第17話
海が、変わっていた。
さっきまで、風に刻まれていた波は、どこにもなかった。
海面は、鏡のようにつるりとしている。
船の影が、そのまま濃い黒として水面に浮かんでいた。
揺れない。
砕けない。
ただ、そこに“沈んでいる”。
「……うわ」
ミーナが思わず声を漏らす。
その声さえ、どこかで吸い込まれてしまったように、すぐに薄くなった。
空は晴れている。
雲もある。
日差しも強い。
なのに、光の落ち方が違って見えた。
海の青が、少しだけ深すぎる。
空の色も、どこか掠れたように、重く見える。
アルスは手すりから身を乗り出し、海面を覗き込んだ。
そこには、光の層があった。
通常の海なら、波が光を砕いてしまう。
今はそうならない。
上から差し込んだ光が、幾重にも重なりながら、ゆっくりと上下に揺れている。
(……下からも、光ってるみたいだ)
錯覚かもしれない。
だが、海の底のほうからも、淡い光が湧き上がっているように見えた。
「あ、出た。風くらげ」
ミーナが、少しだけほっとした声で指さした。
海の中に、半透明の丸い影が浮かんでいる。
クラゲに似ている。
だが、どこか違った。
薄い体の真ん中に、渦のような“核”があった。
水の流れというより、風の渦に似ている。
ゆらり、と膨らみ、しぼむ。
まるで息を吸ったり吐いたりしているみたいだ。
膨らんだ瞬間、核の周囲で水がきらりと光る。
その光は、音も立てずに広がっていく。
「……風くらげ?」
アルスが小さく繰り返す。
「ああ。さっき言っただろ」
エルドが答える。
「ここら一帯にいる。
風がほとんど動かない場所で漂う、変なクラゲだ」
「ちょっと、好きじゃない……」
ミーナが顔をしかめる。
「見てる分には綺麗なんだけどさ。
なんか、うわって感じ」
「まあ、近くで見ると気分が悪くなるやつはいるな」
エルドは肩をすくめた。
風くらげは、船の影にふわりと寄ってくる。
影の濃さに惹かれるように、ゆっくりと動く。
海面には、甲板の上にいる三人のシルエットまで、くっきり映っていた。
アルスは思わず、手を伸ばしかける。
「やめとけ」
エルドが、静かに肩を押さえる。
「別に噛みついたりはしねぇが、
流れの感覚がおかしくなる」
「流れ……」
「風も潮も、ほとんど動かねぇ場所で生きてるからな。
“外”の揺れに触れると、頭の中がちょっとずれる」
「……ミーナ、触ったことあるの?」
「ある。めちゃくちゃ気持ち悪かった」
即答だった。
「一回触ったら、しばらく船の揺れが変なふうに感じるし、
なんか、地面が遠い感じがするの。二度と触らなーい」
ミーナは小さく身を震わせる。
風くらげの向こうで、小さな光が弾けた。
細長い影が、水中をゆっくりと横切っていく。
鱗が、ひとつ、ふわりと浮かび上がった。
「あ」
鱗は、水面を割らなかった。
水の中から抜け出したはずなのに、薄い光の粒となって
空気の中へ浮かび上がる。
陽光を受けて小さく光り、
ゆらゆら揺れながら――やがて、霧のように消えた。
「ひょうりんぎょ」
ミーナが小さく呟く。
「……知ってるの?」
「うん。漂鱗魚。
鱗だけ外に出る魚。
ここ通ると、たまに見えるんだよね」
水中の本体は、ゆっくりと進んでいる。
鱗だけが、ときどき“外”に浮かび、光となって消えていく。
「体の外側を、ちょっとずつ捨てていくんだとさ」
エルドが言う。
「ここで長く生きるためなんだろうな。
流れの薄い場所で、余分なものを捨てる」
「……なんか、変な言い方ですね」
「そうか?」
エルドは小さく笑った。
「ここでは普通だ」
そのとき、さらに深いところで影が動いた。
「……あ、今日もいる」
ミーナが、海を指さす。
声は小さいが、どこか慣れた響きがあった。
船の下の、ずっと下。
海底のあたりを、ゆっくりと横切る濃い影。
船より大きい。
クジラに似ているようで、そうでもない。
輪郭も、はっきりしていない。
ただ、“巨大な何か”が、そこにいる。
「こっちには来ないよね」
「来ないさ。あいつらは、上には興味がない」
エルドはちらりと見ただけで、また海面から視線を外した。
「今日は東側か。いつもより近いな」
「……うわぁ……」
ミーナは近寄るでも逃げるでもなく、
ただ影が過ぎていくのを見送った。
怖い、というより、
「いつものものを確認した」ような反応だった。
遠くを飛んでいた鳥が、一羽、こちらへ近づいてくる。
だがヘイメリア帯の上空手前で羽ばたきを変え、
境界線を感じ取ったかのように、大きく弧を描いて離れていった。
こちら側には、降りてこない。
アルスは、自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
(……風がないのに、冷たい)
肌を撫でるものは何もない。
なのに、体の内側だけが、じわじわと冷えていくようだった。
◆
「ここはな」
エルドの声が落ちてくる。
「風と潮が沈む場所だって言われてる」
アルスは顔を向けた。
エルドは海を見たまま、いつもの調子で続ける。
「だから、普通の船はここで止まる。
帆を上げても、掴む風がない。
潮も弱くて、押してもくれねぇ」
「……止まるって」
「そのままだ。進みもしないし、戻りもしない」
言葉は平坦だ。
感情で煽るような調子はない。
だからこそ、重さがあった。
「昔は、“風の墓場”って呼ばれてたらしい」
「風の……墓場」
「ここまで来て、動けなくなって。
風が戻るのを待って、それでも戻らなくて……って話は、いくつもある」
アルスは、静かな海を見つめた。
今も、何も起きていない。
風はない。
波もない。
ただ、静止した海と、そこを漂う奇妙な生き物たちだけ。
(……こんなところで、何日も止まる)
想像すると、それだけで喉の奥がひやりとする。
「外から見れば、ここは壁だ」
エルドが続ける。
「うまく風導線を読めない船は、この中で迷う。
たどり着けない。
だから、風の国はあまり攻め込まれなかった」
「……“風の要塞”」
アルスは、学院で読んだ文字を思い出した。
「城壁じゃなくて、手前の海が国を守ってるって」
「そういうことだ」
エルドは少しだけ、口の端を上げた。
「まあ、絶対じゃないらしいが」
「絶対……じゃない?」
エルドは軽く肩をすくめる。
「無茶な手で押し切ろうとした連中とか、
変な抜け道を見つけたって連中の話は、いくつか残ってる」
「……本当に?」
「さあな。俺は実際に見ちゃいない。
ただ、そういう話があるってだけだ」
エルドは、そこで言葉を切った。
「それでも、この帯が風の国を守ってきたのは事実だ。
簡単に越えられる場所じゃない」
アルスは、小さく息を吐いた。
いま、“国を守る壁”と呼ばれる場所の上に立っている。
ミーナが、手すりにもたれながら呟いた。
「ここ、嫌い。静かすぎて、授業中みたい」
「授業中?」
「ね、なんかさ、先生が何も言ってないのに、
みんな勝手に静かになる教室あるじゃん。
あれに似てる」
アルスは思わず笑ってしまいそうになった。
「……分かるかも」
確かに、誰も「静かにしろ」とは言っていない。
それなのに、皆の声は自然と小さくなり、足音も抑えられていた。
騒いではいけない場所。
音を立てると、何かに触れてしまう気がする場所。
そんな空気が、甲板の上を覆っている。
「でもまあ」
ミーナが、小さく背伸びをした。
「これ抜けたら、風の国だからね。
そこは楽しみ」
「……そうだな」
エルドは短く答えた。
◆
時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていく。
風がほとんどないから、雲が遅く見える。
波がないから、船がどれくらい動いているのか分からない。
船員たちは、必要なことだけを短く交わしながら、
黙々と持ち場を確認していた。
「帆、問題なし」
「ロープ、緩みなし」
声は低く、落ち着いている。
ガルドは、舵の近くで風見板を見上げている。
風がないはずの場所で、
それでも何かを測り続けるように。
アルスは、手すりを握りしめたまま空を見上げた。
(……本当に、音がない)
耳を澄ませば、かすかな船の軋みと、
近くにいる人たちの呼吸だけが聞こえる。
そのとき――
耳の奥で、細い笛のような音がした。
「……?」
かすかな、ひゅう、という高い音。
実際に聞こえたのか、頭の中で鳴ったのか分からない。
アルスは思わず、周囲を見回した。
「どうした?」
ミーナが首をかしげる。
「……ううん。ちょっと、変な音がしたような気がして」
「音?」
「……多分、気のせい」
自分でも確信が持てなかった。
エルドが、ちらりとアルスの横顔を見る。
だが、その視線もすぐに海へと戻った。
海は、相変わらず静かだった。
風のほとんど動かない世界。
沈んだ海。
人の声さえ自然と小さくなる静けさ。
その奥で――
とても遠く、ものすごくゆっくりと、
“風だけが”動いているような気がした。




