第39話
翌朝も、工房の辺りには金属と油の匂いが満ちていた。
扉を押し開けると、いつものように、ヘンデルの背中が作業台の前にあった。
「おはようございます」
「おう、坊主か」
振り向きもせずに返事が飛んでくる。
「今日はずいぶん早いじゃないか。院のほうはいいのか」
「今日は……少し、先にこっちに来たくて」
アルスは扉を閉め、作業台から少し離れたところまで歩み寄った。
そのとき、奥のほうから「ガタン」「ドサッ」と、派手な音が響いた。
「……」
アルスがそちらへ目を向けると、ヘンデルが先にため息をついた。
「あいつはあいつで、朝からえらい騒ぎしとる」
「ノルン、ですか」
「部屋にこもって紙と鉄とで喧嘩しとるわ。まあ、今さら止めても聞かん」
口調こそぶっきらぼうだが、その声にはどこか呆れと、少しの楽しさが混じっていた。
アルスは、小さく息を吸った。
「ヘンデルさん」
「なんじゃ」
「二日後に、アルベスに戻ることになりました」
ヘンデルの手が、工具の上で一瞬だけ止まった。
ゆっくりと振り向く。
「二日後か」
「はい。ガルドさんの船で」
「ふん。エルネの奴め、とうとう返す気になりおったか」
ヘンデルは鼻を鳴らした。
「うちも、お前さんに頼りっぱなしじゃったからのう」
「そんな、大したことは……」
「あるわい」
言葉を遮るように、きっぱりと言う。
「よう働いた。文句のつけようはない」
アルスは、思わず姿勢を正した。
「こちらこそ、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「魔道具のこと……僕ひとりじゃ考えつかなかったです」
「当たり前じゃ。ひとりで分かるなら、わしの出番なんぞ最初からいらん」
そう言っておきながら、ヘンデルの口元はわずかに緩んでいた。
「こいつの第一段階は、ひとまず終わりじゃ」
作業台の端にまとめられた小型版の魔道具たちを、とんと指先で叩く。
「後は、わしらのほうで勝手に遊ばせてもらう」
「……はい」
「お前さんは、お前さんの風の行き先を見に行け」
アルスは、一拍遅れて頷いた。
「……ノルンには、後でちゃんと挨拶に来ます」
「そうしとけ」
「でも、もし僕が来る前に、ノルンが外に出てきたら……」
言いかけて、ほんの少しだけ迷う。
「ヘンデルさんからも、伝えてもらえますか」
「伝える?」
「ここで一緒に魔道具を作れて、嬉しかったって」
自分で言いながら、すこし照れくさくなって視線を落とした。
ヘンデルは、しばし黙ってアルスを見ていた。
奥の部屋から、また「ガシャーン」と何かを落とした音がする。
「……聞いとったら早いんじゃがな」
ぽつりと呟き、肩をすくめる。
「まあええ。言っといてやる」
「ありがとうございます」
「ただし」
ヘンデルは、指を一本立てた。
「その代わり、帰る前にもう一度は顔を出せ」
「え?」
「ノルンはああ見えて、けじめの挨拶をせんと、あとでうるさい。
『言ってくれればいいのに』とか『いつの間に』とか、延々ぶつぶつ言う奴じゃ」
アルスは、思わず笑ってしまった。
「……分かりました。ちゃんと来ます」
「うむ。それでよし」
ヘンデルは、再び工具に向き直る。
その背中は、いつもどおり大きくて、どこか頼もしかった。
「二日あれば、まだいじれる」
「え?」
「お前さんが帰るまでに、もう一個くらい、まともに動くのを見せてやらんとな」
小さくぼやきながらも、声には楽しげな響きが混ざっていた。
アルスは、「お願いします」と頭を下げてから、工房を後にした。
背中のほうで、また奥の部屋から派手な物音がする。
「ノルン、ほんとに大丈夫かな……」
思わず苦笑しながら、アルスは坂道を上っていった。
風は、いつものように、工房の上を軽く吹き抜けていた。
◆
昼前、アルスは風暦院の食堂でミーナと落ち合った。
「やっほー、アルス!」
トレーを抱えたミーナが、こっちを見つけて大きく手を振る。
「こっち空いてる?」
「うん」
二人は向かい合って腰を下ろした。
湯気の立つスープと、風でよく乾かしたパン。
窓の外には、塔の影と、行き交う学生たちの姿。
「聞いたよ。二日後に帰るんだって?」
「エルネさんに聞いたの?」
「うん。初・穴ダイブだね」
ミーナはにやりと笑う。
「絶対叫ぶから。覚悟しておきなよ」
「……あんまり脅さないで」
アルスが苦笑すると、ミーナはスープを一口飲んでから、何か思い出したように身を乗り出した。
「ねえ、アルス」
「なに?」
「お土産、どうする?」
「お土産?」
「そう。アルベスに持って帰るやつ」
ミーナは指を折りながら数え始める。
「リュマ先生でしょ?それから――」
「リデルにも、何か……持って帰らなきゃ」
アルスは、ふとアルベスにいる少女の顔を思い浮かべた。
不安そうに、それでも前を向こうとしていた横顔。
「いいじゃん。じゃあ決まり」
ミーナは、ぱん、と手を叩いた。
「今日の午後は、風の国お土産ツアーだね!」
「ツアー……」
「任せて。風の国生まれ育ちのミーナさんが、いいところ案内してあげます」
胸を張るミーナを見て、アルスも思わず笑った。
「じゃあ、お願いします」
「うん、任された!」
ミーナはパンをかじりながら、すでに頭の中で何かを組み立てているようだった。
◆
昼食を終えると、二人は学院の坂を下り、商店街へ向かった。
午後の風は、塔のほうから吹き下ろしてきている。
軒先に吊された布の看板が、くるくる回りながら風向きを教え、
高く掲げられた籠の中では、穀物がからりと音を立てて乾いていた。
「こっち!」
ミーナは、慣れた足取りで細い路地へ入っていく。
路地の先には、小さな店があった。
店先に、色とりどりの風鈴がずらりと吊り下がっている。
金属製のもの、薄いガラスのもの、貝殻を組み合わせたもの。
風が吹くたびに、それぞれ違う音色が重なり合って鳴った。
「ここ、『音風屋』って言うんだ」
ミーナが胸を張る。
「マギア院の人たちに何かあげるなら、ここが一番わかりやすいよ」
「わかりやすい?」
ミーナは、指先で一つの風鈴を軽く揺らした。
高く、澄んだ音が鳴る。
「こういう“分かりやすい風”のほうが、逆に喜ぶんだよ」
店の奥から、おばさんが顔を出した。
「おや、ミーナじゃないかい。今日はお友達と?」
「うん。アルベスから来てるアルス!」
「ど、どうも」
アルスが頭を下げると、おばさんはにこにこと笑った。
「お土産かい?」
「そうそう。なんで分かるの?」
「ひみつさ」
おばさんは手際よく、いくつかの風鈴を台の上に並べた。
「お土産には、これが人気だよ。
風の強さで音の高さが変わるやつ」
金属の細い管が段差をつけて並べられている。
弱い風だと低い音だけ、
強い風だと高い音も鳴るようになっているらしい。
「これなら、つい遊んじゃうね」
ミーナが笑う。
アルスも、手を伸ばしてそっと揺らしてみた。
工房で聞く金属音とも、
塔の羽根のきしむ音とも違う。
それでも、確かに“この国の風の音”だと思えた。
「これを……三つください」
アルスはマギア院の顔ぶれを思い浮かべる。
リュマ。
リデル。
それから――ヴァーンにも。
「じゃあ、少し音の違うやつを三つ選んであげるよ」
おばさんは、慣れた手つきで風鈴を選び、小さな箱に詰めていく。
「喜んでくれるといいね!」
ミーナはうきうきした様子で頷いた。
ふと、視線を右にずらすと丸いガラス玉が並んでいる。
どれも、中に細い白い糸のようなものが渦を巻いていた。
「これは?」
「風の目だよ」
ミーナは、指先でガラス玉を転がす。
「中に、風の流れを閉じ込めたみたいに見えるでしょ」
ふと、リデルに渡された木箱とその時の言葉を思い出す。
『だからさ。ひとつくらい、なんか入れて持って帰ってきてよ。
貝殻でも石でもいいから。向こうの“なにか”』
「これ、一つください」
ミーナが笑う。
「おー、センスいいじゃん」
ガラス玉は、柔らかな布に包まれて小さな箱に納められた。
アルスはそれを受け取り、風鈴の箱と一緒に抱え直す。
◆
「……ありがとう、ミーナ」
「え、なに急に」
「今日、一緒に回ってくれて」
「あ、うん」
ミーナは一瞬きょとんとして、それから照れくさそうに笑った。
「こっちこそ。アルスが誰のこと考えてるか、だいたい分かって楽しかったし」
「だいたい?」
「うん。誰に渡すつもりなんだろうこれってのもあったけど」
この国で見てきた風景が、今度は小さな箱や袋の中に形を変えて収まっていく。
それはただの品物ではなく、
この国で出会った人たちとの時間を、
少しだけ持ち歩けるようにするための“風のかけら”だった。
アルスは、腕の中の荷物を抱え直しながら、ふっと空を見上げた。
二日後には、この空のずっと上を滑っていくことになる。
そのとき、自分の中にある風が、どんなふうに揺れるのか。
少し怖くて、
それでも、楽しみでもあった。




