第41話
「おう、お二人さん」
塔の起点から少し離れたところで、ガルドが待っていた。
行きと同じ外套に、大きな荷物を背負った船員たちが数人。
「荷物はそこにまとめとけ。ミーナ、その袋はさすがに積みすぎだ」
「え、これでも減らしたんだけど」
「何人分詰めてんだ」
「たぶん、アルベス一班分」
「一班は船じゃねえ」
ガルドは、呆れたように笑って背負い袋を受け取る。
アルスは、小さな木箱を胸の前で抱えたまま近づいた。
「よろしくお願いします」
「おう」
ガルドは、港のほうではなく、島の内側を親指で指した。
「今日は、海じゃなくて山のほうだ。ついてこい」
「……本当に、こっちで合ってるんですよね」
アルスは、思わず確認してしまう。
「どうだろうな」
ガルドは、にやっと笑いながら言った。
ミーナも後ろで同じような顔をしていそうだ。
馬鹿にされているのが分かって、それ以上は聞けなかった。
三人と数人の船員は、塔の根元から続く別の坂を上り始めた。
石畳は次第に土の道に変わり、木々が増えていく。
風は、いつものように吹いているのに、どこか「一方向」に引っ張られているような感覚があった。
葉が揺れる音も、枝のきしむ音も、少しずつ同じほうを向いていく。
やがて、木々の間から、妙な光の反射が見え始める。
森が途切れた。
その先に――巨大な円形の窪地が口を開けていた。
◆
島の真ん中が、丸ごと抜け落ちたような場所だった。
崖のような斜面が、ぐるりと円を描いて中心へ向かって落ち込んでいる。
底は、真っ白な霧に覆われて見えない。
霧の中で、何かがゆっくり渦を巻いているようだった。
風は、四方から穴の中心へ向かって吸い込まれていた。
髪も服も、下に引っ張られる。
ミーナが小さく囁く。
「いつみても大きいー」
崖の縁には、風帆を畳んだ小さな船がいくつか並んでいた。
滑走用のレールが崖の下のほうまで続いていて、その先は霧の中に消えている。
「ほらよ」
ガルドが、自分の船を顎で示す。
行きに乗った船と同じ船だ。
船の側面には、滑空用の翼が畳まれ、甲板には簡単な手すりが取り付けられている。
「今は下り風だ」
ガルドは、穴の中を見下ろしながら言った。
「ここで風が集まって、底で渦を巻く。そこで向きが変わる」
「向きが……?」
「下り風が上り風になる。そいつに乗って飛ぶ」
アルスは、霧の向こうを見つめた。
底のほうで、かすかに淡い光が瞬いている気がした。
ミーナは、アルスの袖を引っ張る。
「絶対目、開けててよ」
「……できるだけ、頑張る」
「叫んでもいいから」
「叫ぶ前提なんだ」
「うん。普通は叫ぶ」
ガルドが、塔のほうを見上げた。
遠くの塔の上で、光が一度強く瞬く。
少し間をおいて、低い鐘の音が響いた。
風の流れが、一瞬だけ静まる。
次の瞬間――穴の底から、強い「押し上げ」が這い上がってきた。
「合図だ」
ガルドは短く言った。
「乗り込め。しっかり掴まっとけよ」
◆
船は、崖の縁に作られた滑走路に並べられた。
アルスとミーナは、甲板の手すりをしっかり掴む。
ガルドが舵のところに立ち、風帆を半分だけ広げた。
「行くぞ!」
掛け声とともに、船が前へ押し出される。
石の滑走路の上を、車輪がきしむ音を立てて走る。
足元の地面が、あっという間に消えた。
「――っ!」
胃が、ふわりと浮く。
船体ごと、巨大な穴の中へ滑り込んだ。
霧が視界を白く染める。
風が一気に吹き上げてきて、身体を支える。
落ちているのか、持ち上げられているのか、一瞬分からなくなる。
「アルス、目、目!」
ミーナの声が、すぐ横でかすかに聞こえた。
アルスは、必死に目を開けた。
真っ白な霧が、あっという間に後ろへ流れていく。
胸のあたりを、強い風が突き抜けた。
――次の瞬間、白が切れた。
◆
雲の上に出た。
船は、厚い雲の層を突き抜けて、青い空の中に浮かんでいた。
下を見下ろせば、雲の切れ目から、島の輪郭が遠くに見える。
塔。
森。
真ん中の大穴。
それらが、少しずつ小さくなっていく。
風帆が膨らみ、船体が滑るように進む。
「ふぅー!!」
ミーナが叫ぶ。
アルスも、手すりを掴んだまま、ただ風を受けていた。
そのときだった。
空気の密度が、すこし変わった。
横合いから、何か大きな「流れ」が近づいてくる。
冷たいのに温かいような、妙な鳥肌が腕に走った。
アルスは、反射的に顔を向ける。
雲と雲のあいだから、細長い影が姿を現した。
それは、龍の形をしていた。
鱗の代わりに、風紋のような模様が全身を覆っている。
身体は半透明で、その向こうに空の青さが透けて見えた。
長い体が、雲の上を滑るように蛇行する。
眼にあたる部分だけが、淡い光を帯びていた。
「……」
アルスは、息をするのも忘れた。
「アルス!」
ミーナが、袖を掴んだまま叫ぶ。
「見えてる? あれ!」
「うん……」
声が、勝手に漏れた。
「本当にいるんだ」
ミーナの目も、見開かれていた。
「わたし……初めてみた……」
風龍は、船と並ぶようにしてしばらく進んだ。
尾が雲の中に消えても、頭のほうは青空の中を滑っていく。
やがて、その長い体の一部が、こちらへ向かって少しだけ向きを変えた。
淡く光る眼が、ほんの一瞬だけ、船のほうを見たように感じられた。
その瞬間、アルスの胸のあたりの風が、ふっと軽くなった。
何かを撫でられたような感覚。
「お」
舵のところで、ガルドが目を細めた。
「随分とはっきり出てきたな。数年ぶりだ」
「船長、また風龍がどうとか言ってる」
船員の一人が、半分冗談のように笑う。
ガルドは、説明しようとはしなかった。
「縁起がいい。今日は、よく滑るぞ」
風龍は、やがて雲の向こうへ消えていった。
残されたのは、風の音と、船のきしむ音だけだった。
◆
揺れが少し落ち着くと、船の上にも、いつもの賑やかさが戻ってきた。
ミーナは、さっきの光景を何度も何度もアルスに説明している。
「ねえ、あの模様見た? 風がぐるぐるしてるみたいなやつ!」
「うん。ちゃんと見えたよ」
「絶対みんなに言うんだ……信じてくれないだろうけど」
「信じてくれると思う」
「そうかなあ」
アルスは、甲板の縁に寄り、遠ざかっていく島を見下ろした。
風暦院の屋根も、ヘンデルの工房の煙突も、もう小さな点にしか見えない。
ポーチの中が、少しだけ重く感じられた。
アルスは、そっと手を差し入れる。
指先が触れたのは、小さな結晶。
風暦院の塔の近くで作った、土の結晶のひとつ。
掌に乗せて、風にかざす。
霧を抜けるときの風。
穴に吸い込まれるときの風。
塔の周りを回っていた風。
それらを思い出す。
結晶の内側で、揺れがかすかに応えた気がした。
◆
それから一日、海と風の景色は続いた。
船首のほうから、ガルドの声が飛んだ。
「そろそろ、アルベスの風に入るぞ!」
前方の空の端に、薄く陸の影が見え始めていた。
アルベスの大地。
あの塔。
リュマやリデルたちのいる場所。
アルスは、もう一度だけ振り返る。
雲の向こうに隠れた島は、もう見えない。
けれど、あの長い揺れは、まだ胸の奥で静かに続いている気がした。
「……また、行こう」
自分でも驚くくらい、自然な声だった。
「え?」
ミーナが首をかしげる。
「風の国。また、行こうね」
「うん!」
ミーナは、力いっぱい頷いた。
「今度はもっといっぱいお土産持って帰ろう!」
「今でも十分多い気がするけど」
二人の声を乗せて、船は風を切って進んでいく。
アルスは、風を切る音を聞きながら、小さく決めた。
いつかまた、戻ってこよう――と。




