第13話
先の一件から、どれくらい走っただろう。
馬車の揺れはすっかり元のリズムに戻っていたけれど、
車内の空気には、まださっきの血の匂いの記憶が薄く貼りついていた。
アルスは手のひらをそっと握りしめる。
さっきまで盾を構えていた腕に、まだ重みの残像がある。
「……大丈夫?」
向かいからミーナが覗き込んでくる。
「ちょっとだけ。でも、さっきよりは平気」
「そっか」
ミーナは安心したように微笑んだあと、ちらりとエルドを見る。
「お兄ちゃん、なにか気を紛らわせるものない?」
「気を紛らわせるもの、ねぇ……」
エルドは少し考えたあと、天井の方を指さした。
「そうだな。この馬車の“仕掛け”でも見せてみようか」
「仕掛け?」
アルスは思わず顔を上げた。
エルドは席を立ち、揺れる馬車の中で慣れた足取りで前方へ進む。
御者台との仕切り板のあたりを軽く叩くと、小さな蓋を開けた。
「ほら、ここだ」
覗き込んだアルスの視界に、小さな金属板と淡く光る結晶が見えた。
薄い円盤状の魔道具が、木枠の中にしっかりと固定されている。
「……魔道具?」
「ああ。風の国製の“軽減盤”。荷と車体の重さを少しだけ逃がしてくれる」
エルドは指先で結晶の縁をなぞる。
「馬車を軽くすることで、馬への負担を減らす道具さ。
アルベスの道は起伏が多いから、こういうのがあるとだいぶ楽になる」
「すごい……」
アルスは思わず身を乗り出した。
枯渇状態の魔石を外側から内側へ、
風の流れを模したように中央に集まり、
重さの一部を落としている――そんな構造に見えた。
「ここで“重さ”の一部を受け止めて、地面に流してるのかな……いや、でも――」
無意識のうちに指先が軌道をなぞる。
目が自然と見開かれる。
ミーナがくすりと笑う。
「ま、こいつのおかげで、港までは問題なく着けるだろう」
「もうすぐ、港?」
アルスが顔を上げると、エルドは小さく頷いた。
「そろそろだ。窓を見てみな」
アルスは窓の外を覗き込む。
森の木々のあいだから、視界がふいに開けた。
遠く――地平線の向こうに、鈍い銀色の帯が見える。
それは、山でも大地でもない。
ゆっくりと、ゆらめきながら光を返す。
「……海だ」
思わず、小さな声が漏れた。
鼓動がひとつ跳ねる。
その先には、風の国へ続く道がある。
アルスは目を離せなかった。
◆
港町は、近づくにつれて音を増していった。
人の声、荷を運ぶ車輪の軋み、見慣れない掛け声。
そして何より、波が岸を叩く音が、絶え間なく響いている。
馬車が街の門を抜けると、潮の匂いが一気に濃くなった。
「わぁ……」
あるしが窓に張りつく。
石畳の道の両側には、魚を干す店、貝殻を並べる露店、
縄や帆布を売る道具屋が軒を連ねていた。
港へ近づくほど、背の高いマストが視界に増えていく。
様々な国の紋章を掲げた帆船が、波間に揺れていた。
「港町って、賑やかだね」
アルスが呟くと、エルドはどこか懐かしそうに目を細めた。
「そうだな。風の国への玄関みたいなものだから」
馬車は港の一角で停まった。
「さあ、いったん降りよう。船長に挨拶しなきゃな」
エルドが扉を開けると、潮風が一気に流れ込んできた。
アルスは荷物を背負い、初めて踏む港の石畳に足を下ろす。
足元が、ほんの少しだけふわふわする。
(……本当に、海まで来たんだ)
視界が少し明るく見えた。
◆
「こっちだ」
エルドが案内した先に、一隻の船があった。
白い帆は畳まれているが、船体の側面には風の国の紋章が大きく描かれている。
船首には、風を象った彫像が掲げられ、
船の脇には、見慣れない金属の輪や、風車のような装置が取りつけられていた。
(これも……魔道具?)
アルスが見入っていると、甲板から声が飛んだ。
「おーい! エルド!」
逞しい腕をした中年の男が、手すりに肘をかけて笑っていた。
日に焼けた肌と、深い皺の刻まれた目尻。
耳たぶには小さな魔石が顔を覗かせていた。
男はダン、と板を踏むと、縄梯子を器用に降りてくる。
「帰りもお願いします。こちらがアルベスから来てくださる魔法士です」
「おう、そうか。
俺はこの船の船長で晶装士、ガルド=スフェンだ。」
そう言って、耳の魔石を指で軽く弾いた。
「アルス=ローデンです。よろしくお願いします」
「よろしくね、船長」
ミーナがぺこりと頭を下げると、ガルドはにやりと笑った。
「よろしくな」
「船長。出航は明日でしたね?」
「ああ。今日は荷の積み込みと船の点検だ。
泊まりは港の宿をとってある。夜はそこで飯を食え。
明日の朝一番の潮で出る」
「ありがとうございます」
エルドが深く頭を下げると、ガルドは軽く手を振った。
「礼なんぞいい。
あの“風の要塞”を越えるには、こういう仕事を請け負ってくれる国が必要だからな」
「風の要塞……?」
アルスが聞き返すと、ガルドは船の向こうの海を顎で示した。
「風の国の周りはな、“壁”みてぇなもんで囲まれてるのさ」
「壁?」
「見えない壁だ。潮と風の流れが入り組んでてな。
道を少しでも間違えると、“無風帯”に迷い込む」
ガルドの声が、少しだけ低くなる。
「一度そこに入り込むと、帆が役に立たねぇ。
風を読める晶装士がいなきゃ、ずっと漂うことになる」
「だから、“風の要塞”」
エルドが言葉を継いだ。
「風の国を守る、目に見えない壁みたいなものだよ」
「だからこそ、俺みたいな古い船長がまだ重宝されるってわけだ」
ガルドは耳の魔石を軽く叩いた。
「潮の癖と風の機嫌は、この小石とこの耳で読む。
そのかわり、船の上では俺の指示が絶対だ。いいな?」
「はい」
「了解しました、船長!」
ミーナも元気よく返事をする。
「よし。じゃあ今日は港町を楽しんでこい。」
ガルドは笑い、甲板へと戻っていった。
◆
「まずは宿に荷物置こっか」
ミーナがくるりと振り返る。
「船長の紹介で、港に近い宿をとってくれてるんだって」
「助かるよ。港町は、泊まり慣れてないと宿選びが難しいからね」
エルドがそう言って、二人を先導する。
港に面した通りには、酒場兼宿屋が並んでいた。
扉の上に吊るされた看板には、魚や樽、帆船の絵。
どの店からも、歌声や笑い声が漏れている。
その中のひとつ、木製の看板に“碧風亭”と刻まれた店の前で、エルドが足を止めた。
「ここだ」
扉を開けると、温かな灯りと、焼いた魚とスープの匂いが迎えてくれる。
「わぁ……」
思わずアルスの口から感嘆がこぼれた。
石造りの壁に、木の梁。
奥には大きな暖炉があり、その手前に長いテーブルが並んでいる。
港町らしく、壁には古びた舵輪や、使えなくなった帆の一部が飾られていた。
「いらっしゃい!」
髭をたくわえた店主が、カウンター越しに声を上げる。
「ガルドの紹介の方かい?」
「はい。今夜お世話になります」
エルドが手短に挨拶を済ませると、
三人分の部屋と、夕食の手配がすぐに決まった。
「荷物は部屋に置いてきな。飯の準備ができたら呼ぶよ」
「ありがとうございます」
アルスたちは二階の部屋へと案内され、荷物を簡単に整えると、
再び一階の食堂へ降りてきた。
◆
夕刻の食堂は賑やかだった。
漁師らしい男たちが酒を酌み交わし、
見知らぬ言葉が飛び交う。
船乗りたちの笑い声に混じって、誰かが古い海の歌を口ずさんでいた。
アルスたちのテーブルにも、大皿に盛られた焼き魚と、
具だくさんのスープ、黒パンが並ぶ。
「いただきます」
三人で手を合わせ、それぞれに食事を取り分ける。
「ここの魚、おいしいんだよ」
ミーナが嬉しそうに骨を外しながら言う。
「風の国に行く船乗りは、だいたいここで腹を満たしてくんだって。ね、お兄ちゃん」
「ああ。ガルド船長のお気に入りの店だからな」
エルドはスープをひと口飲み、満足そうに息をついた。
「うまい。アルベスの食事とは、まるで違う味だ」
「アルスはどう?」
「おいしい。……海の味がする」
「それはちょっとざっくりしすぎじゃない?」
ミーナが笑った。
アルス自身も、少し笑う。
温かなスープと魚の脂で、肩の力が少しずつ溶けていく気がした。
しばらくは、他愛のない会話と食事が続いた。
やがて、エルドの前には、泡立つ酒のジョッキが置かれる。
「……飲みすぎないようにね、お兄ちゃん」
「分かってる」
エルドはあっさりと答え、一口でぐい、と飲んだ。
ゴトッ。
次の瞬間、鈍い音がして、ジョッキの底がぱきりと割れた。
「わっ!? ちょっとお兄ちゃん!!」
中身がテーブルにこぼれ、ミーナが慌ててパンで拭き取る。
「……すまん。酔うと手が滑る」
「まだ一口目でしょ!?」
カウンターの向こうから、店主が振り返る。
「おーい、大丈夫か、エルド!」
「……すみません。弁償します」
「はいはい。別にいいよ!」
店主は苦笑しながら、新しいジョッキを持ってきた。
「ほら、これ使いな」
「ありがとうございます。次は気をつけます」
エルドは頭を下げてから、ふっとアルスの方を見た。
「そういえばアルス」
「うん?」
「この前、土の魔法で“木の盾”作ってたよな」
「……うん」
矢を受けた盾の重みが、瞬間的によみがえる。
「じゃあ、こういう木のジョッキも作れたりするのか?」
エルドは壊れたジョッキの残骸を指でつつきながら、何気ない調子で言った。
「いや、それは“できないよ”」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。
「それは、その……難しくて」
喉の奥が張りつく。
「アルスは細かい形の魔法が苦手なんだってば」
ミーナがすかさず口を挟む。
「魔道具いじりは得意なくせに、魔法になると急に不器用になるの。かわいいでしょ?」
「かわいいは余計じゃないかな……」
「いいじゃない。かわいいものはかわいいんだから」
ミーナが笑うと、アルスの肩からわずかに力が抜けた。
エルドは一瞬だけアルスを見たが、
表情は柔らかいままだ。
「そっか。じゃあ、もうひとつもらってこよう」
「お兄ちゃん、ほんとやめてよ……!」
ミーナが額に手を当てる。
エルドは立ち上がり、カウンターへと向かっていった。
どんな表情をしているのかアルスには分からなかった。
◆
食事を終え、部屋に戻るころには、外はすっかり夜になっていた。
窓を少しだけ開けると、潮の匂いを含んだ夜風が、ひやりと頬を撫でる。
遠くで、船のマストが風に鳴る音がした。
波と、帆と、ロープがこすれる音が、低く重なり合っている。
(……明日、あれに乗るんだ)
アルスは窓辺に立ち、暗闇の向こうを見つめた。
風の国。
ユベルの魔法を求める人たち。
アルスの知らない世界。
そのどれもが、不安と同じくらいの“期待”を連れてくる。
「……いってらっしゃい」
朝、リデルが言った言葉を思い出す。
アルスは小さく頷き、窓を閉めた。
ベッドに横たわると、船の揺れを想像した。
馬車とも、山道とも、きっと違う揺れ。
それでも――
(大丈夫。きっと、大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせるように、目を閉じる。
潮の匂いを含んだ夜風が、
明日へと続く夢の境界を、静かに揺らしていた。




