第35話
風の国に来て、もう一月半が過ぎようとしていた。
そのあいだに、アルスの一日は少しずつ形を変えていた。
朝は風暦院の研究棟。
結晶に流したマナの揺れを観測器に記録し、塔から送られてきた古い記録と見比べる。
紙の束は、最初の数枚から、いつの間にか棚ひとつを埋めるほどに増えていた。
昼以降は、その日によって違う。
工房でヘンデルと小型版の魔道具をいじる日もあれば、
研究室に残って、エルネと一緒に波形を眺め続ける日もある。
ノルンは――部屋にこもる時間が増えた。
机の上に積んだ論文と紙の山。
その向こうから、ときどき金属が転がる音や、何かを組んでは壊す音が聞こえてくる。
ミーナは今日は、学院の雑務で朝から捕まっているらしい。
「一日中、風読み羽根の点検させられるんだって」
出かけ際にそう言って、ため息まじりに笑っていた顔を、アルスは思い出した。
だから今、研究室には、アルスとエルネの二人だけだった。
◆
「さて。今日の分を始めようか」
エルネは、机の上の魔道具に手を置いた。
円盤状の土台、その上に組まれた輪と枝。
中心には、結晶を固定する小さな枠。
脇には、土を敷いた皿と、連動する目盛り盤。
その周りを、さらにいくつかの観測器が取り囲んでいる。
マナを波形として刻む装置。
そして新しく追加された、周囲のマナ濃度を測る感応輪。
壁際には、ここ数日で積み上がった波形の紙が、びっしりと貼られていた。
エルネは、そのひとつ――最初期の実験で取った記録を指先で叩く。
「今日は、この子達の確認から行こう」
「はい」
アルスは頷き、ポケットから土の結晶を取り出した。
掌の上で光を宿す、小さな結晶。
それを枠の中へそっとはめ込む。
カチリ、と小さな音がした。
「よし。こっちはいつでもいい」
エルネは、観測器のスイッチを次々と入れていく。
紙を巻き込む音、針が振れる前のかすかな唸り。
アルスはレバーに手をかけ、息を整えた。
「行きます」
カチ、とレバーが倒される。
結晶の内側で、光がふわりと揺れた。
輪と枝のあいだを、目に見えない流れが走る。
土を敷いた皿の上で、粒が集まり、小さな山をつくる。
ほとんど同時に、観測器のペン先が紙の上を走り出した。
細い線が、波を描きながら刻まれていく。
やがて、動きが落ち着いた。
「うん、良いね」
エルネは機械の動きを止め、記録紙を引き抜いた。
棚から古い記録を一枚取り出し、今の紙の上に重ねる。
光に透かすと、二本の線がほとんどぴたりと重なっていた。
ただ、ところどころで、ほんのわずかにずれている。
「ね?」
エルネは、ずれた部分を指先でなぞった。
「分解すると、再構築した後。
数字で言うなら、ほとんど同じと言っていい」
「……はい」
「でも、ここ」
線がふくらんでいる部分。
逆に、わずかにへこんでいる部分。
「少しだけ差分があるだろ?」
合わせた紙の線が僅かにズレる。
「はい。でもそれが何か?」
エルネは、線の重なりをもう一度確かめる。
「再構築する前と後で、僅かに違うものができているってことさ」
「違うもの?」
「そうだ。限りなく似ている違う『何か』ってことさ」
アルスは、自分の手のひらを見下ろした。
それでも、アルスには皿の上の土の山は「同じ」にしか見えなかった。
エルネは、その表情をちらりと見て、肩をすくめる。
「十分すごいんだよ」
「そうですか」
「そうとも」
軽く笑って、エルネは新しい紙を観測器にセットした。
「じゃあ次、今度は少し変わったことをしてみよう」
エルネは、魔道具の側面に取り付けられたネジのひとつを調整した。
「変わったこと?」
「うん。結晶から全部取り出さずに、途中までだけ取り出してみる」
アルスは思わず眉をひそめる。
「そんなこと、できるんですか」
「やってみないと分からないから、やってみよう」
エルネは楽しそうに言った。
「出力を弱めて、途中で流れを切る」
塔と繋がった盤の針を、少しだけ低い位置に合わせる。
アルスは、同じ土の結晶をもう一度枠にはめ込んだ。
「さっきと、どう違うんでしょう」
「皿の上を見ていてごらん」
「はい」
エルネはレバーに手をかける。
カチ、と音がして、結晶が再び光を帯びた。
土の皿が、ざらりと動く。
粒が集まりかけて――途中で、ふっとその動きが止まった。
さっき見た小さな山にはなりきらない。
その手前で、崩れかけた丘のような形になっている。
観測器のペン先は、さっきよりも浅い波を一度だけ描いて止まっていた。
「……なんだか、変な形ですね」
「そうだね」
結晶は宙に霧散してなくなった。
「使っていないマナは何処かに行ってしまう様だね」」
エルネは、観測器から紙を抜き取る。
「二つ目の結果だ」
棚から、さっきの全部取り出したときの波形と、今の波形を並べる。
「で、問題は三つ目だ」
エルネは、机の端に据え付けられた感応輪に手を伸ばした。
輪の内側には、細かな目盛りが刻まれている。
そこに取り付けられた針が、周囲のマナの濃さを示していた。
「これは周囲のマナを観測する器具だよ」
「周囲の?」
「うん」
エルネは、針が今示している値をちらりと確認した。
「結晶を置く前は、だいたいこのあたりで落ち着いている」
「ここに結晶を置いてみて」
アルスは土の結晶を観測機の中心に置く。
しばらくすると少しずつメモリが上がっているのを確認できる。
「……上がっていってますね」
「そう」
エルネは、紙を引き抜いて見せた。
「結晶を置くと、この周りにマナが集まっているのが確認できる。
それも、結晶のすぐ周りでだけ」
エルネは、感応輪の内側を指でなぞった。
「僕の仮説は、こうだ」
少しだけ、声の調子が変わる。
「マナが、この結晶を痩せた魔石だと勘違いしている」
「……痩せた魔石?」
「うん。マナが枯渇している魔石のことだよ」
学院でも魔石の話を、アルスも何度か耳にしていた。
「周りのマナからすると、あそこに枯れかけている魔石があるように見えるのかもしれない」
エルネは結晶を掲げる。
「だから、補充してやろうとして、マナが少しずつ結晶の周りに集まってくる。
ところがこの結晶は、魔石みたいにマナを飲み込まない。ただ、そこにあるだけ」
エルネは、感応輪の目盛りを指した。
「行き場を失ったマナが、結晶の近くでゆっくりと漂っている。
そんな感じかな?」
アルスは、結晶を見つめた。
さっきまで、自分の手の中で光っていたもの。
「なんだか周りを騙してるみたい」
「騙す、ねえ」
エルネは、ほんの少しだけ笑った。
「面白いね」
結晶を指で転がしながら、エルネは続ける。
「さて。今日までのところで、分かったことは三つ」
指を一本ずつ折っていく。
「一つ。再構築された魔法は、元の魔法と少し異なる」
「二つ。途中まで構築すると、残りは無くなってしまう」
「三つ。結晶の周りには対応したマナが集まってくる」
エルネは、そこで一度息を吐いた。
「そんなところかな。色んな意味で贋作に近いってことさ」
アルスは、結晶を両手で包み込んだ。
光は静かに、そこにある。
「……騙したくて、騙したんじゃないと思います。ただ造られただけなんです」
ぽつりと漏らした言葉に、エルネは目を細めた。
「そうだね」
窓から吹き込む風が、壁に貼られた波形の紙をふわりと揺らす。
紙の上の揺れ。
窓の外の、本物の風。
その両方が、ひとつの部屋の中で重なり合っていた。




