第18話
ミーナは昨日より少しだけ顔色が戻り、
船縁に片肘を預けて、つま先で甲板をこつこつと鳴らしていた。
足裏で、船の“流れ方”を確かめているようだった。
「あのさ、アルス」
「うん?」
ミーナはにやりと笑い、甲板を指さす。
「分かる? さっきより速くなってきてる」
「……速く?」
「ほら、揺れてないのに、足だけ前に運ばれてく感じしない?
床がスーッて後ろに流れてくやつ」
言われてみれば、さっきよりも甲板の木目が、
ゆっくり――だけど、はっきりした速さで後ろへ流れている。
「……本当だ。さっきより、分かりやすい」
「でしょ」
ミーナは得意げに胸を張った。
「風の国が近づくとね、“風の線”が太くなるんだよ。
島の中のでっかい魔石同士が、ぐーって手つないでるみたいなやつ」
「風の……線」
「うん。ちゃんと乗れてると、こうやって勝手に進んでくれるの。
何回通っても、この“滑ってく感じ”だけは慣れないけどさ」
そう言いながら、ミーナは少し意地悪そうに笑う。
「アルス、まだちょっと不思議そうな顔してる。
――ほら、ここからもう少し速くなるよ」
ミーナは、にやりと笑ったまま、今度は前方を顎でしゃくった。
「……ね、アルス」
「うん?」
「ここ抜けて、風の国着いたらさ。アルスは何が一番見たい?」
唐突な問いに、アルスは少しだけ考えてから口を開いた。
「魔道具、かな」
「魔道具?」
「うん。港の装置とか、街で使ってる道具とか……。
風で動くものを、ちゃんと見てみたい。
どうやって作ってるのかとか……知りたい」
ミーナは「やっぱり」と言いたげに、ぱっと笑顔になる。
「いいねそれ! 港だけでも一日遊べるよ。
荷物運ぶやつとか、風ためて鳴らす笛とか、
意味分かんないのが山ほどあるから」
「意味分かんない?」
「こんなの作って意味あるの?みたいなやつ。
まあ、見たほうが早いって。説明しても絶対伝わんないやつだからさ」
ミーナは楽しそうに肩を揺らした。
「風の国はね、アルベスよりおかしな奴がいっぱいいるんだよ」
アルスは、胸の奥が少し熱くなるのを感じる。
(風で動く道具が、たくさんある街……)
本の中でしか知らなかった“風の国”が、
少しずつ、目の前の海の向こうに形を持ちはじめていた。
「風暦院にもたくさん魔道具あるのかな?」
ミーナはニヤリと笑う。
「――そりゃもう、たくさん」
アルスもつられて、同じ表情になる。
◆
海面を見下ろすと、風くらげの群れがいた。
昨日はそれぞれが勝手に漂っていたのに、今日は――
すべてが“同じ方向”へ、ゆっくりと身体を傾けて流されていた。
薄い体の中央にある核が、一定の周期で明滅する。
膨らむたび、水がほのかに光り、その光が進行方向へと細く連なっていく。
静かな海の中に、細い光の筋がいくつも浮かび上がっているようだった。
「……きれいね」
ミーナの声が自然と小さくなる。
「そうだな」
後ろからエルドが答えた。
「流れが変われば、あいつらも流される。
一番先に“線”に引っかかるからな」
「流れ……?」
「見えない“筋”みたいなもんだ」
エルドは海をじっと見つめたまま言う。
漂鱗魚の鱗も、今日は違った。
昨日は好き勝手に浮かんでいた光の粒が――
今は細い線を描くように、ひとつの方向へ舞っていく。
ふわりと水中から浮かび上がった鱗が、
空気の中で光に変わり、そのまま筋の方向へ薄く伸びていく。
まるで、海の生き物全部が“道”を知っているかのように。
「……みんな、同じ方向だね」
アルスが思わず口にする。
風くらげの光の列。
漂鱗魚の鱗の筋。
すべてが指し示す先と、船の向きが静かに重なっていた。
エルドが、短く言う。
「この“筋”が正解ってことさ」
「すごいんですね。ガルドさん」
「ああ。外してるのを見たことねぇ」
エルドの声は、どこか当然のことを確認するように淡々としていた。
アルスは喉を鳴らす。
(……さすが、船長)
自分たちの船もまた、同じ“線”に乗って流されている。
そんな確信だけが、静かに胸の奥で形を取っていった。
◆
そのときだった。
頬を、かすかな風が撫でた。
「……っ」
昨日より、はっきりしている。
一瞬だけ。
細い糸が肌を沿っていくような、冷たくて柔らかい感触。
アルスは思わず、進行方向を見つめた。
空は薄く曇り、帆は少しも動かない。
海は鏡のまま、ゆっくりと光を返している。
なのに。
(今の……確かに風だった)
胸の内側だけが、ふっと揺れた気がした。
耳の奥で、さっき聞いた笛のような細い音が、
もう一度だけ鳴った気がする。
アルスは、胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
「アルス?」
隣でミーナが首をかしげる。
「……どうしたの?」
「……今、風が」
そこで言葉が途切れる。
自分でも、上手く説明できない。
エルドが横目でアルスを見る。
「……感じたのか」
「うん。気のせいじゃ、ないと思う」
アルスは自分の頬に触れてみる。
指先には、もう何も残っていない。
ただ、皮膚の奥にだけ、風の名残のような冷えがある。
エルドは短く、息のような声を漏らした。
「お前、風に好かれてるな」
「え……?」
理由は分からない。
けれど、嫌な感じではなかった。
◆
その瞬間だった。
帆の端が、かすかに震えた。
「……!」
風が吹いたわけではない。
海が急に荒れたわけでもない。
けれど、布がほんの一瞬だけ、指先で触れられたように揺れた。
ピン、と糸が鳴るような感覚が、甲板の空気を走る。
船体が、ごくわずかに前へ押される。
足裏から伝わる圧が変わった。
今までただ“引かれていた”感覚が、
少しだけ“押し出される”方向へ傾いた。
「……今の」
アルスがつぶやくより早く、
それを感じ取ったように、
ガルドが舵輪に置いた手をぎゅっと引き寄せた。
その横顔からは、いつもの笑みが消えている。
真っすぐ前だけを見据えた、船長の顔だった。
甲板の空気が、ひとつにまとまる。
船員たちが、ほとんど同時に息を呑んだ気配がした。
誰も「今のを感じたか」とは言わない。
言葉にする必要がないからだ。
ミーナも、無意識にアルスの袖をつまんでいた。
揺れはないのに、胸の奥だけがざわついている。
ガルドは視線を前に向けたまま、短く言った。
「……来るぞ」
その一言だけで、船全体が静かに息を呑んだ。
風のほとんど動かない世界のまま――
世界がほんの少し、
目には見えないところで、揺れ始めていた。




