第25話
宿の食堂は、朝から賑やかだった。
船乗りらしい客たちの笑い声と、皿が触れ合う音。
窓の外からは、今日も風鈴の音が流れ込んでくる。
アルスは、少し端の席でパンをちぎりながら、その音を聞いていた。
「おはよー!」
元気な声とともに、向かいの椅子に人影が落ちる。
「ミーナ」
「なんだか顔が明るいね。昨日、そんなに楽しかった?」
「…うん。少し」
ユベルの魔法を見せて、
エルネに「まだまだ可能性がある」と言われたこと。
その言葉を思い出すと、指先が勝手に動きそうになる。
「お兄ちゃんは?」
「もう出ちゃったよ。騎士隊の人たちと打ち合わせだってさ」
ミーナは器用にパンを片手でちぎりながら答えた。
「お兄ちゃん、こっち来るといつも忙しいんだ。
訓練場見たり、塔の風の様子見たり、偉い人としゃべったり」
「大変なんだね」
「まあね」
ミーナはあっけらかんと笑う。
「お父さんもそうだし、うちの男組はだいたいどこかで風に吹かれてるよ。
アルベスにいるの、今はお母さんだけ」
「マギア院にいる?」
「そうそう。研究室に住んでるみたいなもん」
ミーナはスープを一口飲んでから、ふっと視線を上に向けた。
「うちはさ、基本的にみんな離れ離れでしょ?
でもね。空を見てると寂しくないんだ」
「空……?」
「今はお父さんもお兄ちゃんもここで、
お母さんはアルベスで、あたしはその間を行ったり来たりでしょ」
指を一本ずつ折りながら、ミーナは数えてみせる。
「場所はぜんぶバラバラだけど、空は風で繋がってる。
そう思っとくと、ちょっと楽なんだよね」
「……いいね、それ」
アルスは、カップを持つ手に少しだけ力を込めた。
山小屋の煙突から見ていた空。
アルベスの塔の上から見た空。
ここで見上げる空も、きっとどこかでつながっているのだと思う。
「アルスもさ、今日くらいは好きに歩きなよ。
お父さんも、たぶんそれ期待してる」
「好きに……」
「お父さんも言ってたじゃん。“もっと自由に”って」
ミーナは、ちょっと真似をするように肩をすくめる。
「研究室行く前にさ、少し遠回りしてこうよ。
街の上のほう、まだちゃんと見てないでしょ?」
「……うん。行ってみたい」
「よし、じゃあ決まり!」
ミーナは立ち上がり、空になった皿を器用に重ねた。
「お父さんのとこ、昼前に行けば怒られないはず」
◆
宿を出ると、風がいつもより少し強く感じられた。
高台の道を登るにつれ、海の匂いが薄くなり、
代わりに石と布と人の匂いが混ざった空気が、頬を撫でていく。
通りの両側には、今日も布が揺れていた。
長い布、短い布、細い紐のようなもの。
どれも、風に任せるようにひらひらと踊っている。
「こっち」
ミーナが、慣れた足取りで細い路地に入っていく。
アルスもそれを追いながら、視線だけはあちこちに動かした。
風鈴の音が、少しずつ遠くなる。
代わりに、金属を打つ音や、何かが回転する低い唸りが混ざり始めた。
「ここらへん、工房が多いんだ。
魔道具の調整とか、塔で使う部品とか、いろいろ作ってる」
ミーナが、路地の先を指さした。
そこには、他の建物よりも少し背の高い、四角い建物があった。
壁に沿って縦に並ぶ窓。
ただ、そのどれもが、きっちりと閉ざされている。
周りの家には必ずぶら下がっているはずの風鈴も、
その建物の窓にはひとつも見当たらなかった。
「……あの建物、静かだね」
アルスが、思わず口にする。
「でしょ。ここだけ音の流れ方が違うんだよね」
ミーナは、その建物を見上げて肩をすくめた。
「魔道具工房のひとつなんだけどさ。
風の国の人には珍しい、真面目な道具ばっかりを作ってるところ」
「へえ」
「大きいけど、あそこを使ってるの一人しかいないんだよ」
ミーナは指で、建物の輪郭をなぞるように空を切った。
「ヘンデルおじいちゃんっていうんだけど、頑固ジジイなの」
「……怖そう」
「怖いよー……。何度怒鳴られたことか」
ミーナはくすっと笑う。
「たしか、孫もいたって聞いたことあるけど、私は会ったことないなー。
おじいちゃんに似て頑固なのか、逆なのか……」
アルスは、閉ざされた窓をもう一度見上げた。
中の様子は分からない。
けれど、誰かが黙々と道具を作っている気配だけが、そこにあるように思えた。
「やば、もうこんな時間。
ほら、寄り道しすぎると本当に怒られる」
ミーナに急かされて、アルスは歩き出した。
路地を抜けると、また風鈴の音が近づいてくる。
さっきの静けさが、少しだけ頭に残ったまま。
◆
風暦院の研究棟は、昨日と変わらない匂いがした。
石の床と、紙と、油と、魔石のわずかな焦げた匂い。
エルネの研究室の扉をノックすると、すぐに中から声が返ってきた。
「どうぞ」
扉を開けると、机の上には昨日の結晶と、いくつもの紙束が広がっていた。
エルネは椅子にもたれかかるように座り、
片手で眼鏡を押し上げながらこちらを見た。
「やあ。ちょうどいいところに来てくれた」
「おはようございます」
アルスが頭を下げる。
「あんまり畏まらなくていいよ」
軽く笑ってから、エルネは机の上の紙束を指で叩いた。
「昨日の結晶をね、少し調べさせてもらった」
「……どうでしたか」
「結論から言うと、とても面白かった」
エルネは、金属の皿に乗せた小さな結晶を持ち上げる。
「この結晶は、ただのマナの塊じゃない。
“設計図”でもある」
「設計図……」
「マナの形を記憶している。君が見せてくれた土の流れも、魔法の揺らぎもね」
エルネは、結晶の内側を覗き込むように目を細めた。
「ただ、マナの“偏り”までは記憶していないように見える」
「偏り……?」
「どこを強くして、どこを弱くするか、っていう重さのつけかたさ」
指先で、結晶をくるりと回す。
「そして君の魔法は、魔法や現象をいったん分解して、この結晶に“設計図として”閉じ込める。
それから、この設計図をもとに、元の現象を再構築している」
アルスは、自分の手のひらを見下ろした。
やっていることを言葉にされると、少しくすぐったいような感覚になる。
「そこで思ったんだ」
エルネは、結晶を皿ごと机に戻した。
「再構築された魔法や土は、元のものと“まったく同じ”なのかどうか」
「……同じじゃ、ないんですか?」
「僕の推論では、少し違うものになっている」
エルネは楽しそうに口の端を上げた。
「情報としてはほとんど同じだけど、偏りかたが違う。
つまり、“使用感が異なる”可能性がある」
「異なる……」
「でもね」
エルネは肩をすくめた。
「今の僕では、そこまできちんと分析できないんだ」
「どうしてですか?」
「簡単だよ。僕自身は、この結晶を“魔法に変換できない”からね」
エルネは、手のひらの上で結晶を転がした。
「君みたいに、ここからもう一度、土や風に戻すことができない。
だから、元とどこが違うのか、細かく比べることもできないんだ」
アルスは小さく頷いた。
自分にとって当たり前になっている行程が、
他の人には当たり前ではないのだと、改めて思い知らされる。
「そこでお願いがあるんだ」
エルネは、机の上の紙を一枚引き寄せると、さらさらと何かを書き始めた。
「ここから少し下ったところに、魔道具工房があるだろう?」
「……ヘンデルおじいちゃんのところ?」
ミーナが首を傾げる。
「そう。ヘンデルさんのところだよ」
エルネは、ミーナの言葉をそのまま借りて苦笑した。
「“ヘンデル”という魔道具職人に、この結晶をもとにした魔道具を作ってもらいたい」
「魔道具……」
「僕でも、この結晶を扱えるようにするための魔道具だ」
エルネは、書きかけの紙を二人のほうへ向ける。
「君の結晶を土台にして、マナを流し込める形に変換する装置。
それがあれば、僕みたいな導士でも、この“設計図の違い”を、自分の手で確かめられる」
「ヘンデルおじいちゃん、作ってくれるかなあ」
ミーナが、頬に指を当てて首を傾げる。
「頑固だけど、腕は確かだよ。
興味を持ってくれさえすれば、きっと何とかしてくれる」
エルネは紙にサインを書くと、そっと折ってアルスに手渡した。
「これが依頼の内容だ。話を通してくれるだけでも助かる」
「分かりました。でも僕でいいんでしょうか?」
「もちろん。そして君の協力もいると思う」
エルネは、アルスの目を見る。
「結晶の扱いかたは僕じゃ分からない。
ヘンデルに説明するにしても、君が隣にいたほうが話が早いだろう?」
「はい。そうですね」
アルスは、紙の感触を手の中で確かめた。
初めて見る名前が、そこに記されている。
「そういえば、ヘンデルには君と同じくらいの歳の孫がいるって聞いたことがある」
エルネは、ふとそんなことを言った。
「工房を手伝っているのか、そうでないのかまでは知らないけれど。
もしかしたら、気が合うかもしれないね」
「そうだと嬉しいです」
エルネは笑う。
「うん。そうだといいね」
「分かりました。行ってみます」
アルスがそう言うと、エルネは満足そうに頷いた。
「ありがとう。君が嫌でなければ、それで十分だ」




