第14話
アルスは、頬に触れた冷たさで目を覚ました。
窓と壁の隙間から差し込む細い光が、床の上に淡い色を落としている。
毛布をめくると、朝の空気が一気に肌へ触れた。
しばらく呼吸を整え、体を起こす。
階下から、小さく食器の触れ合う音が聞こえた。
宿の目覚めがゆっくり始まっているようだった。
荷物を確認する。
小さな袋。
着替え。
結晶の入った布袋。
ひとつひとつ指先で確かめ、紐を結び直す。
指に残る感触で、少しだけ気持ちが締まった。
◆
階段を降りると、食堂の灯りはすでに灯っていた。
長いテーブルの端で、エルドが湯気の立つスープを飲んでいる。
表情は静かだが、装いは完全に旅支度だった。
「おはよう、アルス」
「……おはようございます」
カウンターの奥では、店主が黒パンを切り分けている。
スープの香りに混ざって、かすかな潮の匂いが漂ってきた。
足音が階段を降りてくる。
「おはよ〜!」
ミーナが寝癖を跳ねさせながら、元気いっぱいの笑顔を浮かべている。
エルドが少しだけ笑った。
三人でテーブルにつく。
スープを口に含むと、体の芯にゆっくりと温かさが戻ってくる。
黒パンを浸すと、固さがほどけて食べやすくなった。
「港の朝は昨日よりずっと面白いからね」
「面白い?」
「うん、夜と朝って全然違うんだよ」
ミーナは胸を張った。
「行けば分かる」
エルドは淡々と言ったが、声は少しだけ柔らかかった。
アルスはスープを飲み干す。
指先にまだ眠気の残りがあるけれど、温かさで少しずつ動き始めていた。
店主が顔を出す。
「船長さんから伝言だよ。潮がいいらしくてね、早めに出るそうだ」
「分かりました。ありがとうございます」
エルドが立ち上がる。
ミーナも椅子を押してぱっと立つ。
アルスは荷物を肩にかけ、紐を握り直した。
◆
外へ出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
港町の朝は、すでに動き始めている。
桶を抱えて歩く男、網を肩にかけた若者、縄をまとめて笑う女たち。
石畳を打つ足音が重なり合い、静かなざわめきをつくっていた。
空は薄い色をしている。
家々の屋根の向こうで、海の光が揺れている。
「こっち!」
ミーナが先へ歩く。
アルスとエルドがついていく。
近づくほど、港の音が増えていった。
木箱を積む鈍い音。
帆布を広げる擦れた音。
短い掛け声。
視界がひらける。
朝の海が広がっていた。
昨日よりもはっきりした青。
船のマストが並び、その影が長く伸びている。
「ここだよ」
ミーナが指さす。
風の国の紋章を掲げた船。
白い帆。
風を象った船首像。
そして、船体の側面に並ぶ、金属の輪や風車のような装置。
朝の光の中で、それらは昨日より鮮明に見えた。
輪の内側には、小さな羽根のような部品がいくつも並んでいる。
風を受けてゆっくりと回転していた。
アルスは足を止めた。
羽根が一枚だけ早く揺れ、時間差で隣の羽根がついてくる。
金属が擦れる、細い音が耳の奥に残った。
「気になる?」
ミーナの声に、アルスは小さく頷いた。
「だと思った!アルスなら気なるって」
「ミーナ、少し静かに」
「はいはい」
エルドが苦笑したところで、甲板から声が飛んだ。
「おーい!」
ガルド船長が手すりの上から手を振っている。
「よく来たな!」
縄梯子を器用に降り、三人のもとへ歩いてくる。
「おはようございます、船長」
「おはよう! 今日も元気そうで何よりだ」
ガルドは明るく笑い、アルスを見る。
「調子はどうだ、坊主」
「……大丈夫です」
「よし!」
その一言で満足したように、荷を肩に担ぎ、甲板へ戻っていった。
◆
「じゃ、行こっ!」
ミーナが先に板を渡る。
その背中を追うように、アルスは一歩、板の上に足を置いた。
下は海面。
光が割れ、揺れている。
板がわずかに沈んで揺れる。
体がそれに合わせて傾いた。
アルスは反対の足をすぐ前に出し、姿勢を整える。
自然と手すりへ手が伸びた。
「ゆっくりでいいよ」
ミーナの声が優しく響く。
甲板に足を乗せると、内側がふわりと浮くような感覚が走った。
アルスは手すりを握り、呼吸をひとつ置いて揺れに慣らした。
甲板では、船員たちが忙しく動いていた。
帆の準備、縄の確認、金属の輪の調整。
羽根をひとつ弾き、音を確かめる船員の姿。
船全体が大きな道具のように見えた。
「アルス」
エルドに呼ばれ、船体側面の装置の前に行く。
近くで見ると、金属の輪は思っていたより大きい。
「これは、風を受ける道具ですか?」
「風を整えるためのものだ」
エルドは輪を軽く叩いた。
金属が震え、羽根がゆっくり揺れる。
風が当たると、その動きが少しだけ滑らかになった。
アルスはその変化をじっと見つめた。
動きの意味も、仕組みも分からない。
けれど、そこにある“工夫”だけは感じ取れた。
◆
「全員乗ったかー!」
ガルドの声が響き、船員たちの返事が一斉に重なる。
岸の杭から縄が外される音がした。
「出すぞ! 帆、上げ!」
ロープが一斉に引かれ、白い帆がゆっくり持ち上がる。
布の擦れる音。
滑車の回転する音。
風が帆の端を掴み、小さくふくらませた。
アルスは海面を見た。
船のすぐそばで、波が静かに形を変える。
金属の輪が回転を強め、足裏にかすかな振動が伝わった。
「行くぞー!」
ミーナが海を指差して振り返る。
アルスも視線を上げる。
港町が、ゆっくりと遠ざかっていた。
宿の看板はもう見えない。
建物の列も、ほんの少し小さくなっている。
「ここから先は、陸の目印が少なくなる」
エルドが静かに言う。
「風と潮、そしてこの船が頼りだ」
アルスは自然と船体側面の装置を振り返った。
羽根は止まらない。
風を受け続け、規則正しく回っていた。
ガルドが空を見上げる。
「風はいい。潮も素直だ」
そして、甲板全体へ声を張る。
「ここから先、俺の指示は全部守れよ!」
「おう!」「了解!」
ミーナも拳を握る。
「了解です、船長!」
アルスは手すりを握り、深く息を吐く。
波の音。
帆の揺れ。
金属の輪の回転音。
それらが混ざり合って、新しい響きになっていく。
港町の気配は、もう遠い。
風の匂いは、少し濃くなっていた。
アルスは空を見上げた。
白い帆。
光。
揺れる影。
その光景を胸の奥に刻むように、紐を握る手にそっと力を込めた。
潮の匂いを含んだ風が、頬を撫でていく。
その風は、船を静かに押し出していた。
◆
「アルス、ちょっと手伝ってほしい。船尾に来てくれるか」
海風に紛れるような声だった。
「……うん。分かった」
「私は?」
ミーナが首をかしげる。
「船内で荷物を整理していてくれ」
「はーい!」
ミーナはそのまま船内へ走っていき、足音が遠ざかる。
アルスはエルドの後ろについて甲板を歩く。
帆の影が長く伸び、船尾へ近づくほど海の音が強くなる。
エルドが足を止めた。
「……アルスがいて助かったよ」
アルスは小さく首を振る。
「そんなことないよ。あのときは無我夢中でだったんだ」
「そうか。なら――
そこで言葉が途切れた。
風の音が、一瞬だけ消えたように感じた。
次の瞬間——
冷たい何かが、喉のすぐ下に触れていた。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
ただ、首元に細い圧があることだけが事実として残った。
エルドは、まるで最初からその位置にいたように立っていた。
片手に細身の槍。
刃先は動かず、呼吸をするだけで触れそうなくらい近い。
アルスは息を呑む。
体が固まる。
動けない。
エルドの声が、波よりも静かに落ちてきた。
「……なら、なぜ嘘をついた」
その問いだけが、海より深く沈んだ。




