第42話
ちりん、と小さな音が鳴いた。
アルスの部屋の窓際で、風の国から持ち帰ったガラスの風鈴が揺れている。
薄い光が、机の上の紙や本の影を、ゆらりと揺らした。
「……ねえ、アルス」
ベッドの方から声がした。
振り向くと、リデルがうつ伏せに寝転んで、手のひらの上で小さなガラス玉を転がしていた。
淡い青と透明のあいだを揺れる玉。
その中に、白い糸のような筋がゆっくりと渦を巻いている。
風の国から帰ってきて、一週間。
ガラス玉は、その数日前にもう渡していた。
「それ、飽きない?」
アルスは椅子に腰掛けたまま、半分あきれたように言った。
「飽きない」
リデルは、即答した。
「見てると落ち着くんだもん。ほら、ここ。光の入り方で、ちょっと形変わるでしょ」
掌を少し傾けると、玉の中の白い糸が別の形に見える。
アルスは、少し身を乗り出して覗き込んだ。
「……確かに。雲みたいにも見えるし、風の道みたいにも見える」
「でしょ」
リデルは、嬉しそうに目を細めた。
その横で、風鈴がまた一度、ちりんと鳴る。
アルスは、その音を聞きながら窓の外をちらりと見た。
アルベスの屋根と、風の国の崖の上の景色が、一瞬だけ頭の中で重なる。
「そういえばさ」
リデルがガラス玉から視線を離さないまま言った。
「風の国に行く前に、私、言ってたよね」
「ん?」
「『帰ってきたら、話したいことがある』って」
アルスは、少しだけ間を置いて頷いた。
「ああ。覚えてるよ」
風の国へ行く前の日、リュマの工房で。
リデルが少し真面目な顔でそう言ったのを、アルスは思い出す。
「この一週間、なんかタイミング逃してばっかりで」
リデルは、ガラス玉を胸の前に持ち上げた。
「アルス、リュマさんのところ行ってたり、報告とかで忙しそうだったし」
「うん。そんな感じだったね」
実際、アルスの頭の中も、風の国から持ち帰ったものごとでいっぱいだった。
ユベルの手紙、自分の体のこと、リュマの話。
「でも、もうこれ以上伸ばしたくないからさ」
リデルは、ガラス玉をぎゅっと握った。
「今日、ちゃんと話したい」
アルスは、彼女の表情を見た。
声の調子はいつものリデルに近い。
でも、目の奥にある色だけが、少し違って見える。
「ここで?」
「うーん……できれば、うちで」
リデルはガラス玉を両手で包むと、そっと立ち上がった。
風鈴が、それに合わせるように小さく鳴った。
◆
グラナード家は、少し大きい。
低い柵の向こうに、小さな庭。
植えられた草木が、きちんと手入れされているのが分かる。
玄関の横の軒には、丸いガラスと木の板を組み合わせた風鈴が吊るされていた。
風が吹くたび、澄んだ音が鳴る。
「ただいまー」
扉を開けながら、リデルが声を張った。
返事はすぐには返ってこない。
けれど、家の中の空気は、人の気配がする温かさを持っていた。
「入って」
「お邪魔します」
アルスは靴を脱ぎ、廊下に上がる。
外より少しひんやりとした空気。
薬草と、お茶と、洗いたての布の匂いが混ざっている。
リデルはガラス玉を片手に持ち直し、「こっち」と手招きした。
「まず、お母さんのところ行こ」
廊下の奥へと進み、角を曲がる。
いくつかの扉を通り過ぎ、一番奥の扉の前でリデルが足を止めた。
「お母さん、入るね」
軽くノックしてから、扉を開ける。
アルスも、後ろからそっと覗き込んだ。
部屋の中は、廊下より少し暗かった。
厚手のカーテンが半分ほど閉じられていて、差し込む光が柔らかく床に落ちている。
その光の中、部屋の中央に置かれたベッドに、ひとりの女性が座っていた。
背もたれに寄りかかるように上半身を起こし、膝の上には薄い毛布。
片側の腕は布に隠れていて、輪郭が少し不自然に見える。
「あら」
女性――アスリナが顔を上げた。
目元に疲れの色はあるけれど、表情は穏やかだ。
「いらっしゃい。リデルが友達を連れてくるなんて、珍しいわね」
「珍しくないよ」
リデルが、少しむくれたように言う。
「アルス、挨拶して」
「あ、はい」
アルスは慌てて一歩前に出た。
「はじめまして。アルスです。いつも、リデルには、お世話になってます」
「ふふ。ちゃんとしてるわね」
アスリナは、口元に笑みを浮かべた。
「私はアスリナ。リデルの母です。いつも娘が、お世話になっているわ」
「そんな……」
アルスは、どう返せばいいか迷って、結局頭を下げることしかできなかった。
近くで見ると、アスリナの髪の毛には薄い白いものが混じっている。
頬は少し痩せていて、肩より先は布の下で動かない。
それでも、目の光は柔らかい。
リデルは、咳払いして話を戻した。
「今日は、アルスとちょっと話したいことがあるから、先に自分の部屋行ってくる」
「アルスくん、リデルのことよろしくね」
「えっと……努力します」
そう答えると、アスリナは満足そうに頷いた。
「じゃあ、お邪魔しました」
アルスが頭を下げると、アスリナは軽く手を振るように指先を動かした。
扉をそっと閉めると、部屋の中の光が細く切り取られて消えた。
◆
リデルの部屋は、階段を少し上がったところにあった。
「ほんとに片付いてるの?」
「ちゃんと片付けたもん。さっき急いで」
そう言って扉を開けると、中は思ったより整っていた。
机の上には本とノートが整然と積まれ、窓際には小さな観葉植物。
ベッドの上には、柔らかそうなクッションがいくつか置かれている。
窓の上には、さっき玄関で見たものと似た風鈴が一つ。
風が入り込むたび、ちりん、と静かに鳴った。
「座って」
リデルはベッドの端に腰をおろし、アルスに椅子を示した。
アルスは言われた通り、机のそばの椅子を引いて座る。
リデルはガラス玉を膝の上に置き、両手でそっと包んだ。
部屋の中の音が、少しだけ遠く感じる。
「……で」
リデルが、口を開いた。
「……お母さんの状態、みた?」
「うん」
アルスは、姿勢を正した。
「結晶化っていう病気、アルスも聞いたことあるでしょ?」
「うん」
リデルは、ガラス玉の表面を親指でなでる。
結晶化。
腕や足が少しずつ石のようになっていく病。
「最近ね、前よりちょっと……痛そうな顔が増えたの」
リデルは、視線を玉に落としたまま続ける。
「朝起き上がるときとか、座りなおすときとか。前は、そんなに顔に出てなかった動きで、ふっと眉が寄るの」
その様子を、何度も見てきたのだろう。
「本人は『平気よ』って言うんだけどね」
リデルは、そこで軽く笑おうとした。
けれど、その笑いはすぐに消えてしまう。
「話す量も、ちょっと減ったかな。前はどうでもいいことでいっぱい笑ってたのに、『無駄にしゃべると疲れるから』って」
アルスは、さっきのアスリナの顔を思い出した。
穏やかな笑みの裏にある、目の下の影。
「お父さんは?」
「お父さんは……前より、机と仲良し」
リデルは、苦い冗談を言うみたいに言った。
「前から研究ばっかりだったけど、最近はもっと。机の上も、床の端っこも、紙と本でいっぱい」
アルスも、学院の医務室で分厚い書類を抱えて歩くアーデンの姿を何度か見ている。
リデルは、肩をすくめた。
「怒ってるわけじゃないよ」
その言葉は、早く出てきた。
「お父さんが諦めてないのも分かるし。お父さんが手を止めたら、ほんとに何も進まないかもしれないってことも分かるから」
ガラス玉を握る指先に、力がこもる。
「だからね」
リデルは、両手を膝の上に置き直した。
「なんか、ずっと置いていかれてる気がして」
「置いていかれてる?」
「お母さんは、少しずつどこか遠くに行ってるみたいで。お父さんは、それを追いかけてどこかに行ってるみたいで」
言葉を探すように、一つ一つ区切っていく。
「私だけ、同じ場所で座って見てる感じ」
アルスは、その絵を頭の中で想像した。
動いている二人と、動けない一人。
誰が悪いわけでもないのに、距離だけが勝手に広がっていく。
「アルスやミーナだって、どんどん前に行ってる感じがするし」
名前を出されて、アルスは少し身じろぎした。
「ミーナは親の手伝いしてて、アルスは先生の手伝いやってる」
「だから、何か変えなきゃいけないんだろうなって、なんとなく分かるんだけど」
リデルは、小さく息を吐いた。
「何を変えればいいかが、分かんない」
ガラス玉を持つ手が、また少し動く。
「それを、誰に言えばいいか分かんなかったから」
リデルは、ゆっくり顔を上げた。
「アルスに、聞いててほしかった」
その視線には、不安と期待が混ざっているように見えた。
「アルスに話したかったんだ」
アルスは、小さく頷いた。
「他の誰でもないアルスに……」
最後の言葉は、風鈴の音に紛れそうなくらい小さかった。
◆
しばらく、アルスは何も言わなかった。
何か言おうとすると、どれも「正しい答え」の顔をしているのに、どこか違う気がした。
窓の外の風の音と、風鈴のかすかな音だけが、間を埋めている。
「……ありがとう」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「言ってくれて」
リデルは、少し瞬きをしたあと、「うん」と頷いた。
「できることがあったら言って」
小さな約束だった。
リデルは、少しだけ口元を緩めた。
「……それだけでも、だいぶ楽になったかも」
ガラス玉の中の白い糸が、光を受けてゆっくりと形を変えた。
「……ありがとう」
音色を変えた風鈴が、またひとつ鳴る。
◆
グラナード家を出ると、空はすっかり夕方の色になっていた。
「今日はありがと」
「こっちこそ」
門のところで手を振り合い、リデルは家の中に戻っていく。
扉が閉まる前、玄関の向こうにアスリナの姿がちらりと見えた。
手を軽く振る仕草だけで、「またね」と言っているように見えた。
扉が閉まり、風鈴の音だけが外に残る。
アルスは、ひとつ息を吐いてから、石畳の道を歩き出した。
夕方のアルベスの街は、いつも通りだった。
店先から漂う煮込みの匂い。
遠くで遊ぶ子どもたちの声。
それでも、さっき見たものと聞いた言葉が、景色の上に薄く重なっていた。
ベッドの上で、少し無理をして笑うアスリナ。
紙の山に埋もれているアーデンの背中。
「置いていかれてる気がする」と言いながら、ガラス玉を握り締めていたリデルの手。
「リュマに……聞いてみようかな」
結晶化のこと。
風の国から一週間。
次に続く話の始まりを、まだはっきりとは言葉にできないまま、
アルスは、アルベスの石畳を踏みしめて歩き続けた。




