第20話
風の塔が、ゆっくりと近づいてきた。
何本もの細い塔が、海の上から突き出している。
頂上には、大きな羽根車。
空を切るというより、風を受けて、静かに回っていた。
船が情脈帯の内側を滑るように進むにつれ、
塔の根元――その下に広がる“街”が、少しずつ形を持ちはじめる。
(……あれが、ゼフィルネスト)
アルスは手すりを握ったまま、目を凝らした。
島は低い。
だが、海のぎりぎりまで石造りの街がせり出している。
円を描くように湾が開き、
その縁をなぞるように、白い建物が並んでいた。
屋根は平たく、布がかかっている。
布は帆のようでいて、ところどころを吊り上げられ、
風を受けてふわりと膨らんでいた。
湾の入り口には、二本の塔が向かい合って立っている。
塔のあいだに渡された細い輪。
そこに取り付けられた数えきれないほどの羽根車が、
くるくると回りながら、風をひとつの“門”の形にしていた。
「すご……」
アルスの声が、自然と漏れる。
帆を通り抜けてきた風が、
今度は塔と布と羽根車を撫でて、街のほうへ流れていく。
その全部が、ひとつの“巣”に集められているようだった。
「あれが“風の門”だよ、アルス」
「首都の門……」
隣でミーナが、胸を張る。
「ちゃんと風が集まってないと、港に入れてもらえないの。
ほら、今、塔のてっぺんの旗が揃ってるでしょ」
見上げると、両側の塔の先端で、
細い旗が同じ方向になびいていた。
「風、機嫌いいな」
エルドが短く言う。
「ガルド、楽なほうだぞ」
「聞こえてる」
ガルドは笑いもせずに言い、舵輪をわずかに切った。
船は、風の門の真ん中へと滑り込んでいく。
塔の間を抜けた瞬間――
空気の感触が変わった。
さっきまでただ押してくるだけだった風が、
今は、街へ向けて“誘う”ように流れている。
アルスは頬を撫でる温度の変化に、思わず息を吸い込んだ。
◆
港は、思っていたよりも高かった。
湾の内側の石壁には、階段のような段差がいくつも刻まれている。
そこに桟橋が差し込まれ、大小さまざまな船が横付けされていた。
壁の途中には、いくつもの“風灯籠”が並んでいる。
細い柱の上に、透明な魔石の器。
その下には、小さな羽根車が取り付けられていた。
風が通るたび、羽根車が回り――
魔石がふっと淡く光る。
強く吹けば、光は少しだけ強く。
弱ければ、かすかな灯り。
昼間なので、光は目立たない。
それでも、港全体が息をするように瞬いて見えた。
「風灯籠だ」
ミーナが指さす。
「夜見ると、もっと綺麗なんだよ。
風が強いときは、道が全部光るの」
「全部……?」
「うん。風道、まるごと」
アルスは言葉を失い、ひとつひとつの灯りを目で追った。
風灯籠は、港から街の奥へ続く階段にも並んでいる。
上へ行くほど数が増え、
その先に、布の屋根と塔の影が重なっていた。
近づくにつれ、別の音も聞こえてくる。
港の入り口近く、石造りの欄干に取り付けられた細い筒。
そこに風が入り、低い音から高い音まで、糸のように連なって鳴っていた。
笛とも、風鈴とも違う。
細い管が風をなぞるだけの、静かな音。
「風鈴路だな」
エルドが言う。
「風が通ると勝手に鳴る。
港の門が“開いてる”かどうか、音で分かるんだ」
アルスは耳を澄ませる。
いくつもの音が重なっているのに、うるさいとは感じなかった。
船の揺れとは別のところで、
街の“呼吸”だけが、規則正しく続いているように思えた。
「前方、空き桟橋あり!」
見張りの声が落ちる。
「了解、右へ三度」
ガルドが舵輪を切る。
船が、石壁に沿ってゆっくりと回り込んでいく。
「風輪、速度落とせ」
「よーそろ!」
船員が風輪の羽根を押さえ、
金属の回転音が、少しだけ穏やかになる。
やがて――
船体が石壁ぎりぎりで止まり、鈍い音とともに緩衝具がぶつかった。
「よし、着いた!」
ガルドの声が港に広がる。
船と岸を繋ぐ縄が、次々と投げられた。
◆
「――ようこそ、ゼフィルネストへ!」
船を降りると、最初に飛び込んできたのは、人の声だった。
港の石畳の上には、人、人、人。
荷車を押す者。
樽を転がす者。
書類を抱えた役人らしき人。
風見旗を振りながら、船の出入りを指示する者。
みんな、よく動く。
服は薄い布を何枚か重ねたものが多い。
袖や裾が少し長く、その先に細い紐や飾り布が付いている。
風が吹くたび、それらがふわりと浮き、
歩くたび、ちらちらと揺れていた。
アルスは思わず足を止める。
(……動いてる)
人も、布も、旗も、灯りも。
港にあるものはすべて、風といっしょに揺れていた。
「止まるな、アルス」
エルドが肩を軽く押す。
「ここで固まってると、すぐ荷車に轢かれる」
「あ、うん」
ちょうどその言葉のとおり、すぐ前を、
大きな羽根車を付けた荷車が横切っていった。
車輪の横に、風を受けるための布が張られている。
港の風を掴み、ゆっくりと前へ押し出されていた。
荷車を押している男は、ほとんど力を入れていないように見える。
手で方向を支えているだけで、荷車は勝手に進んでいく。
「わー、また新しい型だ」
ミーナが、荷車の後ろ姿を目で追った。
「布の貼り方が変わってる。
あれ絶対、誰か試してるなぁ」
「事故る前に止められりゃいいがな」
エルドは淡々と言う。
「前、前」
「はーい」
ミーナは答えながらも、視線だけはあちこち飛ばしていた。
◆
港から街へ続く階段は、思ったより緩やかだった。
一段一段は低いが、その代わりに幅が広い。
人だけでなく、小さな荷車もいっしょに上れるようになっている。
両側の壁には、風灯籠と、風笛の管が交互に取り付けられている。
上へ行くほど、音が増え、布の色も増えていった。
「……上から風が降りてきてる」
アルスは、頬をかすめる感触に気づく。
港では横から吹いていた風が、
今は階段の上から、柔らかく降りてくるように感じられた。
「ここは“下の巣”だからね」
ミーナが言う。
「風の塔から落ちてきた風が、
いったんここで集まって、また街の中に流れてくの」
「塔から……」
「ほら、上見て」
言われて見上げると、街のずっと高いところに、
また別の羽根車が回っているのが見えた。
塔は一つではない。
港の上、街の真ん中、そのまた奥。
何本もの塔が、違う高さで風を受けていた。
アルスは首が痛くなるのも構わず、じっとそれを見つめた。
(全部……風のためにあるんだ)
アルベスの塔は、魔法や情報のために高くそびえていた。
ここでは、風のために塔が建っている。
それだけの違いなのに、街の空気はまるで別物に感じられた。
◆
階段を上りきると、視界が一気に開けた。
前方に、円を描く広場。
真ん中には大きな噴水――ではなく、
半円形の石枠の中で、風が渦になっていた。
水はない。
その代わり、透明な布のようなものが何枚も吊られており、
風を受けて、渦と同じ方向に靡いている。
布には細かな魔石片が縫い込まれていて、
揺れるたび、光がちらちらと跳ねた。
「ここが“風中庭”」
ミーナが両手を広げる。
「港のひとつ上の広場。
風の調子をここでまとめて、街の奥に流してるの」
広場の縁には、大小の店が並んでいた。
風で回る看板。
風で開くドア。
風を通すと音を出す布。
あちこちから、誰かの笑い声と、
軽い呼び込みの声が聞こえてくる。
「……にぎやかだな」
エルドが小さく言う。
「静かなのは、さっきまでだけだ」
「こっちのほうがいい」
ミーナはけろっとしている。
「ねぇアルス、あれ見て」
ミーナが指さした先には、
風で動く楽器店があった。
店の軒先に吊るされた弦と管。
風が通り抜けるたび、短い音がいくつも跳ねる。
店の中では、細い板に魔石を埋め込んだ“風箒”が並んでいた。
柄の部分には、小さな羽根車と符が刻まれている。
「箒?」
「あの箒、浮くんだよ。
あれで飛ぶのは上級者だけ。
普通は荷物運んだり、屋根の掃除したりするのに使うやつ」
ミーナは楽しそうに説明する。
「風暦院にも置いてあるよ。
講堂の天井掃除するために」
「え、それはちょっと見たいかも」
アルスが言うと、ミーナは「でしょ」と笑った。
◆
「さて」
エルドが、ふたりの会話を区切るように声を出した。
「まずは、宿だ」
「学院じゃなくて?」
「荷物背負ったまま挨拶に行くやつはいない」
エルドは淡々と答える。
「それに、向こうもすぐには対応できん。
連絡は入れてある。今日中に顔を出せば十分だ」
「ふーん。じゃあさ――」
ミーナがアルスのほうを見る。
「宿、風中庭の近くがいいよね?」
「どうして?」
「港にも学院にも行きやすいから。
あと、風鈴うるさいけど、慣れるとよく眠れる」
「うるさいの?」
「うるさい」
即答だった。
アルスは思わず笑い、
エルドも、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、その“うるさい宿”を頼む」
「任せて!」
ミーナは胸を叩き、広場の一角へと歩き出した。
アルスは、その背中を追いながら、もう一度振り返る。
港。
階段。
風灯籠。
風中庭。
そこを通ってきた風が、今も背中を押している。
(着いたんだ)
遠くの塔の羽根が、陽の光を受けてゆっくり回っていた。
風の国の首都、ゼフィルネスト。
アルスは、紐を握る手にそっと力を込め、
その名を心の中で静かに繰り返した。




