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造物のアルス  作者: おのい えな


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第2話

 朝は、いつもより静かだった。


 小屋の屋根に積もった雪が、音もなくずるりと落ちる気配だけがある。

 外の世界は一面の白に覆われ、その向こう側に何かが存在しているのかさえ曖昧なほどだった。


 アルスは炉の火を見つめながら、ユベルが起きてくるのを待っていた。


 火は昨夜から絶やしていない。魔石の粉と薪の組み合わせで、この小屋の暖かさはかろうじて保たれている。


 いつもならそろそろ、奥の部屋の扉の軋む音がして、短い咳払いとともにユベルが出てくる時間だ。


 だが、その気配がない。


 咳も、床板を踏む音も、杖が木を叩く乾いた音も。


「……ユベル?」


 アルスは小さく首を傾げた。


 呼びかけても返事はない。いつもなら、多少間があっても、かすれた声で「今行く」と返ってくる。


 今日は、それさえなかった。


 炉の火がぱちりと弾ける。その音が妙に大きく聞こえた。


 アルスは立ち上がり、奥の部屋の扉に手をかける。


 古い木の扉が、ゆっくりと小さな音を立てて開いた。


 そこには、寝台に横たわったユベルの姿があった。


 いつもと変わらないように見えた。深い皺も、白い髭も、毛布からのぞく痩せた手も。

 冬の朝は冷えるからと、厚手の毛布を二重にかけたのも昨日と同じだ。


 ただ――その胸だけが、まったく動いていなかった。


「ユベル……?」


 アルスはそっと近づいた。


 足音が、やけに大きく響く。自分の呼吸だけが、この部屋の音になっていた。


 寝台のそばに立ち、ユベルの顔を覗き込む。


 目は閉じている。眠っているときと同じように。


 ただ、その静けさがどこか違っていた。


「ユベル」


 呼びかける。返事はない。


 アルスは少し迷ってから、ユベルの肩にそっと手を伸ばした。


 指先に触れた感触は、冷たかった。外の雪と同じ冷たさだった。


 アルスは一度手を引っ込め、もう一度触れた。二度目も、やはり同じ冷たさだった。


「起きて」


 いつもなら、ここでユベルが咳き込みながら身を起こし、「年寄りは朝がつらい」と冗談めかして言う。


 今日は、何も起こらない。


 体を少し揺らしてみる。名前を呼ぶ。毛布を引いてみる。袖をつまんで軽く引く。


「……――」


 喉の奥がうまく動かない。声が震えている理由が分からない。


 目の前にユベルがいる。呼べば届く距離にいる。


 なのに――とても遠くに行ってしまったように感じる。


 胸の奥で、小さく締め付けるような“痛いもの”が生まれた。


 その痛みは、火に手を近づけすぎたときの感覚とも、指を切ったときの感覚とも違う。


「いたい」


 アルスは胸に手を当てた。


 心臓の鼓動は、いつもより強く、速く打っている。

 そのくせ、体の中身が空っぽになったような気もする。


 “痛み”という名の感情を知らない。


 ただ、息が苦しくなるこの感覚を、どう扱えばいいのか分からなかった。


 ◆


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 炉の音も、外の雪の気配も、すべて遠くに追いやられたような時間のあとで、アルスはふと寝台の横に小さな紙片が置かれていることに気づいた。


 机の上ではない。棚の上でもない。

 まるで、アルスの目に入ることだけを考えたかのような位置に、それはあった。


 震える指で、アルスはゆっくりとそれを手に取った。


 そこには、見慣れた字があった。


 ――アルスへ。


 字は大きく震えていた。けれど、ひとつひとつの線には、確かな迷いのなさが宿っていた。


 アルスは、いつも文字ががびっしりと書かれた紙ばかり見ていたが、自分の名前が一行目に書かれている紙を見るのは、これが初めてかもしれないと思った。


 文字をほとんど読めないので、時間をかけて読み進める。


 ――外へ行きなさい。

 見たことのないものを見て、 聞いたことのない声を聞き、 触れたことのない心に触れなさい。


 アルスはそこで一度、息を飲んだ。


 紙を持つ手が小さく震える。けれど、目は文字から離せない。


 ――お前はこれからたくさんのことを学ばなければならない。


 「山を下りなさい」と言われたときの、ユベルの声と影が、そのまま紙の上に残っているようだった。


 紙の端には、さらに短い文が続いていた。


 ――我が息子”アルス=ローデン”。

 そして許させることではないが、すまない。


 アルスの指が、そこで止まった。


「……すまない?」


 アルスはユベルがなぜ謝ったのか、理解はできなかった。


 それよりも「息子」という一言が、まるであたたかい光を胸に落とした。


 ユベルの時間の中に、自分がいたのだということ。


 それをアルスは、うまく理解しきれないまま、ただ強く握りしめた。


 ◆


 アルスは静かに寝台の横に膝をついた。


 ユベルの冷たい手を両手で包む。その手は、もう握り返してはくれない。


 それでも、何度も世話をされてきた手の感触だけは、まだそこに残っていた。


「ユベル……」


 声が掠れた。


 胸の痛みは、さらに深く刺さるように広がっていく。


 呼吸をするたびに、胸の内側がきしむようだった。


 涙は流れなかった。


 泣くという行動を知らないから。


 喉の奥は熱く、目の奥も重かったが、水が零れるという発想は、アルスにはまだない。


 けれど、胸の奥が熱くて苦しい。

 それでも、言葉だけはしっかりと出た。


「……いたい」


 寝台の上のユベルは動かず、外ではただ、雪が降り続けているだけだった。


 音のない世界で、アルスは初めて“喪失”という感情の入り口に足を踏み入れていた。


 ◆


 その後に何をするべきか、アルスはすぐには思いつかなかった。


 けれど、小屋の中に置かれたものたちが、わずかにその順番を教えてくれていた。


 ユベルが使っていたコート。杖。厚手の手袋。乾いた薬草。魔石の瓶。


 何ひとつ、ユベルの手には戻らない。


 アルスは、ひとつひとつに視線を滑らせた。


 まず、ユベルを“外に出さなければならない”と、なぜか思った。


 寝台のままでは駄目な気がした。


 アルスは毛布を整え、その上からユベルの体をそっと包んだ。

 肩にかかる布の皺を伸ばす。


 眠っているときと同じように見えるよう、何度も直した。


 外に出ると、冷たい空気が一気に頬を打った。


 小屋の裏手には、少しだけ土が露出している場所がある。

 いつかユベルが「ここは土が柔らかい」と呟いていたのを思い出した。


 アルスはそこまでユベルを運んだ。


 体は軽かった。驚くほど。


 アルスには、その軽さが“死だから”なのか、

 それともただ自分の感覚が未熟だからなのか、判断できなかった。


 ◆


 地面を掘る作業は、想像していた以上に大変だった。


 土の表面は凍っていて、シャベルを突き立てても簡単には崩れてくれない。


 アルスは何度か手を滑らせ、指先を土で擦りむいた。

 じわりと遅れて、ひりつく感覚が指に広がる。


「……またいたい」


 小さく呟く。


 その言葉を口にしたところで、痛みが減るわけではない。


 けれど、ユベルが教えてくれた通りに、今の状態を言葉にしてみた。


 それは不思議と、このあまりにも静かな朝の中で、自分がまだ“生きている”という証のようにも思えた。


 どれほど時間がかかったか分からない。


 ようやく、ユベルを横たえられるだけの穴ができた。


 アルスは毛布に包まれた体をそっと下ろす。


「ありがとう……ユベル」


 その言葉が正しいのかも分からなかった。


 けれど、言わなければならない気がした。

 そうしないと、何か大事なものが、この場から零れ落ちてしまうような気がした。


 土を戻していく。雪混じりの土が、静かにユベルの上に降り積もる。


 一掬いごとに、胸の奥がまたきしんだ。


 ◆


 埋葬を終えると、アルスの手は小さく震えていた。


 冷たさのせいではない。額には汗が滲んでいる。


 息を整えながら、アルスはしばらく、その盛り上がった土を見つめていた。


 風が少しだけ吹いた。雪が舞い上がり、土の上に薄く降り積もる。


 それは、長い時間をかけて積もった皺の代わりのようにも見えた。


「……行きます」


 アルスはそう呟いた。


 誰に向けて言ったのか、自分でもよく分からない。

 ユベルか。自分自身か。それとも、この山そのものにか。


 けれど、その声はとても小さく、それでも確かに“自分の意思”が宿っていた。


 ◆


 小屋に戻ると、そこはもう、別の場所のように感じられた。


 同じ机。同じ椅子。同じ本。同じ瓶。


 なのに、そこに座るべき人間がいないだけで、世界のかたちが少し傾いてしまったようだった。


 アルスは小さな荷物をまとめた。


 着替え。少しの食料。簡単な道具。

 ユベルが調整してくれた、まだ体に少し大きいコート。


 そして、机の引き出しの奥に大事にしまわれていた封筒――あの日渡された手紙。


 アルスはそれを荷物の一番上に置いた。


「……行ってきます」


 もう一度、同じ言葉を口にする。


 扉をそっと閉じる。長く住んだ小屋が、まるで静かに見送ってくれているようだった。


 振り返ることはしなかった。


 もし振り返れば、足が止まってしまうような気がしたからだ。


 アルスは、初めて山を下りはじめた。


 まだ世界を知らず、心の色も、名前も知らないまま。


 けれどその背中には、ユベルの最後の言葉が静かに灯っていた。


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