第12話
馬車が石畳を離れ、土の道に入ると、
揺れは少し強くなったが、どこか心地よいリズムに変わった。
窓から流れ込む風は少し湿っていて、
草の匂いと、森に近づくにつれて混じる土の気配がする。
アルスはその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、
ゆっくりと外の景色を見る。
見たことのない道が、まっすぐ続いている。
胸のざわつきはまだ完全には消えないけれど、
その奥底に、確かに“わくわく”が混ざっていた。
「ねぇアルス、酔ってない?」
向かいの席からミーナが身を乗り出す。
「いまのところ平気……だと思う」
「安心して。馬車は船よりマシだから」
「……船ってそんなに揺れるの?」
「揺れるよ! 期待してて!」
アルスの顔が固まる。
「ミーナ、人を脅すな」
エルドがため息をつきながら、軽くミーナの額を指で弾く。
「いって! お兄ちゃんこそ、船乗ったら秒で寝るくせに!」
「寝てない。目を閉じて体力を節約しているだけだ」
「それを世間では“寝る”って言うの!」
軽口を叩き合う二人の空気はどこか安心感があって、
アルスはそのやり取りに小さく笑った。
馬車の揺れにも、風の音にも、
少しずつ“旅が始まった”という実感が宿っていく。
森道を走る馬車が、ほんのわずかに揺れを弱めた。
まるで地面そのものが急に“整えられた”ような、妙な滑らかさ。
(……なんだろう)
アルスは、馬車の窓から外を眺めながら、胸の奥のざわつきを指で押さえるようにした。
慣れない旅の揺れ……ではない。
もっと、別の――流れが変わったような、不自然な静けさ。
「そういえば……なんか、静かだね。街から離れたからかな?」
アルスがそう言った瞬間、エルドは目を閉じて、空気を探るように鼻から静かに息を吸い込んだ。
「……皆、こちらを向かずに聞いてくれ」
いつもの柔らかい声色に、微かな緊張が混じる。
御者が慌てて聞き返す。
「ど、どうされました?」
「どうやら囲まれたようだ」
エルドの言葉に、馬車の中の空気が一瞬で凍る。
「えっ……」
ミーナの声が震えたが、すぐに引き締められた。
エルドは槍を手に取り、短く指示を飛ばす。
「ミーナ。合図をしたら外へ。後方を頼む」
「わかった」
「アルス――君は客人だ。この馬車を守ってくれ」
理由は分からない。
けれど、今は言葉を挟む余地すらなかった。
◆
風が、一度だけ、深く吸い込まれたように静止する。
ほんの瞬きほどの沈黙。
その沈黙を破ったのは――。
「――今だ」
エルドが合図を出した瞬間、世界が跳ねた。
風を裂く音。槍の軌跡。
エルドは馬車から軽々と跳び降り、地面を一度蹴ると、
次の瞬間には、茂みに隠れる盗賊の隣にいた。
風のように速く、
軽やかなのに、正確無比。
突風が人の形を取ったような動き。
「が……っ!」
乾いた音が、森にひとつ落ちた。
抜きざま、風を滑らせて体勢を変え、
次の盗賊の腹部へ槍尻を叩き込む。
血が飛ぶ前に、風がそれを払った。
盗賊たちは慌てて茂みから飛び出してきた。
「ミーナ!」
「任せて!」
ミーナは馬車の後方へ跳び降り、両手を広げる。
「来て――!」
空気がすぐに刃を帯び、
数人の盗賊の足元を一斉に斬り払った。
「ぎっ……!」
倒れそうになった敵を、ミーナの次の風が押し返す。
◆
馬車の中からアルスは外を見つめる。
胸が痛いほど早く脈打っていた。
(すごい……あの二人)
ミーナもエルドも、まるで風そのもの。
旅の緊張を一瞬で戦場へ切り替えている。
その時――。
馬車の横、陰からふたつの影が飛び出す。
ひとりは弓。
もうひとりは低く構えたナイフ。
狙いは――ミーナの背。
「ミーナ!後ろ!!」
叫ぶより先に、身体が動いていた。
アルスは馬車を飛び出し、結晶袋に触れる。
(盾――!)
意識が一点に集中し、
結晶が光を放つ。
――構築。
腕に重みが走り、盾が生まれる。
構築された盾は予想より重く、腕にずしりと負荷がかかった。
矢が放たれた。
鋭い音を立てて飛んできた矢は、盾に深く突き刺さり、途中で折れた。
「ちっ……!」
矢を放った盗賊が毒づく。
だが、もうひとりの盗賊は距離を詰めていた。
刃が胸元を狙う――速い。
アルスは身体をひねってかわす。
ナイフの軌道を読み、男の手首を掴む。
(落ち着け……落ち着くんだ……!)
足が自然に前に出る。
膝が男の腹にめり込む。
「ぐっ……!!」
ナイフが地面に落ちる。
アルスはためらわず横に回り込み、
盗賊の足を払うように蹴り飛ばした。
(できた……!)
次の瞬間――
強い風が地面を削った。
エルドの風圧だ。
弓を持った盗賊は風に吹き飛ばされ、
木の幹に背を打ちつけて崩れた。
エルドは影のように滑り込み、
躊躇なく喉を槍で貫く。
その音は、妙に乾いて響いた。
ナイフの盗賊にも追撃が入る。
槍の柄で顎を砕き、動かなくさせた。
「ミーナ、アルス、怪我は?」
「大丈夫!」
ミーナは乱れた呼吸を整えながら答える。
アルスにはエルドの声が聞こえない。
◆
血の匂いが、土の匂いに混じる。
倒れた男の胸から、血が広がっていく。
赤い色が、土に吸い込まれないまま滲む。
(……あ……)
胸の奥が急に熱くなる。
(これが……ひとが……死ぬって……)
アルスは視界が揺れ、地面をにらみつけるようにして、
口を押さえたが――耐えられなかった。
「――っ……!」
胸の奥が急に熱くなる。
視界が揺れ、地面をにらみつけるようにして――吐く。
肩が震え、胃が締めつけられる。
ミーナがそっと背中に手をあてる。
「大丈夫、大丈夫……呼吸して」
エルドは周囲を確認しながら、静かに言った。
「……初めて見ると、こうなるさ。普通」
その声に責める色は無い。
ただ、理解と経験の重さだけがあった。
◆
アルスが落ち着くと、馬車の修理と荷の確認が始まった。
「……ごめん。僕……なにも、できなくて」
アルスが沈んだ声で言うと、ミーナは首を振る。
「何言ってるのよ! あれがなかったら私、死んでたよ。ほんとにありがとう」
エルドも、槍を拭きながら言葉を重ねる。
「俺からも礼を言う。助かったよ、アルス。
それと――さっきの盾、すごかったな。アルスはなんの魔法師なんだ?」
急な問いにアルスの体は少し硬直したが悟られないように答える。
「……“土”だよ」
その答えに、エルドの耳がわずかに動いた。
ほんの一瞬だけ、音を拾うような仕草。
だが次の瞬間には、柔らかく笑った。
「なるほど。土の魔法で盾を瞬時に出せるなんて……本当に頼もしいな」
エルドの微笑みと共に、エルドの胸の魔石が、日光をひとつ弾いた。
◆
周囲が静けさを取り戻したころ、
エルドは槍を地面につき、ひとつ深呼吸した。
「……まずは、こいつらをどかすぞ」
そう言って、近くに倒れている盗賊の腕をつかむ。
「このままだと、すぐに獣が寄ってくる。
道の脇まで運んで埋めておくほうがいい」
「……うん」
アルスは震える手を握りしめ、
死体の足には触れられず、衣の端をひっかけるようにつまんだ。
血の匂いが鼻についた瞬間、
胃がきゅっと縮む。
(……だめだ、目を逸らすな)
必死に自分に言い聞かせながら、
アルスはエルドと一緒に死体を道の脇へ運んだ。
ミーナは気配を広げ、周囲を確認している。
「……よし。ここならしばらく獣は来ないだろう」
エルドが手を払い、馬車へ戻ろうとしたとき――
アルスがぽつりと呟いた。
「でも……どうして、襲ってきたんだろう。
風の紋章までついてるのに」
エルドは歩みを止め、振り返った。
「ついてるからだよ」
「え……?」
「こういう“高そうな馬車”には、
大抵なにかしらの魔道具が積んである」
「魔道具……」
「特に風の国の馬車は軽くて速い。
それだけで“価値がある”」
エルドは首を軽く回しながら続けた。
「まして、アルベスから出てきた馬車だ。
“魔道具をもっと持ってるに違いない”って思われても仕方がねえ」
「……だから、僕たちを?」
エルドは一拍置いて、
少し柔らかい声で答えた。
「まあだからこそ、俺がいる。
こういう連中は、いつどこにでも湧くからな」
「あんまり調子に乗らないの」
軽口を叩くミーナとは対照的に、
アルスはまだ手の震えが収まらず、
胸のざわつきが残っていた。
そんなアルスを見て、エルドは歩みを戻し、静かに声をかける。
「アルス。改めてさっきは助かった。
——ありがとう」
アルスは息をのみ、顔を上げた。
「……僕は」
エルドは首を横に振る。
「弓を防がなければ、ミーナは傷ついていた。
だから、ありがとう」
ミーナも横から同意するように頷き、
言葉の代わりに、そっと笑ってみせた。
アルスは、ようやく少しだけ息を整えた。
「……ありがとう」
エルドは満足そうに微笑んだ。
「よし。馬車の確認をしたら再出発だ。
気を張りすぎる必要はないが――油断は禁物だぞ」
遠くで、鳥の声がようやく戻り始めた。




