第28話
それから数日、アルスの一日ははっきりと分かれるようになった。
朝は風暦院。
エルネの研究室で、紙と数式と実験道具に囲まれながら、
ユベルの魔法と結晶の性質を一つずつ確かめていく。
結晶に流したマナの変化を記録し、
塔の観測値と見比べ、
時々エルネと意見を交わす。
昼になると、アルスは一度塔の下の通りに出て、風鈴の音を背に工房へ向かった。
扉を開けば、そこには金属と油と火花の匂い。
ヘンデルの工房では、同じ結晶が「道具」として形を与えられていく。
観測器の輪を思わせる円盤。
結晶を固定するための枠。
マナを流し込む経路となる細い金属線。
朝は紙と数字の世界で、
昼は手触りと音の世界。
同じ結晶を前にしているはずなのに、
目に入るものも、交わす言葉もまったく違っていた。
ノルンは、たいてい工房のどこかにいた。
作業台の端で部品を磨いていたり、
棚の影で工具を整えていたり、
奥の部屋で何かを書きつけていたり。
アルスが来ても、特に大げさな挨拶はしない。
それでも、視線だけはときどきこちらをかすめていた。
結晶を何度も作り変え、ヘンデルは経路の太さや角度を調整していく。
「ここが細すぎると、流れが詰まる」
「じゃあ、この辺で一度逃がせば……」
そんなやりとりを繰り返しながら、
魔道具は少しずつ「形」としてまとまり始めていた。
◆
その日の夕方、工房の扉が勢いよく開いた。
「ヘンデル!」
短い外套を羽織った男が、荒い息のまま中へ踏み込んでくる。
塔の紋章が刺繍された腕章が、薄暗い工房でもはっきり見えた。
「なんだ。壊したほうか、壊れたほうか」
ヘンデルは顔も上げずに言う。
「風読み塔の上段の観測器だ。羽根が回りっぱなしで、光が止まらねえ」
「それはまた、派手に壊したな」
ヘンデルは工具を置き、深く椅子から立ち上がる。
「今は手が離せねえ」
「上の連中が、あんた指名だ。
“あの塔の中身をいじったことのあるやつじゃないと困る”ってよ」
男は、工房の奥の道具をざっと見回したあと、肩で息をしながら続ける。
「風向きの記録が止まったままじゃ、今夜の便船の出港も決められねえ。頼む」
「……ったく」
ヘンデルは小さく舌打ちした。
「ノルン」
「は、はい」
奥の間から顔を出したノルンが、少し慌てて出てくる。
「工房を見ておけ。火は全部落としてある」
「分かった」
「坊主」
ヘンデルはアルスのほうを見る。
「その結晶は、今日はそこまでだ。続きは明日」
「はい」
「工具には触るなよ。壊れたら俺が悲しむ」
そう言って、ヘンデルは外套を引っつかむと、塔の使いの男とともに工房を出ていった。
扉が閉まると、工房には静かな音だけが残る。
金属同士がどこかでかすかに擦れ合う音。
壁の向こうで回り続ける古い歯車の唸り。
アルスは、作業台の上に並ぶ部品を見下ろした。
結晶を固定する枠。
マナの流れを誘導するための細い輪。
その輪を支える、まだ仮止めの柱。
指先で触れずに、形だけを追っていく。
(ここから先は、どう繋ぐのがいいんだろう)
頭の中で、何度か線を描き直してみる。
だが、どこかで詰まってしまう感じがした。
「……」
椅子に座り直し、結晶を指先で転がしていると、背後から小さな声がした。
「……い、今、何作ってるの?」
アルスは振り向いた。
棚の影から半分だけ顔を出したノルンが、
こちらをそっと覗き込んでいた。
「うん。結晶を置く魔道具の、続き」
アルスは、作業台の上の部品を指さす。
「ここに結晶を固定して、こっちの輪にマナを流すんだけど……」
言いながら、自分がどこで手を止めていたのかを確かめる。
「この先が、どうしても難しくて」
「……難しい?」
ノルンはおずおずと近づき、作業台の縁に手を置いた。
慎重に部品の並びを目で追い、それから輪と輪のあいだを、指先で空をなぞる。
「さっきまでと、組み方が少し違うね」
「分かるの?」
「うん。この輪、朝見たときは、ここまでしかなかった」
ノルンは、支柱のひとつをそっと叩いた。
「今のままだと、ここから流れが全部こっちに寄っちゃうかも」
「こっち?」
「うん。ほら、この角度」
ノルンは、軽く身を乗り出して、輪の上に影を作る。
「ここで一度、マナの逃げ道を作ってあげたほうが、落ち着くと思う」
「逃げ道」
「一箇所で全部支えようとすると、そこだけが熱くなって、動かなくなるから」
言葉に合わせて、ノルンの指先が空中で小さな輪を描いた。
「ここに、もう一本、細い線を回して……」
言いかけて、ノルンははっとして口をつぐむ。
「ご、ごめん。勝手に言って」
「ううん。助かる」
アルスは、言われたあたりをもう一度見た。
確かに、そこに細い経路が一本あれば、
結晶から流れ出た力をいきなり全部受け止めずに済みそうだった。
「ここに線を足すなら、どうやって支えたらいいんだろう」
「えっと……」
ノルンは、工具置き場から細い棒を一本取り、即席の線として宙に当ててみせる。
「こっちの柱を、少しだけ太くして……そこから枝みたいに伸ばしてあげるとか」
「枝」
「うん。全部を同じ太さにすると、どこが弱いか分からなくなるから」
ノルンは、自分の言葉に気づいたように、慌てて目を逸らした。
「……たぶん、だけど」
「たぶん、でそんなに出てくるの、すごいと思う」
アルスは、素直にそう言った。
「ヘンデルさん、いつもそういうふうに考えてるの?」
「おじいちゃんは、もっと……えっと、“勘”でやってる気がする」
ノルンは、少し困ったような笑い方をした。
「ぼくは、こうかなって思ったら、一回紙に描いてからじゃないと落ち着かなくて」
「でも、紙に描いてからだと、ちゃんとこういうの考えられるんだ」
「紙がないと、うまくしゃべれないだけ、かも」
小さく付け足した言葉は、消え入りそうに弱かった。
アルスは、棒で示された位置をもう一度なぞる。
「ここに枝みたいな線……いいと思う」
「ほんとに?」
「うん。さっきまで、全然思いつかなかったから」
今度はノルンのほうが、少しだけ目を丸くする番だった。
「……そっか」
机の上の部品と、アルスの顔を交互に見てから、
ノルンはふっと息を吐く。
「なんか、変な感じ」
「変?」
「こんなふうに、道具の話で人としゃべるの」
ノルンは、指先で作業台の端をとん、と軽く叩いた。
「おじいちゃん以外と、こんなに話したの……いつぶりだろ」
その言葉と一緒に、表情の明るさが少し引いた。
さっきまで動いていた口元が、きゅっと結ばれる。
「……ごめん。変なこと言った」
ノルンは慌てて顔をそらし、工具を抱え直した。
「ぼく、部屋に戻るね」
「あ……」
アルスが何か言おうとしたときには、
ノルンはもう棚の影を回り込み、奥の扉の向こうへ消えていた。
小さな閉まる音だけが残る。
工房には、再び機械の唸りだけが響いた。
アルスはしばらく、その扉のほうを見つめていた。
さっきまで机の上に重なっていた声が、耳の奥に残っている。
(……いつぶり、なんだろう)
ノルンが最後にそう言ったときの顔が、頭から離れなかった。
◆
その夜、ヘンデルは戻ってこなかった。
塔のほうが長引いているのか、工房は灯りだけが消され、
鍵はいつものように掛けられていた。
アルスは宿へ戻り、いつもの席に腰を下ろす。
食堂には、航路の話をしている客や、酒を飲んで歌い出しそうな男たちがいる。
風鈴の音だけは、昼と変わらず窓から入り込んでいた。
簡単な夕食が運ばれてきても、アルスはしばらくスプーンを持ったまま動かさなかった。
山小屋のことを、ふと思い出す。
外に出るのが怖かった頃。
村の人たちの視線が、ただ重たく感じていた頃。
ユベルの実験室。
リュマの授業。
アルベスの街。
自分の外にも世界があると、少しずつ知っていった場所。
(ノルンも……)
工房の奥の扉の前で、立ちすくんでいる小さな背中を思い浮かべる。
さっきの会話は、楽しそうだった。
それなのに、自分でそれを切るように部屋へ戻っていった。
スプーンの柄を持つ指先に、少しだけ力がこもる。
「……明日」
テーブルの木目を見つめたまま、アルスは小さく息を吐いた。
「ヘンデルさんに、話してみよう」
誰に向けたわけでもない小さな声は、湯気と一緒に立ちのぼり、すぐに掻き消えた。
外では、夜風が少し強くなったのか、
風鈴の音が、さっきよりも長く鳴り続いていた。




