第23話
翌朝、アルスは、いつもより少し早く目を覚ました。
風鈴の音が、夢の残りかすをかき混ぜている。
高い音、低い音、かすれて途切れる音。
ばらばらなのに、耳にうるさくはない。
(……なんか、いい気分だ)
どんな夢を見ていたのかは覚えていない。
ただ、背中をそっと押されたような感覚だけが、胸の奥に残っていた。
ベッドから起き上がり、窓の戸を少し開ける。
朝の風が、ひやりと頬を撫でた。
下には、風中庭が見える。
昨日と同じ場所のはずなのに、朝の光のせいか、布も塔も少しだけ違って見えた。
白い布にはまだ影が多く、魔石片の光も控えめだ。
かわりに、塔の上の羽根車が、静かに、確かな速さで回っている。
◆
「アルス、おそーい!」
宿の階段を降りると、入口のところでミーナが待ち構えていた。
腰に手を当て、頬をふくらませている。
その隣で、エルドが壁にもたれかかっていた。
「ご、ごめん。少し外を見てて」
「分かるけどさー、それ今日一日中言うことになるよ?」
ミーナはケロッと言って笑う。
「……あれ?」
ふと、アルスの顔をまじまじと覗き込んだ。
「なんか今日、いい顔してない?」
「え?」
「いつもより、かっこいいかも……」
「こら」
エルドが、軽くミーナの頭を小突いた。
「冗談言うな」
「いてっ。ほんとだってー」
ミーナは頭を押さえつつ、悪びれもせず笑う。
「でも、ほんとに。なんか今日のアルス、ちょっとだけいい顔してる」
「そうかな」
自分ではよく分からない。
けれど、悪い気はしなかった。
「ほら、腹が減ってはなんとやら」
エルドが階段を降りながら言う。
「軽く食べてから行くぞ」
「はーい!」
ミーナが元気よく答え、アルスの背中を押した。
風鈴の音を背に、三人は宿を出た。
◆
風中庭を抜け、昨日とは違う道を上がっていく。
講義棟方面とは反対の、少し静かな坂道。
その先に、研究棟の塔がいくつも重なって見えた。
「こっちが“頭の固い人たち”ゾーンね」
ミーナが、ざっくりした紹介をする。
「講義棟は学生の声がうるさいけど、研究棟は道具の音がうるさいよ」
「道具の?」
「行けば分かる」
坂を上がるほど、街のざわめきは薄れていく。
代わりに、別の音が耳に入ってきた。
からからと回る輪の音。
ぴん、と何かが弾ける音。
紙がめくられる、乾いた音。
研究棟の手前の中庭には、小さな塔の模型が置かれていた。
塔のてっぺんには、小さな羽根車。
塔のまわりには、透明な管がぐるりと巻きついている。
管の中を、色のついた砂のようなものが、ゆっくり流れていた。
アルスは思わず立ち止まり、管の中の砂を目で追った。
上に登った砂が、ある位置で急に進路を変え、別の管へ流れていく。
それは、風の塔の周りで観測される“筋”を再現したものなのだろう。
「寄り道してたら遅れるよー」
ミーナが、先のほうから手を振った。
「もっと変なの、父さんの部屋にいっぱいあるから」
アルスは少しだけ肩の力を抜き、二人のあとを追った。
◆
研究棟の廊下は、講義棟よりも静かだった。
学生の笑い声や足音の代わりに、
扉の向こうから、低い唸りや、金属のこすれる音が聞こえてくる。
壁には、研究室のプレートが並んでいた。
「風向予報班」
「港風道の安定化実験室」
「高層風観測室」
そして、廊下の突き当たり近く。
少し色あせた木の扉に、深い緑の文字が刻まれていた。
――エルネ=アルセリオ
風魔石研究室。
「ここ?」
「そう。うちの父さん、地味でしょ」
ミーナが、扉をポン、と叩く。
「地味で悪かったね」
中から、落ち着いた声が返ってきた。
「入っておいで」
ミーナが勢いよく扉を開ける。
◆
部屋の中は、一言で言えば“風の散らかった部屋”だった。
机の上には、開きっぱなしの本と書類の山。
壁には、風の経路を描いた地図が何枚も張られている。
天井からは、細い糸で吊るされた羽根や紙片がぶらさがっていた。
部屋のどこかを風が通るたび、彼らはふわりと向きを変える。
床の中央には、丸い石の盤。
その上には、薄く敷かれた砂。
その砂の周りを囲むように、いくつもの金属の輪と透明な器が並んでいた。
「悪いね。こんなに散らかっていて」
奥の机から、男の人が顔を上げた。
柔らかな銀緑の髪。
優しげな目元にかけられた丸い眼鏡。
ミーナとよく似た笑顔。
耳元には、小さな魔石がひとつ、静かに埋め込まれている。
「お父さん!」
ミーナが駆け寄る。
「挨拶できるなんて。珍しい!」
「ひどい娘だな……」
男――エルネ・アルセリオは、苦笑しながら立ち上がった。
そして、アルスのほうを向き、穏やかに微笑んだ。
「初めまして。エルネ・アルセリオだ」
思っていたよりも、柔らかい声だった。
「遠いところを、よく来てくれたね。アルス君」
「は、はい。アルスです」
アルスは慌てて頭を下げた。
「アルス君、こっちでは世話になる」
そう言ってから、アルスの前に歩み寄る。
◆
「さて」
エルネは、眼鏡の位置を指で直しながら、アルスに向き直った。
「今日やってもらうことは、ひとつだけだ」
机の上から、何枚かの紙をどける。
その下には、緻密な線で描かれた円と記号が覗いていた。
エルネはそれには手を触れず、部屋の中央の石盤を指さした。
「ここにある砂を――」
薄く敷かれた砂が、柔らかな光を受けてきらきらと光る。
「一度、壊して」
エルネは、両手を軽く開いて見せる。
「それから、ひとつに“まとめて”ほしい」
「……まとめて」
「いつもどおりでいいよ」
エルネの声は、驚くほどあっさりしていた。
「……分かりました」
アルスは、石盤の前に立った。
足元の砂は、ただの砂だ。
いつも練習で使っていたのと、そう変わらない。
(いつもどおり)
アルスは、そっと手を地面に添えた。
◆
息を、ひとつ整える。
指先に意識を集めると、世界の輪郭が少しだけ変わった。
砂の一粒一粒が、頭の中で“点”として浮かび上がる。
床の下に流れるマナの筋が、かすかに光を帯びる。
(分解)
最初に、形を壊す。
砂を支えている力――
魔法で固められた部分、地面のわずかな凹凸。
それらを“ほどく”ように、意識を流す。
さら……と、音がした。
石盤の中心の砂が、少しだけ沈む。
粒と粒のあいだの隙間が広がり、全体が“ばらける”。
(圧縮)
今度は、別の方向へ力をかける。
一度ばらばらになった点を、ひとつの“核”へ向かって引き寄せる。
マナの細い線をすこしだけねじ曲げ、砂のマナをそこへ滑らせる。
中心に、小さな渦が生まれる。
砂が、そこへ流れ込んでいく。
色も形も違う粒が、ぎゅうっと押し固められていく。
胸の奥が、少しきしんだ。
(……もう少し)
指先がじんじんと熱くなる。
マナの光が、中心で膨らみかけて――
きいん、と、耳の奥で細い音が鳴った。
次の瞬間。
砂の渦が止まり、代わりにひとつの“塊”が残った。
透明に近い、淡い色の結晶。
石盤の中央で、静かに光を受けていた。
アルスは、息を吐いた。
肩に入っていた力が、少し抜ける。
「……大丈夫かい?」
すぐそばで、エルネの声がした。
「はい。平気です」
「そうか。よかった」
エルネは、ほっとしたように微笑んだ。
「じゃあ少しだけ、見せてくれ」




