第31話
工房を出ると、風が真正面からぶつかってきた。
魔道具を挟んで歩くには、少し心許ないほどの強さだ。
二人は足元と道の段差に気を配りながら、ゆっくりと坂を上っていく。
「……思ったより重いね」
アルスが息を整えながら言う。
「おじいちゃん、部品詰め込みすぎなんだよ」
ノルンも、額に汗をにじませながら苦笑した。
高台の道を進むにつれ、風暦院の塔が近づいてくる。
空に突き刺さるような細い塔。その先端では、風読みの羽根が絶えず回転していた。
塔の根元近くまで来たところで、アルスは一度足を止めた。
「少し、休もうか」
「うん」
二人は、塔の影になった石段に魔道具をそっと下ろした。
肩から力が抜ける。
風はまだ強い。
塔の上の羽根が、きぃきぃと音を立てながら回り続けている。
しばらく、何も話さずに風に吹かれていた。
やがて、その風が――ふと、止んだ。
音が消える。
羽根の回転が、ゆっくりと弱まっていく。
風鈴の音も、遠くで途切れた。
世界から、一瞬だけ、風の気配が消えたようだった。
「……止まった」
アルスは、思わず空を見上げた。
雲の切れ間から、薄い光が降りている。
その向こうを、細長い何かが横切っていく光景が――ふと、頭の奥に蘇った。
(あれは……)
「どうしたの?」
ノルンが隣で首を傾げる。
「この国に来た日のこと、思い出した」
「来た日?」
「うん。宿の窓から、空を見上げたとき」
アルスは、ゆっくりと言葉を探した。
「月明かりの下で、雲の上を、
細長い生き物みたいなのが、するっと横切っていった気がして」
「細長い生き物……」
ノルンは目を瞬く。
「……それ、もしかして――“風龍”じゃないかな」
「風龍?」
「うん」
ノルンは塔を見上げた。
「小さいころ、聞かされたことがあるんだ。
“風龍は、風を運び、縁を運ぶもの”って」
「風と……縁」
「この国の言い伝えでは、風龍をみると良いことがあるとされてるんだ」
「良いこと?」
「大きな風の変わり目にだけ現れて、人と人を繋ぐ」
ノルンは、そう言いながら、自分の膝に視線を落とした。
「そんな……感じ」
アルスはしばらく空を見ていたが、やがてノルンの横顔に目を向ける。
「ノルンは、見たことある?」
少しの沈黙のあと、ノルンは小さく頷いた。
「……一度だけ、ね」
「風龍を?」
「うん」
ノルンは、塔の根元を見つめた。
「ここで」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「お母さんが……いなくなった日のことなんだ」
アルスは、何も言わずに耳を傾けた。
「家にいると、みんなが優しくしてくれてさ。
おじいちゃんも、近所の人も、いろいろ話しかけてくれて」
ノルンは、指先で石段の縁をなぞる。
「それが、だんだん苦しくなってきて。
“平気なふり”するの、上手じゃないから」
「……」
「一人になりたくて、この塔の下まで来たんだ。
風が強くて、声も、あんまり聞こえなくて」
あのときの風を思い出しているのか、ノルンの髪がふわりと揺れた。
「空を見上げたら、雲が急に裂けてさ。
そのすきまを、細長い光みたいなのが渡っていった」
ノルンは、手で空に線を描いてみせる。
「……綺麗って、思った」
ノルンは、小さく息を吐いた。
「結局、おじいちゃんが探しに来てくれて、ここで見つけてくれた。
怒られるかなって思ったけど、“寒かったろ”ってだけ言ってさ」
そのときのヘンデルの顔を思い出したのか、ノルンの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「結局、風龍のことは、誰も信じてくれなかったけど」
「……そうだったんだ」
アルスは、塔の上とノルンの横顔を交互に見た。
誰にも信じてもらえなかった景色。
寂しさと、そこに重なる“何かを見た記憶”。
それは、どこか、自分が山小屋で感じていたものに似ている気がした。
「僕は」
自分でも驚くくらい、すっと言葉が出た。
「僕は、信じるよ」
「え?」
「ノルンが見たって言うなら、きっと風龍だったんだと思う」
アルスは、空を見上げる。
「だって――」
雲の切れ間を渡っていった細長い影。
船の上で見た、あの光景。
「僕も、多分、見たから」
ノルンの目が、少しだけ見開かれた。
そのとき、頬を撫でるような風が戻ってきた。
塔の上で、羽根が再び回り始める。
街のほうから、遅れて風鈴の音が届いた。
「……風を運び、縁を運ぶもの、か」
アルスは小さく呟いた。
ここに来られたのも、
ノルンと一緒に魔道具を運んでいるのも――どこかで、あの細長い何かと繋がっているのかもしれない。
「行こっか」
ノルンが立ち上がる。
石段に置いていた魔道具の取っ手を、いつものように慎重に掴んだ。
「うん」
アルスも立ち上がり、反対側を持ち上げる。
二人の肩に、同じ重さがかかる。
風に背中を押されるようにして、二人は塔の影を離れた。
風暦院の門へ向かって、ゆっくりと歩き出す。
頭の上では、塔の羽根が静かに回り続けていた。
◆
風暦院の門をくぐると、空気の匂いが少し変わった。
石畳の中庭には、制服姿の生徒たちが行き交っている。
塔のほうへ走っていく者。書類を抱えて研究棟に向かう者。
その間を、アルスとノルンは、魔道具を挟む形で進んでいく。
「……見られてる」
ノルンが、小さく呟いた。
視線を向けなくても分かる。
あちこちから、ちらちらとこちらを窺う気配がある。
(そりゃ、そうだよな)
大きな魔道具を抱えた見慣れない二人組が歩いていれば、誰だって気になる。
アルスは、ほんの少しだけ握りを強くした。
その反対側で、ノルンの指先がわずかに震えているのが、取っ手越しに伝わってくる。
「……」
足音が石畳に吸い込まれていく。
耳に入ってくる声の断片。
「誰?」「見ない顔だな」「あの機械、何だろ」
ノルンの視線が、足元に落ちたまま上がってこない。
アルスは、前だけを見て歩き続けた。
「……もう少しで、研究棟だよ」
何気ないふうを装って、ぽつりと声をかける。
ノルンは、少し遅れて「うん」と答えた。
震えは、まだ完全には消えていない。
それでも、さっき塔の下で話していたときよりは、ほんの少しだけ軽くなったようにも感じられた。
中庭を抜け、研究棟へ続く回廊に入る。
ここまで来ると、生徒の数はぐっと減る。
代わりに、紙の擦れる音や、遠くで誰かが黒板を叩く音が、かすかに響いていた。
白い壁に、窓越しの光が反射して揺れる。
廊下の先には、見慣れた扉がいくつも並んでいた。
アルスは、その中のひとつ――プレートに「エルネ=アルセリオ」の名前が刻まれた扉の前で足を止める。
「着いた」
魔道具を静かに床に下ろす。
ノルンも、向かい側で同じように手を放した。
大きく息を吐いてから、そっと顔を上げる。
俯いていた肩が、少しだけ戻る。
「ここが……エルネさんの研究室?」
「うん」
アルスは頷き、扉の板に視線を向けた。
風の音は、厚い壁に遮られてほとんど聞こえない。
その代わり、胸の内側で鼓動だけが静かに鳴っていた。
「……入る?」
アルスが問いかけると、ノルンは一瞬だけ迷うようにまばたきをした。
それでも、次の瞬間には、小さく首を縦に振っていた。
「うん」
その横顔は、まだ少し強張っている。
けれど、その目は、工房で図面を見ているときと同じように、前を見ていた。
アルスは、片手を伸ばし、扉を軽くノックした。
乾いた音が、廊下に短く響いた。




