第36話
「……よし。今日のところは、この辺で区切りをつけようか」
記録器の紙を切り離しながら、エルネが言った。
机の上と壁一面には、すでに何枚もの紙が貼られている。
波形の線。
数字の列。
「アルス君、少し休もう。お茶でいいかい?」
「……はい」
アルスは、軽く伸びをしながら椅子に深く座り直した。
肩のあたりが、じわりと重い。
疲れていないと言えば嘘になるが、その重さが嫌なものには感じられなかった。
エルネは棚から湯飲みを二つ取り出し、小さなポットから香りの薄い茶を注いだ。
「よく働いてくれたね、アルス君」
紙を眺めながら、エルネが言う。
「いえ。僕のほうこそ、勉強になりました」
アルスは湯飲みを両手で包み込んだ。
熱が指先から、少しずつ腕に登っていく。
風暦院の研究室に、珍しく静かな時間が流れた。
紙の擦れる音も、記録器の唸りもない。
聞こえるのは、外を通る風の気配だけだ。
「……さて」
湯飲みを一口すすると、エルネはふっと視線を紙から離した。
今度は、結晶ではなく、人のほうを見る。
「せっかくだし、人間のほうの話も、少ししてみようか」
「人間の……?」
アルスは、湯飲みを持ったまま首を傾げた。
「うん。マナでも結晶でもなく、それを扱う側の話」
エルネの口元に、楽しそうな笑みが浮かぶ。
「アルス君、導士進化論』って聞いたことはあるかな?」
◆
「……名前だけなら」
アルスは少し考えてから答えた。
「ちゃんとは知りません」
「まあ、普通はそうだろうね」
エルネは机の端の紙を一枚引き寄せ、裏面に簡単な図を描き始めた。
「昔はね、マナが扱える人間なんて、ほとんど居なかったと言われている」
紙の隅に、小さな丸をいくつか描く。
「そこから少しずつ、導士が増えていった。
マナの濃い土地で生まれた一族がいて、
魔石を扱う晶装士が現れて、
魔法士と魔法士が結婚したり、魔法士と無魔の民が混ざり合ったり」
丸の数が少しずつ増え、線で繋がれていく。
「出生数の統計を追っていくとね。
マナを扱える人間の割合は、じわじわと増えているんだ」
「割合?」
「そう。絶対数じゃなくて、全体の中でどれくらいかっていう話だね」
エルネは丸を増やしながら続ける。
「導士進化論っていうのは、その流れをもとにした仮説の一つだ」
「まだ正式な学説ってわけじゃない。
でも、僕はけっこう気に入ってる考え方でね」
ペン先が、紙の上でさらさらと動く。
「このまま、長い年月をかければ、ほぼ全ての人がマナを扱える様になるだろうってね」
今度は、色分けするみたいに丸に印をつける。
「すでに、ごくまれにだけど、複数のマナを扱える人間の報告もある」
アルスの胸のあたりが、わずかにざわついた。
「ただ、今のところはほとんどが、どちらも中途半端だったり、
片方しか実用レベルまで伸びなかったり、そんなものばかりだ」
エルネは、あっさりと言う。
「でも、何百年、何千年と続けば――。
きっと、『本物』が出てくる」
「本物……?」
「どの属性でも、同じくらいの精度でマナを扱える人間。
土も風も水も、当たり前のように扱える人間だね」
紙の端に、小さな星印がぽつ、ぽつと描き足される。
「……人間も、変わっていくんですね」
アルスは、静かに呟いた。
「もちろん」
エルネは、さらりと言う。
「変わらないものなんて、ほとんどないよ。
魔石も、風の流れも、人の身体も。
結晶だって、いつかは風化する」
◆
「でね」
エルネは、さっきまで貼っていた紙束の一つを取り外した。
そこには、結晶と魔道具を使って得られた揺らぎの線が重ねてある。
「さっき君と一緒に整理した結晶の結果と、今の話を、少し繋げてみるとね」
指先で、線の一部をとん、と叩く。
「もし、ひとりの人間が複数の属性の揺れを、同じ精度で扱えるようになったら――
その人が作る結晶は、今とは構造から違ってくると思うんだ」
「……」
「僕らが今見ているのは、土の結晶一つ分の世界だけだ。
けれど、もし土と風を同じくらいの細かさで掴める人間がいたら、
その人が作る結晶の中身は、もう少し複雑なものになるだろう」
エルネは、結晶をつまみ上げた。
「さっきも話したけれど、この結晶の周りでは、マナが魔石と勘違いして集まってくる」
周囲のマナの流れを記録した紙を、アルスのほうへ向ける。
「中に閉じ込められたマナの量は変わらないのに、
結晶のまわりに、ゆっくりした渦みたいな流れができる」
「はい」
「もし、結晶に対応する場所。土なら土の情脈帯のすぐそばに、十分なマナが満ちていたら」
エルネは、ペン先で紙に小さな丸を描いた。
「人の手で、魔石のようなものを作れるかもしれない」
「魔石?」
「もちろん、今のところは完全に机上の空論だ」
エルネは、自分で言っておきながら肩をすくめる。
「ここは風の国だし、土の結晶しかない。
実際に確かめようにも、条件が足りなさすぎる」
それでも、とエルネは続けた。
「もし、“風”や“水”や“火”を、土と同じ精度で扱える人が現れて、
その人が結晶を作り、その結晶に合わせて情脈帯のすぐそばで実験できるようになったら――」
ペン先が、新しい線を紙の上に引いた。
「さっきの“空論”は、少しだけ現実に近づく、かもね」
「……それって」
アルスは、言葉を選びながら尋ねる。
「新しい魔石が、作れるってことですか?」
「さあね」
エルネは笑った。
「あくまで仮説だけどね」
「空の上だけを流れるマナとか、
深い海の底だけを流れるマナとか、
まだ名前もついていないマナとかね」
それは、研究者の“妄想”に近い口ぶりだった。
「そういう結晶から生まれる魔道具は、きっと今の分類では拾いきれない魔法になる」
エルネの目が、少しだけ遠くを見る。
「風でも土でも水でも火でもない、何か。
『何か』としか言えないもの」
「……」
アルスは、黙ってその横顔を見ていた。
自分が当たり前のように扱っている“箱”の術が、
その『何か』の端っこに繋がっているかもしれない、という感覚。
それは、ぞくりとするほどの怖さと、同じくらいの興味を連れてきた。
「だからね」
エルネは、ふっと笑って肩をすくめる。
「僕は時々、未来の人間を心底うらやましく思うんだ」
「うらやましい?」
「きっと彼らは、今僕たちが『夢物語だ』って笑っている現象を、
当たり前みたいな顔で扱っている」
ペンの先で、紙の上に小さな星をひとつ描く。
「そんな時代に生まれたかったな、と本気で思うこよ」
アルスは、自分の胸のあたりを無意識に押さえた。
エルネが遠い未来の人間として語っている像が、
こんなにも近くにいてしまう。
「……僕は」
少し考えてから、口を開いた。
「僕は、羨ましいって言うより、少し怖いかもしれません」
「怖い?」
「その魔法が、どんな使い方をされるのか想像つかなくて」
エルネは、ふむ、と小さく頷いた。
「それでいいと思うよ」
「いいんですか?」
「怖がる人間がいるってことは、時代が勝手な方向に転げ落ちないための重しにもなるからね」
そう言って、茶をひと口飲む。
「全部『面白いから』で突き進む奴ばかりだと、世界なんてあっという間に壊れてしまう」
「僕はね」
エルネは、湯飲みを机に置き、指先を組んだ。
「魔法や結晶そのものより、どう流れて、どう変わるかにいちばん興味がある」
視線が、机の片隅の結晶へと移る。
「それを武器にするか、暮らしに使うか、祭りに使うか。
そこは、その時代に生きている人間たちの仕事だと思ってる」
「エルネさんは、そこまで考えないんですか?」
「もちろん、あまりおかしな使い道をされるのはごめんだとは思うよ」
エルネは、苦笑めいた表情を浮かべた。
「でも、僕一人が全部を決められるほど、世界は小さくない」
その言い方は、開き直りというより、限界を知った人間の落ち着きに近かった。
「だから、線を引くとしたら、この辺りかな」
胸のあたりを軽く叩く。
「僕は流れを知るところまで。
その先をどうするかは、僕以外の誰かに任せる」
「任せる……」
「その代わり、流れを見ているあいだだけは、できる限り正直でいたい」
エルネは、壁に貼られた波形の紙を見上げた。
「見えたものを、見えたとおりに記録する。
都合のいいところだけ切り取ったり、怖いからといって目を閉じたりはしない」
アルスは、丘の上で聞いたフェアリスの言葉を思い出す。
――心のゆくままに。
怖いほうと、見てみたいほう。
両方あるときは、だいたい“怖いほう”に、本当に行きたいほうが隠れている。
今まで“遠い未来の話”として聞いていた導士進化論や、新しい結晶の可能性が、
少しずつ、“今ここ”の自分の話に近づいてくる感覚があった。
結晶。
魔道具。
ユベルの術。
それらが、どこに向かって流れていくべきなのか。
胸の奥で、小さな渦が巻き始める。
「……アルス君?」
黙り込んだアルスに、エルネが首を傾げた。
「あ、いえ」
アルスは慌てて首を振った。
けれど、さっきまでよりも、はっきりと自分の心の位置が分かる。
未来の誰かのためでも、
誰かの兵器のためでもなく。
(――自分が、どうしたいか)
フェアリスの声と、エルネの言葉が、静かに重なった。
アルスは、机の上の結晶を見つめた。
そして、エルネの横顔を見る。
机と紙に埋もれながら、まだ来ない時代のことを本気で想像している人。
「……エルネさん」
気がつくと、口が動いていた。
「うん?」
横を向いたエルネの目が、少しだけ不思議そうに細められる。
「ひとつ、お願いがあります」
言葉が、風に乗って研究室の中に落ちた。
「お願い?」
エルネは湯飲みを置き、きちんとアルスのほうに向き直る。
「なんだい?」
アルスは、胸の奥で小さく息を吸った。
その答えは、まだ言葉になっていない。
けれど、“そこへ向かう”ための一歩だけは、はっきりと踏み出せた気がした。




