第19話
ガルドの声が落ちたあとも、海は静まり返っていた。
風はほとんどない。
帆はたるみ、風見板も動かない。
けれど――
甲板のどこかで、見えない何かがきしんだ。
アルスは、足の裏から伝わる違和感に気づく。
(……揺れてないのに)
船が、かすかに“前へ寄っていく”。
押されているのか、引かれているのか分からない。
だが、真下の海ではない“どこか”から力が加わっているのを、皮膚の奥が教えていた。
「……よし」
ガルドが小さく呟いた。
「前方、注意。風輪が回りはじめるぞ」
その声とほぼ同時に、船体の側面から
しゃらり、と金属の擦れる音がした。
船の左右に並ぶ輪。
風を整えるための金属の輪が、
ゆっくりと、だが確かに回転を始める。
羽根のひとつが震え、
それに引きずられるように、隣の羽根も動き出す。
甲板の空気が、ごく薄く“流れ”の形をとった。
ガルドは舵輪から視線を外さないまま、短く命じる。
「風核を起こせ」
「了解!」
甲板の中央近くで、船員が二人、固定具を外す。
板が持ち上げられ、船内から冷たい風の匂いが漏れた。
ごん、と金属の軸が回りはじめる音。
発条を巻き上げる、重たい鎖のきしみ。
船底の奥で、何かが目を覚ましていく。
(船の下から、風の匂いがする)
実際には、甲板に風は吹いていない。
それでも、木を通して上がってくる“冷たい気配”だけが、
風のマナが集まっていると告げていた。
「エルド」
ガルドが短く呼ぶ。
「風がまだ緩い、少し手を貸せ」
「ああ」
エルドは舷側から一歩前へ出る。
動きに無駄はない。
ただ、右手を静かに甲板の上へ差し出した。
耳元の小さな魔石が、淡く光る。
光というより、“揺らぎ”が浮かび上がる。
その瞬間――
空気の層が、薄く、輪を描いた。
甲板の上、膝の高さほどのところに、
誰にも触れられていない水面のような“ゆがみ”が走る。
風の筋が、一本だけ引き出される。
エルドの指先から伸びた細い揺らぎが、
足元へ、船の内部へと沈んでいく。
船底で回りはじめていた風魔石の発条が、
それを受け取るように低く唸った。
ご、と音が変わる。
巻き上げられていた力に、
風のマナが流れ込んだのだと、アルスにも分かった。
エルドの表情は変わらない。
ただ、ほんの少しだけ息を吐く。
「ガルド!」
その言葉が合図のように響く。
ガルドが、今度は甲板全体に響く声で叫んだ。
「野郎ども――」
舵輪を握りしめたまま、胸いっぱいに息を吸い込む。
「帆を張れッ!!」
「おうっ!」
張りつめていた空気が、一気に動き出した。
船員たちがロープを掴み、一斉に引く。
たるんでいた帆が、まず形を取り戻し――
次の瞬間。
見えない風が、帆を内側から叩いた。
どん、と船体が前へ押し出される。
甲板の板が低くうなり、マストの根元がきしんだ。
「っ……!」
アルスは思わず手すりにしがみつく。
さっきまで、静止していた世界が嘘みたいだった。
帆が膨らむ音。
ロープの軋み。
風輪の羽根が、速さを増して回る。
耳の奥に、やっと“風の音”が戻ってきた。
「掴みました!」
「よし、そのまま流れに乗せろ!」
船員たちとガルドの声が交錯する。
海面はまだ大きくは乱れていない。
だが、船の影だけが、目に見えて前へと滑り始めていた。
アルスの頬を、風が打つ。
今度の風は、さっきまで感じていた細い糸とは違う。
広がりを持った、確かな“流れ”だった。
(……抜ける)
◆
風は、少しずつ強くなっていった。
甲板の空気は、もう静けさとは別のものに変わっている。
船員たちの声も、いつもの調子を取り戻しつつあった。
「風見板、右に一目盛り!」
「了解! そのまま保て!」
ガルドは舵輪に身を預けたまま、風見板の角度と波の筋を一つひとつ確かめていた。
「エルド、どうだ」
「……問題ない」
エルドは目を閉じ、風を聞いていた。
音にならない音。
帆の裏を走る空気の揺れ。
金属の輪を撫でていく微かな変化。
それらすべてを、耳と魔石と皮膚で測っている。
アルスは、その横顔をちらりと見た。
昨日、喉に槍を突きつけてきた戦士と同じ人物とは思えないほど、
今のエルドは静かだった。
ただ、風と船の間に立っている。
「アルス。感じるか?」
「うん。着いたんだね」
さっきまで“壁”だった場所が、
今は“内側”への入り口になっている。
その境目を、たったいま越えたのだと、自分の皮膚が教えていた。
ミーナが、甲板の中央でくるりと一回転した。
「ふぅ――……気持ちいー」
頬に当たる風を両手で受け止めるようにしながら、
大きく伸びをする。
「ね、アルス! なんか空気変わったでしょ!」
「そうだね」
「それそれ!」
ミーナは満足そうに笑った。
「ここまで来れば、あとは真っ直ぐ情脈帯……内帯を進むだけ。
風の国までもう少し!」
◆
風が戻ると、海の色も変わった。
さっきまで鏡のようだった海面に、
細かいさざ波が走る。
その一つひとつが光を砕き、
水面を走る線が、見る間に増えていく。
風くらげたちも、少しずつ散り始めていた。
さっきまでは、同じ方向へ流されていたはずなのに――
今は情脈の流れから外れて、浅いほうへと離れていく。
漂鱗魚の光も減り、代わりに普通の魚影が増えていく。
風のない世界の“静かさ”が、
少しずつ“にぎやかさ”に変わっていくのが分かった。
「鳥も戻ってきたな」
エルドが空を指さす。
ヘイメリア帯の境目で引き返していた鳥たちが、
今は船の頭上を横切っていく。
風を受けて翼をたわませ、
帆の上をなぞるように飛んでいく白い影。
「……全部、こっちに集まってくるんだ」
アルスは呟いた。
「風も、生き物も、全部」
「だから“巣”だよ」
ミーナが笑う。
「風の巣域。風が生まれて、ぐるぐる回ってる場所。
――その真ん中が首都」
アルスは、ミーナの後ろ姿ごしに前方を見つめた。
遠く、水平線のあたりに、
うっすらとした影が浮かび上がっている。
最初は雲かと思った。
だが、見ているうちに、その影は少しずつ形を持ち始める。
海の上に、いくつも突き出した細い塔。
その周りを囲むように、低い陸地の線。
(……島だ)
そう理解したとき――
ミーナが、誰よりも先に叫んだ。
「見えた! アルス、見て!」
ミーナの指先の少し先。
白く光る波の向こうに、
風車のような装置を抱えた塔が、何本も立っていた。
遠すぎて細部は見えない。
だが、頂上で大きな羽根がゆっくり回っているのだけは分かった。
風を読むための塔。
風の国を囲む、最初の“門”。
「前方、内帯の外縁島!」
見張りの声が上がる。
船員たちの顔に、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「ここまで来れば、ひとまず一安心だな」
誰かがぽつりと言い、
別の誰かが小さく笑う。
ガルドは、それでも表情を崩さない。
ただ、舵輪から片手を離し、耳の魔石を軽く弾いた。
「――まっ、俺がいれば当たり前だな」
その言葉は、大声ではなかった。
しかし、甲板の上の全員に届いた。
アルスは、胸の中で何かがほどけるのを感じる。
ヘイメリアの静けさ。
風のない海。
奇妙な生き物たち。
すべてを抜けて、今――
風の国の入口に立っている。
ミーナが、船縁から身を乗り出して笑った。
「ようこそ、ファルセリアへ! アルス!」
風が、その声を前へ運んでいった。
アルスは、強く紐を握り直す。
彼の目の先には、風の塔と島々。
そのさらに奥に――
風の国の首都、ゼフィルネストがある。




