第38話
朝になれば、いつものように風暦院の塔へ向かう。
エルネの研究室で結晶と魔道具をいじり、
昼はミーナと食堂で他愛のない話をしながらご飯を食べる。
午後は坂を下って工房へ行き、ヘンデルとノルンの横で土の結晶を握る。
夜は宿の部屋で、その日の実験の結果や、風の国の本で知ったことをノートにまとめる。
最初は全部“よその国の風景”だったのに、
いつの間にか、少しだけ“見慣れた一日の流れ”になっていた。
アルスは、研究棟の廊下を歩きながら中庭を見下ろした。
風に揺れる木の枝。
軒先の風鈴。
授業を終えた学生たちの笑い声。
(……ずいぶん、長居してる気がするな)
そんなことを思いながら、目的の扉の前で足を止めた。
軽くノックすると、中から紙の擦れる音が止まり、すぐに声が返ってくる。
「どうぞ」
アルスは取っ手を押し下げ、研究室の扉を開けた。
◆
部屋の中は、いつもどおり紙と機材で埋まっていた。
ただ、壁一面を覆っていた波形の紙は、すでに何枚か剥がされ、束ねられて机の端に積まれている。
机の上では、例の魔道具の配線が外され、保管しやすい形にまとめられていた。
「ああ、アルス君」
エルネは振り向き、束ねた紙を軽く持ち上げた。
「ちょうど、ここ一週間分の記録を整理していたところだよ」
「手伝うこと、ありますか?」
「もう大方片づいたよ」
エルネは、机の上の魔道具に視線を向ける。
「こいつも、ひとまず“第一段階”は終わりかな。
結晶と塔の数字を繋ぐ橋は、最低限かかってくれた」
「……そうですね」
土を盛り上げる小さな皿。
揺れを記録する目盛り。
そして、輪と枝の組み合わせ。
アルスも、その姿を見て小さく頷いた。
「さて」
紙束を机に戻しながら、エルネは言った。
「そろそろ、アルベスに戻る段取りを考えないといけないね」
アルスは一瞬、きょとんとした。
「アルベス……あ」
そこでようやく、自分が“元いた場所”のことを思い出したような気がした。
「君を借りっぱなしだったからなあ」
エルネは、苦笑まじりに肩をすくめる。
「アルベスの先生たち、そろそろ本気で心配してるかもしれない」
「……そうかもしれません」
アルスも、つられて笑った。
「さすがに、ずっと帰らないわけにもいきませんし」
「そういうこと」
エルネは、机の上の魔道具を軽く叩いた。
「こいつは、しばらくこっちで預からせてもらうよ。
君の結晶と一緒に、じっくり遊ばせてもらう」
「その代わり、遊んだ結果はちゃんと返してくださいね」
「もちろん」
エルネは、口元を少しだけ上げた。
「“風便り”は約束だからね」
アルスも、自然と笑みを返す。
胸の奥のどこかで、「帰る」という言葉がようやく自分のものになったような感覚があった。
「帰りの段取りだけど」
エルネは、紙束を揃えながら続けた。
「ガルド船長のところへ行って、下り風の日を聞いておくといい」
「アルベス行きの船は、あの人の領分だからね。
港から出る便と、島の真ん中から出る便がある」
「真ん中?」
思わず聞き返してしまう。
「ふふ。詳しくは、本人に聞きなさい」
エルネは、あえてそれ以上は言わなかった。
「風の国の出航は、港だけじゃないってことさ」
「……?」
アルスは、想像のつかない言葉に、曖昧な返事しかできなかった。
◆
港は、相変わらず潮と風と人の声で賑やかだった。
帆を畳んだ船、荷物を運ぶ人、
風に垂れた縄を引き締める船員たち。
その中で、少し見慣れた背中がロープの具合を確かめていた。
「ガルドさん」
アルスが声をかけると、船長は器用に片手だけを放して振り向いた。
「おう、坊主」
ガルドは、口の端を上げる。
「風の国の暮らしに飽きたか?」
「飽きた、というか……」
アルスは苦笑した。
「そろそろアルベスに戻らないと、怒られそうで」
「はは、そりゃそうだ」
ガルドはロープを括り終え、腰に手を当てた。
「アルベス行きなら、三日後だな」
「三日後」
「ああ。その日、下り風が島の真ん中に集まる」
「やっぱり、真ん中って――」
「この島はな」
ガルドは港の向こう、島の内側を親指で指した。
「風の墓場があるからな。お楽しみだ」
なんでもないことのように言われて、アルスは一瞬言葉を失った。
ガルドは、その顔を見てにやりと笑う。
「まあ、怖がる暇もなく飛ぶから安心しろ」
「安心していいんでしょうか、それ」
「いいさ」
ガルドは、風帆を指差した。
「ここまで来たなら、一度は味わっとけ。
風の巣からの出航ってやつをな」
風の巣という言葉に、アルスは少しだけ背筋がぞわりとした。
港の向こうから、元気な声が飛んでくる。
「アルスー!」
振り向くと、荷物を抱えたミーナが、こちらに向かって手を振っていた。
「ちゃんとガルドさんと話してる?」
「うん。三日後に出るって」
「じゃあ、アルスの『初・穴ダイブ』決定だね!」
「穴ダイブ?」
「当日のお楽しみ!」
ミーナは、ガルドと同じ笑い方で笑った。
「最初は絶対叫ぶから。楽しいよ!」
「楽しいんだ……」
アルスは、自分の喉がちゃんと声を出してくれるか不安になりながらも、なんとかそう返した。
「じゃあ三日後の朝、塔の根元の集合な」
ガルドは、そう言ってロープに向き直る。
「寝坊したら置いてくぞ、坊主」
「気をつけます」
アルスは頭を下げ、ミーナと一緒に港を後にした。
風は、海からの潮と、どこか高いところからの冷たさを混ぜて吹いていた。
◆
その夜、アルスは宿の部屋でしばらく寝返りを打ったあと、堪えきれず外に出た。
宿の前の坂道からは、昼間と同じように塔が見える。
ただ、空はもうすっかり暗い。
塔の上には、月と星の光をかすめるように、細長い影が伸びていた。
家々の窓から漏れる灯り。
遠くの風鈴。
酒場から聞こえる笑い声。
アルスは、宿の壁にもたれて夜風に当たった。
(……もう、三日か)
風の匂いにも、塔の影にも慣れてきたところで、
また次の場所へ向かう準備をしている自分が、少し不思議だった。
「お、こんなところで風に当たってるのか」
坂の下から、聞き慣れた声がした。
「エルド」
外套の前をゆるく開けたエルドが、手をひらひら振りながら上がってくる。
「ミーナは?」
「昼のうちに解散した。ミーナも準備まだみたいで」
エルドはアルスの隣に立ち、同じように壁にもたれた。
しばらく二人とも、何も言わずに塔のほうを眺める。
夜の風が、二人のあいだを抜けていった。
「……三日後に出るんだってな」
先に口を開いたのはエルドだった。
「うん。ガルドさんに教えてもらった」
「穴のほうか」
エルドは、どこか楽しそうに笑う。
「初めてなら、ちょうどいいな」
「ちょうどいいの?」
「覚えやすいだろ。風の国のこと」
アルスもつられて笑ってしまう。
「エルドは、このままここに?」
「ああ」
エルドは、当たり前だろと言わんばかりに頷いた。
「俺はここで槍振ってるのが仕事だからな」
「……だね」
アルスは、少しだけ肩をすくめた。
「たまたまお前らの子守りを押しつけられただけだ」
エルドは鼻で笑う。
「でも、助かった」
アルスは、きちんと頭を下げた。
「ずっと面倒見てもらって」
「気にすんな」
エルドは、視線を少し外した。
「仕事のうちだし……まあ、退屈しなかったのも事実だしな」
また、短い沈黙が落ちる。
坂の石畳を撫でる風の音だけが、確かにそこにあった。
「アルス」
「はい?」
「ミーナのこと、頼んだぞ」
「え?」
唐突な言葉に、思わず聞き返してしまう。
「あいつ、調子乗るとすぐ無茶するからな」
エルドは、苦笑まじりに言った。
「面白そうだと思ったら、そのまま突っ走るからな」
「……そうだね」
アルスも、思わず笑ってしまう。
「きっと止めようとしても、聞かないよ」
「そうだな」
エルドは肩をすくめる。
「だから、まあ……困ったら、母に言いつけてくれ」
「母?」
「そっちには母がいるからな」
エルドは、言葉を少しだけ言い直した。
「ただ、あいつの友達でいてくれ」
「当たり前だよ」
「そうだな」
エルドは、それで十分だと言うように顎を引いた。
「代わりに、お前のことも、たまにミーナから聞いてやる」
「え?」
「アルベスがどうだとか、どうせ帰ってきたら、うるさいくらい話すだろ」
「そうだね」
その光景を想像して、アルスも少し笑った。
「だから、変なとこで無茶してたら、あとで俺にバレるからな」
「それは……わかった」
「だろ」
エルドは、ようやくいつもの調子で笑う。
塔のシルエットをしばらく眺めてから、ぽつりと言った。
「元気でな、アルス」
「うん」
アルスは、まっすぐに返す。
「エルドも。……また、どこかで」
「ああ」
エルドは、小さく頷いた。
「風の国は逃げねえさ。
また喧しい連中を連れて来い」
「そのときは、また案内お願い!」
「考えとく」
そう言って、エルドは宿の入口のほうを顎でしゃくった。
「そろそろ冷える。風邪引くなよ」
「エルドこそ」
「俺は慣れてる」
それだけ言い残して、エルドは先に宿の中へ入っていった。
扉が閉まる。
ひとり残されたアルスの頬を、夜風が軽く撫でた。
この国で見てきた風景が、ひとつずつ胸の中でまとまっていく。
「……元気でね」
誰にともなくそう呟いてから、アルスも宿の中へ戻った。
風は、いつもどおり吹いていた。




