第15話
喉に触れている冷たい線は、まったく動かない。
波音だけが遠くで続き、船尾の空気は静まり返っていた。
アルスは息を浅くした。
少しでも喉が上下すれば、刃に触れてしまう。
エルドは、真正面からアルスを見ていた。
怒りも焦りもない。
ただ、何かを量るような、重たい静けさだけがあった。
「アルス」
声は低く、どこまでも落ち着いている。
「お前は俺に、二度嘘をついた」
アルスの肩が、わずかに震えた。
エルドの目は、その揺れを逃さなかった。
「理由はわからん。――だが俺は、嘘をつく人間が嫌いだ」
その言葉には感情がなかった。
長い年月で固まった“事実”のように響く。
「嘘をつく者は、平気で裏切る」
風が細く冷たく変わった。
さっきまで柔らかかった潮風が、刃の横を通るような鋭さを帯びる。
「それに……お前からは、不思議な“風”を感じる」
アルスは何も言えなかった。
視線を動かすことすらできない。
エルドが、ほんのわずか槍を押し込む。
紙一重の動きでも、冷たさが深くなる。
「言え、アルス。――なぜ嘘をついた」
静寂が甲板の影に積もっていく。
「……いえません」
小さな声だった。
だが震えてはいなかった。
エルドの目が細くなる。
刃の角度は変わらないまま、空気だけがさらに冷える。
「お前が……あの盗賊たちを呼んだのか?」
「……ちがいます」
視線は動かない。
嘘ではなく、ただの事実だけが落ちた。
エルドは反応を示さなかった。
「その嘘は――命をかけるほどのものか?」
風が止まった。
アルスはゆっくりと目を上げる。
「……はい」
その一言が落ちた瞬間、
甲板をひとつ軋ませるような緊張が走った。
エルドはその答えを聞いても刃を動かさない。
二人のあいだを、細い風だけがすり抜けていく。
「命をかけるほどの嘘……か」
エルドの目が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
だがすぐに、その揺らぎは風といっしょに消えた。
長い沈黙のあと、エルドが静かに言った。
「……なら、答えろ。アルス」
刃先はまだ喉元にあった。
「お前は――俺たちの敵か?」
その問いは、刃より重かった。
アルスはまっすぐに目を上げる。
「ちがいます」
迷いのない声だった。
エルドはすぐには刃を離さなかった。
ただ、アルスの目をじっと見続けていた。
やがて――
槍がほんのわずかに離れた。
エルドの肩から、硬い力が抜ける。
「そうか」
小さく呟き、槍を完全に下ろした。
風の冷たさも、すっと和らいでいく。
エルドは一度だけ海へ目を向け、風の流れを確かめる。
◆
アルスは小さく息を吐いた。
喉に残る冷えはまだ消えていない。
エルドはしばらく海に視線を向け、
ゆっくりと口を開いた。
「アルス。……嘘の理由は聞かない」
声は先ほどより、わずかに柔らかかった。
「だがな」
エルドは振り返る。
「風の国には、嘘を見抜く者がいる」
アルスは息を飲むこともできなかった。
「隠しごとをしている者は、一瞬で疑われる。
お前の事情は知らない。
だが、嘘をつくなら――」
エルドは、わざと長く間を置いた。
「もっと上手くつけ」
アルスの指先がわずかに動く。
叱られたからではない。
言葉の奥にある温度を感じたからだ。
エルドは続けた。
「……俺は嘘が嫌いだ。
裏切られたこともある。
だが――芯のあるやつは好きだ」
その言葉と同時に、柔らかい風が戻ってくる。
鋭かった空気がほどけ、朝の匂いが静かに流れ込んだ。
アルスはゆっくり息を吸った。
胸が苦しくて、それでもあたたかかった。
(エルドさんは、僕のために――)
「エルド」
「なんだ」
アルスはまっすぐに言った。
「ありがとう」
「礼はいらん」
ほんの少し、風が優しく揺れた。
さっきまで冷たかった風とは違う。
いつもの朝の風だった。
◆
「さて」
エルドが槍を背に戻し、軽く伸びをした。
声はもう、いつもの穏やかさを取り戻している。
「そろそろ、お転婆娘が片付けに飽きてきた頃だろう」
その言い方に、アルスは思わず小さく笑った。
「……はい」
「行くぞ。放っておくと、荷物の上で寝るからな」
二人は並んで船内へと向かった。
階段を降りるほど、船尾の冷たい空気が遠ざかり、
代わりに木の匂いと温かい揺れが近づいてくる。
そして――予想どおりだった。
「……あれ?」
ロープを枕に、ミーナが寝転がっていた。
完全に飽きている。
「ミーナ」
「ん〜……あ、お兄ちゃん、アルス! 遅かったじゃん!」
アルスは苦笑した。
エルドはため息をつく。
「片付け、飽きたのか」
「ち、ちがうもん! これは……休憩!」
「はいはい」
エルドが頭を軽く小突くと、
ミーナは「もー!」とふくれながら、ロープを整えはじめた。
アルスも隣にしゃがみ、散らばった荷袋を拾う。
「……アルス、なんか顔がすっきりしてない?
――んん?」
「な訳ねえだろ」
エルドがミーナの言葉を遮る。
「すっきりって……?」
アルスは無垢な言葉を投げかける。
エルドはアルスの頭を乱暴に押さえる。
「あのバカは気にするな」
「バカって何よ?」
エルドが肩をすくめる。
アルスも小さく頷いた。
その頷きには、
さっきまでの冷たさも怖さもなく、
ただ、ほんの少しのあたたかさだけがあった。
三人の笑い声が、揺れる船内に広がった。
◆
「……じゃあ、片付けは一旦終わりだ。外へ出るか」
エルドの言葉に、ミーナがぱっと顔を明るくした。
「やった! 海、見に行こ!」
その勢いに引っ張られるようにして、三人は階段を上る。
通路の薄暗さから抜けると、光と風が一気に近づき、
甲板に出た瞬間、海の匂いが広がった。
朝の空は高く、雲が薄く伸びている。
視界を覆う青の向こうで、鳥たちが円を描くように回っていた。
「わぁ……!」
ミーナが駆け出す。
風に髪をなびかせながら、船の端まで走る。
アルスもその後ろで立ち止まり、空と海を仰いだ。
白い鳥が数羽、帆の影をかすめるように滑っていく。
翼をほとんど動かさず、風に乗るようにして漂っていた。
「アルス見て! 競争してるよ!」
ミーナの指差す先では、二羽の鳥が波打ち際すれすれを並んで飛んでいた。
水面近くには、銀色に光る小魚の群れが、風に揺られる草のように一斉に方向を変える。
「……すごい」
アルスは思わず声を漏らす。
こんな生き物の動きを、目の前で見るのは初めてだった。
鳥の翼がきらりと光り、小魚が太陽の反射で白く弾ける。
「パンあげてもいいかな!」
「やめろ。船長に怒られるぞ」
「えぇ〜!?」
ミーナが頬を膨らませ、エルドは肩をすくめた。
「……あれは“風渡り鳥”だ。風の筋が読める」
アルスの横で、エルドがわずかに顎を動かして示す。
「へぇ……」
「海面のは“潮銀魚”。光に寄る。よく跳ねるぞ」
「ほら見てアルス! 今跳ねた!」
本当に跳ねた。
銀色の粒が二つ、空に弧を描いて落ちる。
ミーナは甲板の手すりから身を乗り出すようにして魚を追いかけ、
エルドは慣れた手付きでミーナの襟をつまんで引き戻した。
「落ちるぞ」
「大丈夫だってば!」
「大丈夫じゃない」
その言い合いがあまりに自然で、
アルスはくすっと笑った。
「なんだよアルス、笑ってるじゃん!」
「……ミーナが楽しそうで」
「何度見ても楽しいに決まってるでしょ! 海だよ? 船だよ?」
ミーナの声は風に乗って遠くまで届きそうだった。
甲板の上を走り回る足音が、軽く響いていく。
それを見て、エルドも口元を緩めた。
「……まったく、船に穴を開けるなよ」
「開けないってばー!」
「信用できん」
「なんでよ!?」
ミーナがぷんすか怒り、エルドが呆れたように眉を下げる。
そのやりとりが微笑ましくて、アルスはもう一度小さく笑った。
海面をかすめる鳥が、風に乗ってくるりと旋回した。
空が広く、どこまでも続いて見える。
港町は、もう遠い。
けれど、風は甲板に確かに届いていた。




