第21話
宿の部屋の窓を開けると、外から風鈴の音が流れ込んできた。
高い音、低い音、途中で途切れてまた繋がる音。
全部がばらばらなのに、不思議と耳に刺さらない。
アルスはしばらく黙って、その音を聞いていた。
窓の外には、風中庭の布と塔の影。
朝の光が、布の縁と魔石片を淡く照らしている。
(……本当に、風の国なんだ)
胸の奥に、じんわりと実感が広がった。
◆
「アルス、おそーい!」
階段を降りると、すでにミーナが入口で待っていた。
腰に手を当て、頬をふくらませている。
その隣で、エルドが壁にもたれかかっていた。
「ご、ごめん。ちょっと外見てて」
「分かるけどさ! それ、今日一日中言うことになるよ?」
ミーナはケロッと言って笑う。
「ほら、まずはご飯。風の国のご飯! 楽しみにしてたでしょ?」
「うん、少し」
「少しって何よ!」
ミーナに背中を押されるようにして、三人は宿を出た。
◆
風中庭から少し外れた通りに出ると、
すでに屋台や店が、風に合わせて動き始めていた。
風で回る串焼き台。
布を膨らませて香りを飛ばす茶屋。
小さな羽根車付きの台車が、ひとりでに通りを滑っていく。
「わ、あれ……!」
アルスが思わず指さした先では、
円筒形の籠が、風に押されてゆっくり回っていた。
中には、細長く切られたパン生地が吊るされている。
回転に合わせて、薄く塩を吹きかける仕掛けになっていた。
「風焼きパンだよ」
ミーナが胸を張る。
「焼くのは普通の釜だけど、味付けは風任せ。今日のはちょうどいいと思う」
「“今日の”?」
「風強い日はしょっぱすぎるの。たまにね」
あっけらかんとした説明に、アルスは思わず笑ってしまう。
「ほら、三本ね!」
ミーナが手早く買い、アルスとエルドに一本ずつ押しつける。
かじると、外は薄くかたく、中はふわりとしていた。
塩と油が風でよく馴染んでいるのか、香りが妙に軽い。
「……おいしい」
「でしょ!」
ミーナは自分の分を一瞬で半分まで食べる。
通りの向こうでは、風茶屋の布屋根がふくらんでいた。
布の内側に仕込まれた小さな魔石が、風の強さに合わせて色を変える。
「風の強い日は“温かいお茶”、弱い日は“冷たいお茶”を出すの」
ミーナが当然のように言う。
「……どうして?」
「だって、暑い日に熱いお茶出されたら嫌じゃん」
「理屈は分かる」
エルドが短く相槌を打つ。
アルスは、そんなふたりの会話を聞きながら、
頭の中で「風の国の暮らし」の形を組み立てていた。
◆
「さてと――腹もふくれたし」
パンを食べ終えたミーナが、くるりと振り返る。
「そろそろ学院、行こっか」
「うん」
風中庭から少し上の通りに出ると、
そこから先は、塔と建物が密集していた。
石造りの建物のあいだを、布の橋が渡されている。
布の下には、風鈴のような管や、小さな羽根車が吊られていた。
坂を上るほど、風の温度が少しずつ変わっていった。
港のそばのひんやりした風よりも、
街の中の風は少し乾いて軽い。
やがて、視界の先に大きな門が見えてきた。
◆
門は、高い石壁に埋め込まれるように作られていた。
壁の上には、小さな羽根車がびっしり並んでいる。
それぞれが違う速さ、違う方向で回りながら、
全体としてひとつの“模様”を描いていた。
門の上には、深い緑色の文字が刻まれている。
――風暦院。
(ここが……)
アルスは無意識に息を飲み込む。
アルベスの学院とは、雰囲気がまるで違う。
あちらは重い扉と石像が迎えてくれたが、
ここは、門そのものが風の道の一部になっているようだった。
「入るよー」
ミーナが慣れた足取りで門をくぐる。
中庭には、高さの違う塔がいくつも立っていた。
その間を、風で回る輪や板が繋いでいる。
塔の根元には、石と木で作られた建物が寄り添うように並んでいた。
「こっちが講義棟で、あっちが研究棟」
ミーナが、片手でざっくり指し示す。
「魔道具工房は、研究棟の裏のほう。
でも今日は、まず受付ね」
「……分かった」
アルスは頷き、ふたりのあとについていった。
◆
事務室の扉を開けると、
中には書類の山と、風で回る仕分け輪があった。
細い輪が天井近くをくるくる回り、
紙を挟んだ小さなクリップが、一定の場所まで来るとぱたんと落ちる。
「相変わらずだな……」
エルドが小さく呟く。
「すみませーん!」
ミーナがカウンターに身を乗り出すと、
中から丸眼鏡の事務官らしき女性が顔を出した。
「はい、おはようございます。……あら、ミーナちゃん」
「おはようございます! ただいまです!」
「お帰りなさい。エルドさんも」
「世話になる」
エルドが軽く会釈する。
事務官はアルスに気づき、穏やかな目を向けた。
「では――あなたが、アルス……さんですね」
「はい。アルスです」
「アルベス魔法学院からの書状、すでに受け取っております」
事務官は、手元の書類をぱらりとめくる。
「こちらでは、アルスさんは“共同研究協力者”として登録されます」
「……共同、研究?」
「はい。ユベル先生の“再構築術式”と、
風暦院で研究している風系術式・魔道具との比較研究、という扱いですね」
言葉だけ聞くと、難しいことをしているように聞こえる。
アルスは、少しだけ肩をこわばらせた。
「その……僕は、何をすれば……?」
「難しいことは、すべてエルネ・アルセリオ教授が考えてくださいます」
事務官は、ふっと笑った。
「アルスさんにお願いするのは、
“普段どおり”ユベル先生の魔法を使っていただくこと――それだけです」
アルスは、胸の奥で固まっていたものが、少しほどけるのを感じた。
「それから」
事務官は、別の紙を取り出す。
「アルスさんは、正規生徒としてではなく、
**研究協力枠として学院に出入りすることになります」
「学籍は付与されませんが、その代わり――」
事務官は指で項目をなぞりながら説明を続ける。
「研究棟と資料室への出入り。
必要に応じた講義の聴講。
魔道具工房の利用。
これらは、担当教授の許可のもとで自由に行えます」
「……美味しいとこ取りじゃん」
ミーナがぼそっと言う。
「ずるい」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
アルスは慌てて手を振る。
事務官は、おかしそうに目を細めた。
「通常の課題や試験からは解放されている、とも言えますね。
そのぶん、研究室のお手伝いが増えるかもしれませんが」
「お手伝い……」
(リュマのみたい)
アルスは、遠い部屋の光景を思い出した。
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
「ひとつ、訂正があります」
事務官が言った。
「本来であれば、学長のユーリカ・フェンロウが、
直接ご挨拶する予定だったのですが――」
「――いないんでしょ?」
ミーナが先に言った。
「どうせ塔のてっぺんか、どこかでさぼってるから」
「ミーナ」
エルドが軽くたしなめる。
事務官は苦笑しながら頷いた。
「現在、風読み塔の視察に出ておりまして。
戻りは明日以降になる見込みです」
「視察ねぇ……」
ミーナの声は小さかったが、アルスにははっきり聞こえた。
「その代わりと言ってはなんですが、
エルネ=アルセリオ教授から伝言があります」
「父さん?」
ミーナが顔を上げる。
「はい。――“明日の午前、研究棟の実験室までアルス君を連れてきてほしい”と」
アルスの胸が、どくんと脈打った。
「何を……するんですか?」
「ユベル先生の魔法を、一度こちらで拝見したいそうです」
事務官は、淡々と言葉を選びながら続ける。
「風の国の環境なら、どんなことに使えそうなのか。
それから、今後の研究を進めるうえでの“基準”を決めるために」
「……難しいことは、全部父さんが考えるから」
ミーナが、少しだけ照れくさそうに笑う。
「アルスは、いつも通りやればいいんだよ」
「“いつも通り”……」
いちばん難しい言葉かもしれない。
それでも、アルスは小さく頷いた。
「……やってみます」
「ありがとうございます」
事務官は丁寧に一礼した。
「では、明日の午前、研究棟の受付にお越しください。
エルネ教授のお部屋までは、誰かが案内いたします」
「私が行くよ」
ミーナがすぐに手を上げる。
「アルス、宿から一緒に行こ。迷うから」
「迷うんだ……?」
「父さんの研究室、分かりにくいの。
“ここ、ほんとに人が居るの?”って場所にあるから」
アルスは苦笑し、事務官は、また少しだけ笑った。




