。
「あー、いつもリデルが話してる子」
アーデンは、なるほど、と言うように目を細める。
「お父さん! 余計なこと言わないで!」
リデルが、真っ赤になって抗議した。
「はいはい。ほら二人とも、そんなところに突っ立ってないで、こっちに来なさい」
アーデンは軽く苦笑して、廊下の奥を顎で示した。
家の中の空気は、前に来たときと同じ匂いがした。
薬草と、お茶と、洗いたての布の匂い。そこに、ほんの少しだけ、インクと紙の匂いが混ざっている。
リデルと並んで廊下を進む。
リビングのような広い部屋に入ると、アーデンはテーブルの椅子に腰を下ろした。
「……で? こんな時間にどうした?」
アーデンが、真面目な顔で二人を見る。
「……えっと、あの」
「その……」
リデルの口が詰まる。
アルスも、どう切り出していいか分からず、手の中で鞄の紐を握りしめた。
「リデル。ほら」
アルスは、小さく息を吸ってから、鞄の中からガラス玉を取り出した。
風の国から持ち帰って、リデルに渡した“風の目”だ。
そのままリデルに手渡す。
「……お父さん!」
リデルはガラス玉をきゅっと握りしめて、一度だけ深く息を吸った。
そして、まっすぐアーデンを見た。
「私、土の国行きたい!」
言葉は、迷いなく飛び出した。
「だめだ」
アーデンの返事も、迷いがなかった。
「それに、急にどうしたんだ」
「急じゃない。ずっと考えてた。お母さんのこと」
リデルは、ガラス玉を握る手に力を込める。
「子供が考えるようなことじゃない」
「もう子供じゃない! 魔石だって入れられる年になった」
「それが子供だって言ってるんだ。無責任なことばかり言う」
アーデンの声が、少しだけ強くなる。
アルスは、口を閉じたまま二人を見ていた。
「無責任」という言葉が引っかかる。
でも、何をどう言えばいいか分からず、喉の奥で言葉がひっかかる。
「それに、それにお父さんだって、最近ほとんど帰ってこないじゃない」
リデルは一歩、テーブルに近づいた。
「仕方がないことだ。リデル……私をあまり困らせないでくれ」
アーデンは、額を指で押さえた。
「お母さんのことは、必ずなんとかする」
「じゃあ……」
アルスの口から、思わず言葉がこぼれた。
「じゃあリデルはどうなるんですか?」
「なに?」
アーデンの視線が、こちらを向く。
「アーデンさんはアスリナさんのために、頑張れます」
アルスは、胸の前で握りしめた手を見つめながら言った。
「でもリデルは? リデルは何の為に頑張れば?」
言った瞬間、自分でも少し震えを感じた。
言い過ぎたかもしれない、という不安と、それでも言わなきゃいけない気持ちがぶつかる。
「そんなもの、自分で考えればいいだろ。まだまだ時間なんて山ほどある」
アーデンの声は、冷たくはない。
ただ、ひどく遠くから聞こえるように感じた。
「……時間なんてない!」
リデルが、噛みつくように言った。
「日に日に弱っていくお母さんを黙って見てろって言うの?」
瞬間。
「――っ!」
乾いた音が、部屋の空気を裂いた。
アーデンの手が、リデルの頬を打っていた。
リデルの体が、ほんの少しだけ横に揺れる。
アルスは、椅子から立ち上がりかけて、足が止まった。
間に入るタイミングを、完全に失っていた。
リデルは、ゆっくり顔を上げた。
頬に赤い跡が浮かび始めている。
目の奥には、涙ではない何か濃いものが滲んでいた。
「……お父さんなんて大っ嫌い!」
絞り出すようにそう言って、リデルは踵を返す。
椅子と椅子の間をすり抜け、廊下へ駆け出していく。
「リデル!」
アーデンが手を伸ばすが、その指先は空を掴んだ。
玄関の扉が勢いよく開く音。
続いて、乱暴に閉まる音が響いた。
残されたのは、アーデンとアルスだけだった。
◆
「……アルス君と言ったか」
しばらくの沈黙のあと、アーデンがぽつりと言った。
さっきまでより、ずっと低い声だった。
「すまない。みっともないところを見せてしまって」
「いえ、そんなこと」
アルスはどう答えればいいか分からず、とっさにそう言うしかなかった。
「分かってるんだ」
アーデンは、椅子に腰を下ろしたまま、両手で顔を覆った。
「私があの子から逃げてるって」
指の隙間から漏れる声は、さっきまでの強さを失っていた。
「なんて情けない親なんだ」
「そうね。情けないわね」
別の声が、それに重なった。
奥の扉から、足音が近づいてくる。
右足を少し引きずるような、ゆっくりとした歩調。
扉が開くと、そこにはアスリナが立っていた。
ベッドの上で見たときよりも、顔色は少し悪い。
けれど、背筋はできる限り伸ばされている。
その横には、大きな狼が一頭。
灰色の毛並みを持つその狼は、アスリナの体を支えるように寄り添っていた。
「アスリナ、寝てなきゃだめだ」
アーデンが顔を上げ、慌てて立ち上がる。
「こんな時に寝てたら、私は親として失格よ」
アスリナは、肩で息をしながらも笑った。
「そんなことになるなら、こんな足捨てた方がましよ」
布の下の足先が、わずかに震えている。
狼が心配そうにアスリナの顔を見上げた。
「……アスリナ」
アーデンは、一歩も近づけないようにその場に立ち尽くしていた。
アスリナは、ゆっくりとアルスの方へ視線を向ける。
「アルス君」
「はい」
「申し訳ないけど、リデルを迎えに行ってくれるかしら?」
声は柔らかいのに、その瞳にははっきりした強さがあった。
「はい」
アルスは即座に頷いた。
「たぶん。君ならどこにいるか分かると思うから」
アスリナは、そう言って微笑んだ。
君なら分かる。
その一言が、アルスの胸の中に重たく、でも決して嫌ではない重さで落ちてくる。
「行ってきます」
アルスは頭を下げ、踵を返した。
玄関へ向かう廊下を駆け抜ける。
扉を開けると、外の空気が一気に流れ込んできた。
リデルが行きそうな場所を、頭の中で次々と挙げていく。
学院の中庭。
川沿いの道。
風鈴がよく鳴る、あの小さな広場。
「……リデル」
名前を小さく呼んでから、アルスは走り出した。
夕方の風が、背中を強く押した。




