第26話
研究室を出たあと、ミーナは肩をぐるぐる回しながら大きく伸びをした。
「ふー、なんか頭使う話だったね」
「うん。でも面白かったよ」
アルスは、手の中の紙と、ポケットの中の結晶の重さを意識した。
「ヘンデルおじいちゃん、ちょっと怖いけど腕は本物だから。
変なこと言って怒らせなきゃ大丈夫だよ」
「変なこと……」
「“学院の手伝いで――”とかいきなり言うと、たぶん眉ひそめるからね。
最初はお父さんの頼みだってだけ伝えればいいと思う」
ミーナは、アルスの腕を肘で軽くつついた。
「孫さんにも会えるといいね」
「どんな人なんだろう」
「さあね。でもヘンデルおじいちゃんの孫なら、悪い人じゃないと思う」
ミーナは笑いながら、廊下の先を指さした。
「私はお父さんの手伝いまたしてくるけど、アルスはどうする?」
「……僕は、ヘンデルさんに会いに行ってみる」
アルスは、少しだけ間を置いて答えた。
「そっか。じゃあ、今日は解散ってことで! じゃあね、アルス!」
ミーナは軽く手を振ると、エルネの元へ戻っていった。
その背中が角を曲がって見えなくなってから、
アルスはゆっくりと研究棟を後にした。
◆
ヘンデルの工房は、細い路地のいちばん奥にあった。
周りの家より一段高い土台の上に建っていて、
入口には、小さな木の看板がぶらさがっている。
掠れた文字を、アルスは目でなぞった。
――魔道具工房 ヘンデル。
見上げれば、縦に並ぶ窓はどれも閉ざされている。
風鈴も布もなく、ここだけ風の音が少し遠く感じられた。
(ここ、か)
アルス=ローデンは、ポケットの中の紙と結晶の感触を確かめてから、
扉の前に立った。
金属の取っ手の横には、小さな呼び鈴が付いている。
指で軽く引くと、からん、と控えめな音が鳴った。
耳を澄ます。
中から、人の声も足音も聞こえない。
代わりに、どこかでゆっくりと回転するような低い唸りだけが、かすかに響いていた。
「……すみません。風暦院から来ました。アルス=ローデンと言います」
扉に向かって声をかける。
少し待ってみたが、返事はなかった。
試しに取っ手を押してみると、扉はあっさりと内側へ動いた。
「……開いてる」
小さく呟いてから、アルスはもう一度路地を振り返った。
人影はない。
「失礼します。入ります」
そう言って、アルスは扉を押し広げた。
◆
中は薄暗く、外より少しひんやりしていた。
壁沿いには棚が並び、
木箱、金属の部品、魔石の入った瓶、巻かれた銅線が隙間なく押し込まれている。
部屋の中央には作業台が三つ。
手前の台には歯車や軸が広げられ、
隣の台には、薄い板に細かい線が刻まれていた。
奥の台の上には、見覚えのある形のものがある。
「……塔の装置に、似てる」
球体の中に、細かな砂のようなものが浮かんでいる。
外側には、細い輪がいくつも取り付けられていた。
塔で見た観測装置を、そのまま小さく、細かくしたような印象だった。
アルスは、知らないうちに一歩近づいていた。
輪の角度。
砂の沈みかた。
触れずとも、どこをどう動かせば風を読みやすくなるのか、なんとなく想像がつく。
指先が、無意識に動きかけた、そのとき。
「あ、あのっ!」
背後から、慌てたような声が飛んできた。
「な、何か用……なんですか?」
アルスは肩をびくりと跳ねさせて、振り向いた。
そこには、自分と同じくらいの背丈の少年が立っていた。
薄い灰色の髪が、ところどころ跳ねている。
額には使い込まれた保護ゴーグル。
袖口には、油や魔石の粉の跡がにじんでいた。
少年は、両手に何本かの工具を抱えたまま、
扉のほうからこちらをじっと見ている。
「あ……ごめんね。勝手に入って」
アルスは、慌てて装置から手を引いた。
「ヘンデルさんの工房ですよね。魔道具の相談で来たんだ」
「ま、魔道具の……」
少年は、工具を作業台の隅に置くと、おずおずと歩み寄ってきた。
「お、おじいちゃんなら、奥の部屋です。
勝手に入ったりは……たぶん怒らない、と思いますけど」
「そうなんだね。ありがとう」
「い、いえ。その……」
少年の視線が、アルスと奥の装置のあいだを行き来する。
「さっき、その観測器……見てましたよね」
「うん。塔で見たのに似てると思って」
アルスは、球体に視線を戻す。
「すごく、よく出来てる」
その一言に、少年の肩がぴくりと動いた。
「ど、どこが……ですか?」
「どこがって……」
アルスは、輪の一つを指さした。
「塔の装置の輪は大きくて、動きも少し荒かったけど、
こっちは細かく刻んである。風の変化に、敏感そうだなって」
自分でも驚くほど、言葉がすらすら出てきた。
「中の砂も、塔のより軽い気がする。ゆっくり動くから、流れを追いやすそうだし……。
あまり揺れすぎないように、重さを調整してる?」
「……してます」
少年は、思わずというように口を開いていた。
「塔のやつ、前に一度だけ見せてもらったんです。
あれ、見やすいけど、大きすぎて……。急に風が変わると、
細かい揺れがぜんぶ混ざっちゃうから」
話しながら、少年の表情から緊張が少しずつ抜けていく。
「だから、こっちは輪の数を増やして、
“今の風”と“さっきの風”を分けて見るようにしてみて……。
砂も、粒の大きさを変えて、層で動きが違うようにとか……」
そこまで早口でまくしたててから、はっとして口をつぐんだ。
「……す、すみません。しゃべりすぎました」
「ううん。面白いよ」
アルスは素直に言った。
「僕、魔道具の仕組みとか見るの好きなんだ」
少年は、ほんの少しだけうつむく。
耳のあたりが、薄く赤くなっていた。
「……ありがと、ございます」
「……君が作ったの?」
「えっ……いえ、その……設計は、おじいちゃんで。
でも、細かいところは、ちょっとだけ、いじらせてもらってます」
最後のほうは、ほとんど聞き取れない声だった。
「そっか。すごいね」
アルスは、自然とそう言っていた。
少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「ぼ、ぼくは、ノルンって言います。
ノルンで、いいです」
「アルス=ローデン。アルスでいいよ」
「アルス……さん」
ノルンは、名前を一度繰り返したあと、ちらりとアルスのポケットを見た。
「さっきから、気になってたんですけど」
「うん?」
「その……ポケットの中の、それ。
さっき、ちょっと光ったように見えて」
アルスは思わず手に触れ、結晶の感触を確かめる。
確かに、さっき装置を見ているときに、指先に少しマナを流してしまったのかもしれない。
「これか。魔道具の相談っていうのは、これを使う話なんだ」
「その石を、ですか?」
ノルンの目に、さっきとは違う種類の光が宿る。
「どんなふうに……って、聞いちゃダメですよね」
「たぶん大丈夫?
詳しい話は、ヘンデルさんと決めることになると思うけど」
「……へえ」
ノルンは、結晶とアルスの顔を交互に見比べた。
「おじいちゃん、学院とか役所とかの頼み事、あんまり好きじゃないんですけど。
面白そうだと思ったら、たぶん断れないです」
そこまで言ったところで、奥のほうから金属の軋む音がした。
「ノルン。誰かと話してるのか?」
低い声が、工房の奥から響く。
ノルンの背筋が、ぴんと伸びた。
「お、おじいちゃん……」
アルスは思わず姿勢を正した。
工房の奥の扉が、ゆっくりと開きかける。
そこで、一度だけ呼吸を整えた。




