第29話
翌日も、風はよく吹いていた。
風暦院の中庭に面した通路を、アルスは研究棟から寮棟へと歩いていた。
午前中はいつもどおりエルネの研究室で結晶の実験。
記録を取り終え、少し遅めの昼食をとろうとしたところだった。
「あ、アルス!」
呼び止められて顔を上げると、廊下の向こうからミーナが手を振っていた。
トレイを片手に、もう片方でぶんぶんと大きく。
「ミーナ」
「今ごはん? だったら一緒に食べよ。席とっとく!」
返事を待たずに駆けていく背中を見て、アルスは小さく笑ってから食堂に向かった。
◆
風暦院の食堂は、昼を少し過ぎてもまだ賑やかだった。
窓を開け放った室内に、塔のほうから吹き込む風と、遠くの風鈴の音が混ざる。
ミーナは窓際の席を陣取り、湯気の立つスープを前にしていた。
「こっちこっち」
手招きされ、アルスは向かいに腰を下ろした。
「午前中、どうだった? お父さん相変わらず難しい話してた?」
「うん。結晶の中でマナがどう動いてるとか」
「だよねー」
ミーナはパンをちぎりながら、けらけら笑う。
アルスもスープを一口飲み、少しだけ息をついた。
温かさが喉を通り抜けていく。
「ミーナ」
「ん?」
「ひとつ、聞いてもいい?」
「なに?」
ミーナはスプーンをくるくる回しながら首を傾げた。
「昔、僕がマギア院に来た頃のことなんだけど」
「うん?」
「どうしてミーナは、僕たちに話しかけてくれたの?」
ミーナは一瞬「は?」という顔をして、それからぽかんと口を開けた。
「えっ、そこ?」
「前から、気になってて」
「うーん……」
ミーナはスプーンの先で空中を突きながら、しばらく考える。
「……なんとなく?」
「なんとなく」
「うん。なんかさ、見たことない子たちがいてさ。“あ、面白そう”って思ったから」
あっけらかんとした答えだった。
「それだけ?」
「それだけ」
ミーナはきっぱりと言って、スープをすすった。
「……そういうもの?」
「そういうもの」
ミーナは笑う。
ミーナの「なんとなく」は、いつも誰かの助けになる。
「……ミーナは、そういうところいいよね」
「どゆこと?」
「褒めてるのさ」
ミーナは一瞬きょとんとしてから、照れくさそうに笑った。
「まあ、よく分かんない」
パンをかじりながら、ミーナは肩をすくめる。
「そうだね」
アルスは、窓の外に目を向けた。
中庭の上を、白い布が一枚、ゆっくりと揺れながら渡っていく。
(なんとなく、で)
口に出さずに、その言葉を心の中で繰り返した。
◆
午後、工房には金属と油の匂いがいつもどおりに満ちていた。
作業台の上には、昨日よりも少し組み上がった魔道具が置かれている。
結晶を固定する枠と、そこから伸びた細い輪。
輪の外側には、新しく継ぎ足された金属の枝がいくつも張り巡らされていた。
「うーん……ここをどうしたもんか……」
ヘンデルが低く唸る。
ピンセットの先で、枝と枝のあいだをつつきながら、眉間に皺を寄せていた。
「ここから先を繋ぐと、感度が上がりすぎる。
かといって切ると、結晶のほうの負担が増えちまう」
アルスはその横で、結晶を指先に乗せたまま、組み上がりつつある魔道具を見ていた。
昨日ノルンが提案した「枝」の線は、ヘンデルによってわずかに形を変えられ、
確かにマナの流れを均しているように見える。
けれど、その先がまだ決まっていない。
視線をふと横にやると、棚の影からそっとこちらを覗く気配があった。
ノルンだ。
工具を片付けているふりをしながら、時々こちらの手元を盗み見ている。
アルスは結晶を握り直し、心の中でさっきのミーナの言葉を思い出した。
(“なんとなく”)
喉の奥にひっかかるものを一度飲み込む。
少しだけ息を吸って、口を開いた。
「……ノルン」
名前を呼ぶと、棚の影の気配がぴたりと止まった。
「そんなところで、チラチラ見てないでさ。
こっち、来ない?」
ノルンの肩がわずかに跳ねる。
「べ、べつに……チラチラなんて……」
「ノルン」
ヘンデルが顔を上げた。
「無理に連れてこんでも――」
「この部分、ノルンにも見てほしくて」
ヘンデルの言葉を遮るように、アルスは言った。
作業台の上の、ヘンデルがさっきまで唸っていた部分を指さす。
「ここ、どうすればいいか分からなくて」
ノルンは一瞬、困ったように二人を見比べた。
視線が逃げ場を探し、それでも――ゆっくりと、足を前に出した。
作業台まで歩いてきて、そっと縁に手を置く。
「……ど、どこが?」
「ここ」
アルスは枝のつけ根のひとつを指で示す。
「ここから先を、どう繋いだらいいのか、分からなくて」
ノルンは黙って、その部分を見つめた。
金属の線の太さ、距離、角度。
支える柱の位置。
目だけが忙しなく動いている。
工房の中の音が、少し遠くなった。
長い沈黙のあと、ノルンは小さく息を吸った。
「……この枝、少しだけ短くしてもいいかも」
「短く?」
ヘンデルが低く繰り返す。
「うん。ここまで伸ばすと、流れを全部拾いすぎるから。
さっきの段階の揺れだけ、受け止めるようにして……」
ノルンは、指先で枝の途中をとん、と軽く叩いた。
「代わりに、ここにもうひとつ輪を足して、そこに逃がす。
こうすれば、結晶の負担も、こっちの感度も、両方ちょっとずつで済むと思う」
「輪を足すのか」
ヘンデルが身を乗り出す。
「そう。枝で全部持たせるんじゃなくて、一回ここで丸く受け止める。
輪のほうが、力を散らしやすいから」
ノルンは、自分の説明に気づいたように、慌てて口を閉じた。
「……たぶん、だけど」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
アルスは、ノルンの指が示した位置を見つめた。
枝の途中。
たしかにそこなら、結晶から流れてくるマナを、いきなり全部受け止めずに済みそうだった。
「……いいと思う」
ぽつりと、アルスは言った。
「さっきより、ずっと落ち着きそう」
「ふん」
ヘンデルは、しばらく何も言わなかった。
代わりに、作業台の上の枝と、ノルンの顔とを何度か行き来する。
それから、ふっと口元を緩めた。
「そうじゃな」
ようやく絞り出すように言う。
「いいかもしれん」
ノルンの肩が、わずかに上下した。
「枝を短くして、輪で受けるか……なんでそれを思いつかなんだか」
「おじいちゃんは、枝伸ばすの好きだから」
ノルンが小さく笑う。
「なんじゃそれは」
ヘンデルも、少しだけ笑った。
「坊主」
ヘンデルは、アルスのほうを見る。
「お前はどう思う」
「僕は……」
アルスは、結晶を握り直す。
「ノルンの案、試してみたいです」
「よし。なら決まりじゃ」
ヘンデルは新しい輪を取り出し、枝の長さを測り始めた。
「ノルン、その棒持ってろ。
アルス、お前はもう一個、結晶を作ってくれ」
「うん」
「は、はい」
三人の声が、作業台の上に重なった。
金属の擦れる音と、結晶が光を帯びる気配。
ノルンの短い説明を、ヘンデルの太い声が受け止め、
アルスの魔法が、その真ん中を繋いでいく。
工房の中の空気は、静かなのに、どこか前より賑やかだった。
◆
「……もうこんな時間か」
ヘンデルがふと顔を上げた頃には、窓の外はすっかり赤くなっていた。
作業台の上では、新しい輪が枝の途中に仮止めされている。
結晶を通して流したマナは、さっきよりも穏やかに魔道具全体へと広がっていた。
「今日はここまでじゃな」
ヘンデルは工具を置き、腕を伸ばした。
「アルス」
「はい」
「今日は、うちで飯を食ってけ」
「え?」
「毎日宿の飯じゃ飽きるじゃろ。
ノルンも、たまには誰かと一緒に食ったほうがいい」
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
アルスが頭を下げると、ノルンが少し驚いたように目を見開いた。
◆
工房に隣接する住まいは、外から見た工房よりもずっと静かだった。
油と金属の匂いに代わって、木とスープの匂いが鼻をくすぐる。
小さな食卓に、三人分の皿が並べられる。
素朴な野菜の煮込みと、焼いたパンと、香草の匂いのする肉。
「いただきます」
三人で手を合わせ、それぞれ食べ始めた。
アルスは一口スープを飲み、ゆっくりと味わう。
山小屋で飲んでいたものより、少しだけ塩気が強い。
でも、それが不思議と心地よかった。
ノルンは最初こそ遠慮がちだったが、途中からは小さくおかわりをした。
ヘンデルは何も言わずに鍋を差し出し、それを当たり前のように注ぎ足す。
食事が終わると、ノルンが椅子から立ち上がった。
「お皿、片付けてくる」
「頼んだ」
ヘンデルが頷くと、ノルンは皿を重ねて台所のほうへ運んでいった。
小さな水音が、奥のほうから聞こえてくる。
居間には、ヘンデルとアルスの二人だけが残った。
ヘンデルは、湯気の消えたカップを指で転がしながら、ぽつりと口を開く。
「……アルス」
「はい」
「ありがとうな」
「え?」
アルスは顔を上げた。
「孫を、誘ってくれてじゃ」
ヘンデルは、少しだけ視線を落とした。
「あんなふうに楽しそうにしゃべっとったのは、久しぶりじゃった」
昼間の工房での光景が、アルスの頭の中にもよみがえる。
枝と輪の話をしながら、夢中になっていたノルンの横顔。
「……僕は、たいしたことしてないですよ」
アルスは、カップの縁を指先でなぞった。
「ノルンが、来たいと思ったから来ただけだと思います」
「ふむ」
「僕はただ、『なんとなく』呼んでみただけで」
ヘンデルはしばらくアルスを見つめていた。
それから、ふっと笑う。
「そうじゃな」
カップをテーブルに戻し、背もたれに体を預ける。
「なんとなく、か」
ヘンデルは面白そうに目を細めた。
「風の国らしい考えじゃ」
「そうなんでしょうか」
「そうじゃとも」
ヘンデルは、ゆっくりと頷いた。
「ノルンと一緒に話してくれて、嬉しかった。
これからも、あいつのこと……見てやってくれ」
「はい」
アルスは、はっきりと頷いた。
台所から、ノルンの「お皿終わったよー」という声が聞こえる。
ヘンデルは「おう」と短く返事をしてから、もう一度だけアルスのほうを見た。
その目は、昼の工房で魔道具を見ていたときとは違う、柔らかな光を宿していた。




