第37話
湯飲みを置いたエルネが、ゆっくりとアルスのほうへ顔を上げた。
「お願い?」
紙の波形から離れた視線が、まっすぐこちらを射抜く。
アルスは、一度だけ小さく息を吸い込んだ。
「ここからする話は――秘密にしてくださいますか」
自分の声が、思っていたよりはっきりと研究室に落ちた。
ごまかす言葉も、
笑いに逃げる余地も、どこにも入れなかった。
「ミーナにもかい?」
いつもの癖で、少しだけおちゃらけた調子で尋ねる。
けれど、アルスはその目をまっすぐに見返した。
冗談を挟む余地がないと悟ったのか、エルネの表情からすっと笑みが消える。
「……分かった」
短くそう言うと、エルネは立ち上がった。
「じゃあ、こちらもきちんと形にしておこう」
指先で、空中に小さな円を描く。
風が、ふっと部屋の内側に集まった。
窓の隙間から入っていた風の流れが、向きを変える。
外の風鈴の音が一段遠くなり、廊下の気配が薄くなった。
研究室の内側だけに、柔らかな膜が張られていく感覚。
「これで、この部屋の声は外には漏れない」
エルネは、指先を下ろしながら言った。
「ミーナにも、他の誰にもね」
それから、もう一度アルスを見る。
「ここで聞いたことは、僕からは話さないと約束しよう」
風の膜が、静かに揺れた。
その瞬間、アルスは自分がもう後戻りしないところまで来ていることを、はっきりと自覚した。
◆
アルスは、何も言わずに机の上を片づけた。
紙束を横に寄せ、観測器の小さな部品を避ける。
中央に、手のひらほどの空きスペースを作る。
ポーチの口を開けると、指先に冷たい感触が触れた。
小さな結晶。
リュマから託された、あの短剣の記録。
アルスはそれを、そっと机の上に置いた。
エルネは、黙ったまま見ている。
研究者の目だ、とアルスは思う。
好奇心と警戒心とを、同じだけ湛えた目。
アルスは、結晶に意識を沈めた。
世界の音が、少しだけ遠のく。
刃の形。
重さ。
冷たさ。
握ったときの感覚。
それを、ひとつずつ引き上げていく。
結晶のまわりで、光の粒がふっと揺れた。
マナの細い流れが、結晶の表面から立ち上がる。
空中に描かれた線が、少しずつ重なり合い、形を成していく。
刃が現れ、
柄が繋がり、
重心が決まり――。
やがて、結晶の上には一本の短剣が“在る”ようになった。
金属の鈍い光。
冷たい空気。
握れば、ちゃんと重みが伝わってくる。
机の上には、さっきまでなかったはずの“道具”が置かれていた。
「……」
エルネは、しばらく何も言わなかった。
短剣を見る。
結晶を見る。
そして、アルスを見る。
視線が三つのあいだを、ゆっくり往復する。
やがて、喉の奥から押し出すように言葉が漏れた。
「それは――ありえない……」
掠れた声だった。
エルネは短剣に手を伸ばしかけ、途中で一度止めた。
それから、ごく慎重に柄を掴む。
重みを確かめるように、ほんの少し持ち上げる。
金属が、かすかに鳴った。
鉄でも、銀でも、魔石でもない。
けれど、確かに“何か”でできている感触。
エルネは目を閉じ、自分の感覚に意識を向ける。
土、金属。
それに、形を保つための冷たさ。
さっきまで扱っていた土の結晶とも、
計測器とも違う、複雑な波。
短剣を机に戻し、エルネは小さく息を吐いた。
視線が、棚の一角へ向かう。
無造作に積まれた資料束の中で、一番上の表紙。
『再構築魔法論』
そのタイトルの下に記されている、掠れかけた名前。
ユベル=ローデン。
エルネは、その文字を見てから、もう一度アルスのほうを見た。
「ユベルの魔法……」
呟きは、ほとんど自分に向けられたものだった。
「ユベル=ローデン、そして――」
短剣。
結晶。
アルス。
――アルス=ローデン。
それぞれに、もう一度ゆっくり目を向ける。
「まさか……」
それ以上は言わなかった。
大声で騒ぎ立てるでもなく、
質問を畳みかけるでもなく、
ただ、静かに理解した顔だった。
◆
風の膜の内側に、しばらく沈黙が降りた。
外の世界の音は、今やかすかな影のようにしか届かない。
目の前の短剣と結晶だけが、やけにくっきりとした輪郭を持って見える。
「……見せてくれて、ありがとう」
先に口を開いたのは、エルネだった。
いつものように軽い調子を装うこともできただろうに、
その声色には、余計な飾りがひとつもなかった。
「アルス君」
真っ直ぐに名前を呼ばれる。
「このことは、誰にも言わないと約束しよう」
それは、さっきの“結界”よりも重たい宣言だった。
「風の国の研究者としても、ミーナの父としてもね」
アルスは、胸のあたりに手を置いた。
心臓の鼓動が、ほんの少しだけ早い。
「……ありがとうございます」
他にどんな言葉を選べばいいのか分からなくて、
結局それしか言えなかった。
けれど、自分の声は震えていなかった。
◆
短剣をもう一度結晶へ戻し、アルスはポーチの口を閉じた。
目の前から“証拠”が消えたあとも、研究室の空気には、さっきまでの揺れが薄く残っているように感じられた。
「エルネさん」
アルスは、ゆっくりと言葉を探しながら続けた。
「もうひとつ、お願いがあります」
「さっきのお願いとは別口かな?」
エルネは冗談めかして言いかけて、
アルスの表情を見て、その続きを飲み込んだ。
「うん。聞こう」
アルスは、ポーチの上から指先で布を押さえた。
「僕が、いろんな結晶を、定期的にエルネさんに送ります」
「……結晶を?」
「はい」
言葉を整えながら、ひとつずつ並べていく。
「ミーナ経由で。
ミーナには、土の結晶だと言っておきます」
エルネの眉が、少しだけ動く。
「その結晶のことを調べてほしいんです」
アルスは、自分の胸を指で軽く叩いた。
「この魔法が、何なのか。
そして――僕が、何なのか」
ユベルに教わった魔法。
リュマが隣で支えてくれた授業。
山小屋と、アルベスと、ここまでの旅路全部が、
自分という人間の輪郭に、まだ納まりきっていない気がしていた。
エルネは、ほんの少しだけ目を見開いた。
驚きの揺れはすぐに沈み、代わりに、研究者特有の静かな光が目に宿る。
「いいとも」
ためらいのない返事だった。
「それは、研究者としても、とても魅力的な申し出だ」
机の上の紙束を、軽く叩く。
「土でも、風でも、水でも、火でも。
僕はそれを記録して、並べて、眺めてみたい」
アルスは、一拍置いてから続けた。
「もしできたら、その結晶を使った結果も教えてほしいです」
「結果?」
「はい」
少しだけ迷ってから、続ける。
「どう使おうとかまいません」
自分で言いながら、その言葉の重さを噛みしめる。
どこかでまた、怖さが顔を出しそうになった。
けれど、フェアリスの声が頭の中で小さく響く。
――心のゆくままに。
エルネは、少しだけ考えるように視線を落とし、それから頷いた。
「もちろん」
「……」
「君宛ての『記録』として、全部まとめておこう」
エルネは、どこか楽しそうに言葉を足した。
「ミーナには、『アルス君への風便り』って言って渡してもらうよ」
「風便り……」
アルスは、その言葉を口の中で繰り返した。
風の国らしい呼びかたに思えた。
「約束する」
エルネは、もう一度だけはっきりと言う。
「君が送ってくれる結晶を、大事に扱うこと。
その結果を、君に返すこと。
そして、この話を僕の口からは決して漏らさないこと」
風の膜が、かすかに震えた。
その揺れが、契約の印であるような気がした。
◆
結界が解かれると、外の風鈴の音が戻ってきた。
廊下の向こうで誰かが話す声。
塔のほうから届く、かすかな羽根の軋み。
いつもの風暦院の音が、少しだけ違って聞こえる。
「今日は、ここまでにしよう」
エルネはそう言って、紙束をまとめ始めた。
「また明日、続きを考えようか。
君が送ってくれる未来の“記録”のこともね」
「……はい」
アルスは頭を下げ、研究室を出た。
扉が閉まる。
廊下に出ると、さっきまで風の膜に遮られていた空気が、いっせいに肌に触れてきた。
窓から覗く空は、もう夕方の色に傾きかけている。
塔の上では、風読みの羽根がいつもどおり回っていた。
歩き出してから、アルスはふと、自分の胸のあたりに手を当てた。
そこには、さっきまでと違う軽さがあった。
なぜ、あそこまで話してしまったのか。
自分でも、うまく説明できない。
ただ――。
廊下の向こうから、風鈴の音が小さく届いた。
胸の奥で丸まっていた何かが、
少しだけほどけて、風に混ざっていったような気がした。




