第11話
薄く曇った朝の光が、アルベスマギア院の石壁を柔らかく撫でていた。
中庭の噴水からは細い水音が聞こえ、遠くの訓練場では土を踏み鳴らす音が混じる。
いつもの朝――のはずなのに、
アルスの胸の奥だけは、落ち着かない揺らぎを抱えていた。
今日は、風の国へ旅立つ日だ。
◆
「アルス、入るよ!」
返事を待つ前に、扉が勢いよく開いた。
「……」
部屋の真ん中で鞄を開いたまま固まっていたアルスは、
半分だけ畳まれたシャツを手に持った姿勢で振り返る。
「おはよう、リデル」
「おはよう。――って少なっ!」
リデルは部屋に一歩踏み込むなり、アルスの荷物を見て目を丸くした。
鞄の中身は、予備の服が二組と、ノートと筆記具、簡易の工具、
それから小さな布袋がひとつ。以上。
「ねぇアルス。これは遠足じゃないからね?」
「そんなに少ないかな」
「少ないよ! これで船旅して、向こうで何日も過ごすつもり?」
リデルは大きくため息をついて、
持ってきていた布袋と小箱をどさりとベッドの上に置いた。
「ほら、見て。薬草を乾かしたやつと、酔い止めの茶葉。
それと、ほつれ縫い用の糸と針、絆創膏、替えのハンカチ。
あと、これ。靴下三組」
「……そんなに?」
「いるの!」
ぴしゃりと言い切ってから、リデルは少しだけ声を柔らかくした。
「海は冷えるって聞いたし、向こうの島は石畳ばっかりだから、足も疲れるの。
私が行けない分、準備ぐらいさせてよ」
アルスは、小さく瞬きをしてからうなずいた。
「ありがとう。助かる」
「最初からそう言えばいいの」
そう言いつつ、リデルは手際よく荷物を詰め直していく。
畳み方が少し雑なのは相変わらずだが、
どこに何が入っているか一目で分かるように並べているあたり、
彼女らしい気遣いが見える。
「……あ、忘れるところだった」
リデルは小箱をそっと開けた。
中には、小さな木製の箱がさらに入っている。
「なにそれ?」
「お土産用の箱」
リデルは真剣な顔で言った。
「風の国って、貝殻がきれいなんでしょ?
いつか行ってみたいなーってずっと思ってたけど、
先にアルスが行っちゃったんだから……」
そこで言葉を少し濁し、箱を押しつけるように差し出す。
「だからさ。ひとつくらい、なんか入れて持って帰ってきてよ。
貝殻でも石でもいいから。向こうの“なにか”」
アルスはしばらくその箱を見つめ、それから両手で受け取った。
「うん。約束する」
その答えに、リデルの肩の力がほんの少し抜けた。
「それとね――」
言いかけて、リデルは言葉を飲み込む。
「それと?」
「……ううん。帰ってきてからでいいや」
小さく首を振って、話題を切り替える。
「とにかく、怪我しないこと。
変な人には近づかないこと」
「心配性だなぁ」
「なによ。それならもうちょっと感謝しなさい」
尖った言葉とは裏腹に、その目は泣きそうではなく、笑いそうでもない、不思議な揺らぎを湛えていた。
「……戻ってきてね、ちゃんと」
「うん」
アルスは、迷いなく答えた。
リデルはほんの一瞬だけ目を丸くし、少しうつむいてから、
いつものように肩を叩いた。
「じゃあ、その言葉、信じて待ってる」
◆
廊下に出ると、いつもと違うざわめきが耳に届いた。
中庭では、土の国の学生たちが巨大な石柱を支える術式の練習をしている。
訓練場の向こう側には、火の国から来た兵士たちが、炎の槍を遠投していた。
「……前より、人が増えたな」
視線は自然と、魔道具工房の方へ向かった。
(みんなは今何作っているのかな)
そんな考えが胸をよぎる。
足はそのまま、リュマの研究室へと向かっていた。
◆
「入りな」
扉をノックすると、いつもの声が返ってきた。
中に入ると、机の上には地図が広げられていた。
複雑に絡み合う線。島々の名前。潮流を示す矢印。
「こっちおいで。ちょうどいいところだった」
リュマは地図の上を指でなぞりながら、アルスを見る。
「ここがアルベス。ここから西に出て、情脈帯の外側をぐるっと回って……ここ。
これが風の国の主な島だよ」
「ずいぶん遠いんだね」
「遠いよ。だけど、行く価値はある」
リュマはにやりと笑った。
「ユベル達と行ったことがあってね。
そのとき、あいつは船酔いで三日間寝込んでたよ」
「え」
「その三日間、私はずっと一人で船酔いしながら資料読んでた。最悪だろう?」
思い出すように肩を竦める。
「でもね。いざ風の国に着いたときには目の色が違ったよ。
“風に触れる”ってのは、そういうもんさ。
今のあんたも、似た顔してる」
「僕もそう思えるかな?」
「思えるとも」
そう言うと、リュマは海図を端に寄せ、机の上を空けた。
「さて、じゃあ旅の支度の続きだね。
結晶のストックの確認からいこうか」
机の上に、アルスは結晶袋を置いた。
リュマはひとつずつ中身を取り出していく。
「土の結晶。どれも安定してる。あとは……」
そう言いながらリュマは机の上に短剣と木の盾を置いた。
「……何があるとも限らない。一応これもストックしておきな」
「……わかった」
アルスは机に置かれた二つを結晶にする。
リュマはその結晶を指で弾いて、耳をすませるような仕草をした。
「質も悪くない。外から見て武器を持ってるように見えない」
「……でも"なるべく使ってはならない"でしょ?」
「分かってるね。バレるからだけじゃない。
そもそも、それを使う場面なんか来るべきじゃないからねぇ。
――そんな場面が来たら、まずは逃げな」
リュマの声は、珍しく少しだけ真面目だった。
「でも、あんたはもう“ただの子ども”じゃない。
自分の身は、自分で守らなきゃならないこともある。
そのとき、手ぶらより、こういう“切り札”があったほうがいい」
アルスは結晶を心配そうに見下ろし、小さくうなずいた。
「まあ、そんな場面は滅多に来ないだろうさ。――楽しんでおいで、アルス」
最後には、いつもの調子に戻った声で、リュマはそう言った。
「見てきなさい。あんたの目で、風の国を」
「うん」
アルスは、今度ははっきりと返事をした。
「行ってきます、リュマ」
「うん。行っておいで」
◆
翌朝。学院の正門前。
空はまだ薄い灰色で、
遠くの塔の先だけが白くにじんでいる。
門の手前には、風の国の紋章が刻まれた馬車が停まっていた。
普通の馬車より少し背が低く、
車輪は細く、車体はどこか軽やかに作られている。
海風を受けて走るための、風の国らしい工夫だ。
「アルス!」
その声に振り向くと、リデルが息を切らして走ってきていた。
「間に合った……!」
「リデル……どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないでしょ。見送りくらいさせてよ」
額の汗を手の甲で乱暴に拭いながら、
リデルは鞄の紐をつかんで確かめる。
「荷物、ちゃんと締めた? 忘れ物ない?」
「ちゃんと持ってるよ」
胸元を軽く叩いて見せると、リデルは少しだけ安心したようだった。
「……ほんとに行くんだね」
「うん」
「行って、ちゃんと帰ってきて。
それで――帰ってきたら、話聞かせてよ。
風の匂いとか、海の色とか、人の感じとか。全部」
「うん。できるだけ覚えてくる」
「忘れたら怒るから」
「怖いな」
「当たり前でしょ」
ふくれっ面をしながらも、その目の端はほんの少し潤んでいた。
「いってらっしゃい、アルス」
「いってきます」
短い言葉のやり取りの中に、
四年間の時間がぎゅっと詰まっているように感じた。
「おーい、アルス!」
今度は別の方向から声が飛んでくる。
馬車のそばで、ミーナが大きく手を振っていた。
銀緑色の髪をひとつにまとめ、旅装姿がよく似合っている。
「そろそろ出るよー!」
「うん、今行く!」
アルスはリデルを見る。
「……いってくる」
「うん。いってらっしゃい」
リデルの言葉に背中を押されるように、
アルスは馬車へと駆け寄った。
◆
「おはよう、アルス」
馬車の傍らで、エルドが柔らかな笑みを浮かべていた。
旅装の上から羽織られた外套には風の紋章が刺繍され、
胸元の小さな風の魔石が朝の光を受けて微かに光っている。
「おはよう、エルド。よろしくね」
「こちらこそ。荷物はここに」
エルドは手早く荷を載せると、扉を開いた。
ミーナは軽く跳ねるような足取りで馬車に乗り込む。
その背中を見送ってから、エルドはアルスのほうを向いた。
「じゃあ――行こうか、アルス」
その一言で、現実がはっきりと形を持つ。
アルスは深く息を吸い込んだ。
胸の中のざわめきは、もう恐怖だけではなかった。
「はい。行きましょう」
馬車に乗り込むと、車内には柔らかな布張りの座席と、
揺れを吸収するための細かな工夫が施されていた。
扉が閉まる。
御者の声が響き、馬車がゆっくりと動き出す。
――扉の隙間から、かすかに潮の匂いを含んだ風が入り込んできた。
それは、まだ見ぬ国からの、最初の挨拶のようだった。




