表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
造物のアルス  作者: おのい えな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/44

第16話

 朝の光が海を薄く照らし、波のきらめきが甲板に散っていた。

 昨日と同じ海のはずなのに、風の匂いが違って感じられた。


 アルスは手すりに海図を広げ、じっと見つめていた。


 学院で学んだ知識が、ゆっくり頭の中に浮かぶ。


(風の国は島が多い。

 大小の島が入り組んで、そこを風が抜けたり、渦になったりする。

 それが“風の道”になる……)


 海図の中央には、ひときわ大きな島が描かれている。


 “中央島”。

 そしてその横に記されている文字。


 風暦院かぜれきいん

 風の国でいちばん大きな学院。

 あらゆる知識が集まる場所。


 そんなことを考えていると、背後から声が落ちてきた。


「珍しいな。お前が海図なんて広げてるとは」


「エルド」


 彼は腕を組み、いつもの落ち着いた顔で立っていた。


「学院で……少し習ったんだ。

「風の国の島々には、大魔石から生まれる“風の道”があるって」

 

「まあ間違っちゃいねぇ」


 エルドはアルスの横に立ち、海図を覗き込む。


「島々にはな、でっかい魔石が埋まってる。

 一メートルのもあれば、三メートル級のもある」


「三メートル……?」


「魔石は風を引く。

 大きいほど強く引く。

 島の地下で互いに引き合って……見えない線みたいになる」


 海図に引かれた細い点線が、少し意味を帯び始める。


「じゃあ、この線って……」


「ああ。

 魔石から魔石へ伸びる“風の筋”――

 風導線ふうどうせんだ」


「風導線……」


「船はあれに乗る。

 速いし、安定する。

 長距離ならなおさらだ」


「外れたら……危ないんですか?」


「危ないってほどじゃねぇ。

 風が弱くなったり、潮に流されたりはするが、

 漁師はもっと浅いところで自由に動く」


「風の国には船以外の移動もある。

 風に乗るやつ、風を固めて跳ぶやつ。

 塔から滑空するやつもいる」


「滑空?」


「風読みの塔って言ってな。

 何本もある。

 塔の上から風を読んで、風を掴んで飛ぶ連中もいる」


 アルスは海図を見つめながら息を呑んだ。


(……本の中の世界が、こんなに立体的だったなんて)


「どうだ。想像より広いだろ」


「うん。本で読むより……ずっと」


 風が胸の奥まで通り抜けるように感じた。


(早く見てみたい)


 ――その瞬間。


「うぅ……気持ち悪い……」


 背後から、あきらかに不穏な声がした。


 アルスが振り返ると、ミーナが手すりにしがみつきながら

 ふらふらと歩いてきていた。


「ミーナ、大丈夫?」


「だい……じょぶじゃない……」


 顔は真っ青で、目もうるんでいる。


「また酔ったのか」


 エルドはため息をつく。


「ま、またって何よ!」


 ミーナは必死に反論しながらも、

 足元がおぼつかず、アルスの肩にすがる。


「アルス……なんで平気なの……?

 船、こんなに揺れてるのに……」


「え? 風が気持ちよくて……」


「ほんとに意味わかんない!!」


 そこへ、ガルド船長が豪快に笑いながらやってきた。


「ミーナ!まだまだだな!」


「船長まで〜〜ッ!」


 ミーナは涙目で抗議するが、

 エルドがその頭を軽く押さえた。


「ほら座れ。動くと余計酔う」


「む〜〜……」


 ミーナを座らせた後、

 しばらく三人でその場に留まった。


 やがてミーナが船内で休むことになり、

 アルスとエルドは再び甲板へ出た。


「……エルド。ミーナって、なんでアルベスに?」


「好奇心だ」


 エルドは即答した。


「母親がアルベスで仕事するからって言ったら、

 『行きたい!』って目を輝かせてついてきた。

 ……あいつはそういう子だ」


「……ミーナらしいね」


「ああ。風みたいなやつだからな」


 アルスは小さく頷き、エルドと同じように海を眺めた。


 ◆


 しばらくして、船内で休んでいた。


「アルス、上だ。来い」


 エルドに呼ばれ、アルスは甲板に出た。


 風の匂いが昨日と違う。

 湿り気があり、重い。


 船が大きく揺れ、甲板の木材がぎしりと鳴った。


 船員たちがロープを押さえ、帆の角度を変え、

 いつもより速く動いている。


「揺れが……」


「分かるか。風が跳ねてる」


 エルドは空を見上げ、

 そのまま小さく口の端を上げた。


「どうだ。面白いだろ」


 アルスは揺れる船体に振り回されながら、

 周囲の様子に目を奪われた。


 帆が暴れ、縄が鳴り、船全体が波と風に押されている。


「すごい」


 エルドは何も言わなかった。

 ただ、その表情は昨日よりわずかに柔らかかった。


「――全員! 持ち場につけ!!」


 ガルド船長の声が甲板を震わせた。


 帆の下から現れたガルドの顔は、

 いつもの豪快さが完全に消えている。


「船長! 風が跳ねます!」


「……よし。いけるか?」


 その声に、船員全員の動きが一瞬止まり――

 直後、緊張が甲板全体に走った。


 アルスは思わず手すりを掴む。


 風の圧が、肌にまとわりついてくる。


「アルス」


 エルドが短く言った。


「足を広げろ。踏ん張ってろ」


 海風が、低く唸り始めた。

 船が、深くきしんだ。


 今までの揺れとは、少し違う。

 上下に持ち上げられたと思えば、斜めに押される。

 甲板の板が、ぐっと沈んでは、ぎしりと元に戻る。


「ロープ、いちど見直せ」

「荷はそのまま固定しておけよ」


 船員たちの声が飛ぶ。

 怒鳴り声ではない。

 いつもより少しだけ低く、短く、必要なことだけを確かめ合うような声だった。


 アルスは手すりを掴み、足を踏ん張る。

 揺れは激しいのに、不思議と騒がしさがなかった。


 ミーナが横で、わずかに眉を寄せる。


「あー、気持ち悪い……」


「この感じ?」


「うん。何回か通ってるけど……ここに近づくと、いつもこうなんだよね」


 ミーナはエルドの袖をちょん、とつまんだ。

 怯えているというより、苦手な場所に入る前の、あきらめ混じりの表情だった。


「揺れ方が変わったろ」


 エルドが空を見上げたまま言う。


「波は荒れてるのに、風が抜けなくなってきてる。……境目だ」


 ガルドが舵のそばで振り返り、短く声を張る。


「ここから先、無駄口は無しだ。

 各自、いつも通りやれ」


「了解」


 返事も落ち着いている。

 迷いのない返答が、いつも通りの慣れを感じさせた。


 船はなおも揺れ続ける。

 がたがたとした細かい震えが、足の裏から脛へと登ってくる。


 なのに――


(風が――?)


 アルスは頬をかすめる空気の感触に、違和感を覚えた。

 帆を膨らませていた力が、角を丸められるように、じわじわと薄れていく。


 それなのに、波だけはまだ荒い。

 船だけが、居心地の悪い揺れに翻弄されている。


「ミーナ、こっちを持て」


「う、うん」


 エルドがミーナの手にロープを持たせる。

 引っ張らせるというより、“何かを握っていたほうが落ち着く”と分かっている手つきだった。


 しばらく、荒い揺れが続いた。


 そして――


 船が、ぐん、と持ち上がる。


「っ……!」


 甲板全体が、一拍だけ宙に浮く。

 胸がふわりと浮き、心臓が一瞬、どこかに置いていかれる。


 次の瞬間。


 ――すべての揺れが、消えた。


 風が止んだ。


 帆を叩いていた音が、ぴたりと途切れる。

 ロープの軋みも、舳先を叩く波音も、急に遠ざかった。


 耳の奥が、きいん、と鳴った気がした。


(……静かだ)


 アルスは思わず息を止めた。

 さっきまで鳴り続けていた音が、全部奪われたかのようだった。


 動いているのは、自分たちの呼吸と、心臓の鼓動だけ。

 甲板の上に立つ人々の気配だけが、静かに積もっている。


「入ったな」


 ガルドの声が、いつもより少し小さく聞こえた。


「……風の墓場」


 ミーナが呟く。

 初めて見る景色ではないのに、その言い方は少しだけ嫌そうだった。


「何回通っても、耳が変な感じする」


「普通の風が全部消えるからな」


 エルドは淡々と言う。


 アルスはゆっくりと息を吸い込んだ。


 空気はひんやりしている。

 だが、さっきまで感じていた“流れ”がない。


 ただ、そこにあるだけの冷たさ。


(薄い、のに、重い)


 喉を通る感覚だけが、妙にはっきりしていた。


 そのとき――頬を、細い何かが撫でた。


「……?」


 風、と呼べるほどの力はなかった。

 温度も匂いもなかった。


 けれど、確かに“流れ”のようなものが、一筋だけ通り過ぎた。


 アルスは顔を上げる。

 空には、薄い雲。

 帆は、止まったまま微動だにしない。


 さっきの感覚は、すでに消えていた。


(気のせい……?)


 問いは胸の内に押し込められたまま、答えを持たない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ