第10話
ノックの音が止み、ゆっくりと扉が開いた。
研究室の中に、ひやりとした風が一筋流れ込む。
最初に目に入ったのは、銀緑色の髪だった。
淡く光を帯びた髪が肩のあたりで揺れ、
その下に、落ち着いた色の瞳を持つ青年の顔がある。
旅装ではあるが、どこか礼装めいた白と青の布衣。
胸元には、小さな風の魔石が埋め込まれている痕が、そのまま見えていた。
その後ろに、もうひとり――ミーナの姿があった。
アルスは思わず目を瞬かせた。
ミーナは兄の陰に身を隠すように立ちながら、
アルスと視線が合うと、こっそり口元だけで笑い、
誰にも気づかれない程度に、小さく指を振った。
青年は一歩、前へ出た。
「突然の訪問、失礼いたします」
声はよく通るが、穏やかな音色だった。
「風の国より参りました、
晶装士のエルド=アルセリオと申します」
リュマは椅子から立ち上がり、軽く会釈を返した。
「遠いところを、ご苦労さんだね。
アルベスのマギア院で教えてるリュマだよ。」
「同じく風の国より。ミーナ=アルセリオです」
ミーナが、少しかしこまった調子で頭を下げる。
いつもの軽さを控えめにした声音が、少しだけおかしくもあった。
「久しぶりだねぇ。ミーナ」
リュマは目を細め、青年を眺めた。
「風の国から、ねぇ。さて……どんな用件かな?」
エルドは姿勢を正し、改めて口を開いた。
「まずは、リュマ様とアルベスのみなさまのご尽力に、
心からの敬意をお伝えしたく参りました」
言葉は丁寧だが、どこか柔らかい。
「今回、訪問させていただいた理由は、
先日リュマ様が公表された“ユベルの魔法”についてです」
「こちらでも“ユベルの魔法”は大変な話題になっております。
魔法を結晶として保存し、再構築するという術――
風の国の学院でも、その記録を拝読しました」
ユベルの魔法。
ユベルの名が、また別の場所で口にされる。
「しかしながら、我々の国には、
“ユベルの魔法”を扱える魔法士がひとりもおりません」
エルドは、わずかに表情を曇らせた。
「そこでお願いがございます。
どうか、風の国に来ていただき、
直接その一端を、ご教授願えないでしょうか」
リュマは少しだけ顎に手を当て、ふむ、と息をついた。
「そう来たかね」
研究室の窓から差し込む光が、
リュマの白髪を淡く照らす。
「行きたいのは、山々なんだよ。
風の国の酒も料理も、私は大好きでね」
そこで一度言葉を切り、肩を少しすくめた。
「ただねぇ……あんたの国は島国だろう?
この歳になると、船旅がつらくてねぇ」
エルドの目が、わずかに揺れた。
「ということで――こういう提案は、どうかな」
リュマは視線をアルスに向ける。
「うちの弟子を、一人、あんたたちの国に預ける。
私が教えた“ユベルの魔法”を、そちらに伝えてもらう」
「えっ」
アルスの喉から、小さな声が漏れた。
ミーナの視線が、ちらりとこちらに向く。
エルドはしばらく黙ってアルスを見つめ、それから静かにうなずいた。
「ありがたい。
リュマ様の弟子をお預かりできるなら、
これ以上ない申し出です」
その声には、真っ直ぐな誠意があった。
アルスの胸に、遅れて不安と――それ以上のざわめきが広がる。
風の国。海の向こう。島々の国。
今まで地図の上でしか見なかった場所。
そんなところへ、自分が。
「アルス」
名を呼ばれ、アルスはリュマを見た。
「行くかどうかは、あんた自身が決めなさい。
嫌なら、私は断るよ」
その目は、いつものようにどこかとぼけているのに、
肝心なところだけは逃がさない光をしている。
アルスは、しばらく考えた。
山を降りて、アルベスに来た日。
それからの四年間。
知らない場所に足を踏み入れるたび、世界は少しずつ形を変えた。
風の国へ行けば、また何かが変わるのだろうか。
「行きたいです」
気づけば口が動いていた。
エルドが少しだけ目を見開き、すぐに穏やかに微笑む。
「ありがとうございます。
風の国の一同、歓迎いたします」
リュマは満足げにうなずいた。
「決まりだね」
「――ところで」
エルドが、不意に表情を引き締め、声の調子がわずかに低くなる。
「リュマ様に別件でお話がありまして、
内密にお話ししたいです」
リュマは短く息を吐いた。
ちらりと、アルスを見る。
「アルス。ここから先は、少し席を外しておくれ」
エルドがリュマにの言葉に繋げる。
「ミーナ。君も外しておくれ」
「うん。わかった」
「失礼します」
アルスとミーナは一礼して、研究室を後にした。
扉が閉まる直前、
中から聞こえたリュマの声が、風に紛れて遠のいていく。
何の話かは分からない。
ただ、さっきまでと違う、少し重い空気だけが、背中に残った。
◆
廊下には、薄い風の匂いが漂っていた。
さっきまで部屋にいた風の国の人間たちが持ち込んだ空気が、
まだ完全には抜けていないのだ。
「久しぶり、びっくりした?」
ミーナが隣で、肩を並べるように歩く。
「……少し」
くすっと笑う声は、昔と変わらない。
けれど、横顔は少しだけ大人びていた。
長くなった髪が揺れるたび、光の加減で色が変わる。
「風の国か」
アルスはぽつりと言った。
「ミーナの故郷なんだよね?」
「うん。今はこっちと向こうを行ったり来たり。
書類運んだり、お母さんの手伝いしたり……まあ雑用ばっかりだけどね」
「大変じゃない?」
「大変だよ。船酔いもするし」
そう言いながらも、ミーナはどこか楽しそうだった。
「でも、嫌いじゃないかな。
向こうは島ごとに風の匂いも人の感じも違ってね。
きっとアルスも気にいるよ」
ミーナは軽く腕を広げ、廊下の風を受け止めるように歩いた。
アルスは、その背中を見ながら少しだけ笑った。
「さっきの人」
「ん?」
「ミーナに……雰囲気似てるね」
ミーナがぴたりと足を止める。
「よくわかったね。あの人、私のお兄ちゃん」
「……お兄ちゃん?」
アルスは思わず聞き返した。
「そう。風の国の戦士で、今は半分使節みたいなことしてる」
「……あんなに、しっかりしてるのに?」
言ってから、しまったと思った。
ミーナがじとっとした目でこちらを見る。
「それ、どういう意味よ」
「いや、その……」
「まあ、いいけど」
ミーナはわざとらしくため息をついてみせる。
「今のは“使節モード”だからね。
普段はもっとラフだし、私よりちょっと抜けてるところもあるんだから」
「そうなんだ」
「そうなの」
ミーナは、少しだけ胸を張った。
「――そんなことないさ」
不意に、後ろから声がした。
「妹よりは、しっかりしているよ」
アルスとミーナは同時に振り向いた。
廊下の角。
扉を閉めながらエルドが答える。
「お兄ちゃん」
「ああ。待たせたね」
エルドはゆっくり歩いてくる。
銀緑の髪が、廊下を抜ける風と一緒に揺れた。
さっきの会話は、扉越しで聞こえてないはずだと、
アルスが驚いていると、エルドは小さく笑った。
「“なんで聞こえてたんだろう”――って顔をしてるな?」
心の中をそのまま言い当てられたようで、アルスは言葉を失う。
エルドは胸元の小さな風魔石に指を触れた。
「風の晶装士はね。
音の揺れに敏いんだ。
壁一枚くらいなら、向こうの会話もちゃんと届いてくる」
「……そうなんですね」
「悪気があって聞いてたわけじゃないよ。
ただ、ミーナがなにを言ってるかは、つい気になってしまうものでね」
「お兄ちゃん、そういうところよ」
ミーナが呆れたように横から突っ込む。
「人の話、全部拾ってくるくせに、
自分のことになると急に鈍くなるんだから」
「それはお互い様だろう?」
エルドは肩をすくめ、それから改めてアルスのほうへ向き直った。
「さて――君が、アルスくんだね?」
「はい。アルス=ローデンと言います。
この度は、風の国へ同行させていただくことになり……
よろしくお願いいたします」
自然と背筋が伸びる。
「畏まらなくていいよ」
エルドはすぐに首を振った。
「ミーナと話すときみたいにしてくれて構わない。
私はそんなに堅い人間じゃないからね」
「そうそう。私もお兄ちゃんも堅苦しいの苦手だから」
ミーナが横から同意する。
「アルスも、あんまり緊張しないでいいのよ」
アルスは一瞬だけ迷い、それから小さく息を吐いた。
「……じゃあ、少しだけ。
改めて、よろしく。エルド」
「うん。よろしくな、アルス」
エルドは、兄らしい笑みを浮かべて手を差し出した。
アルスも、その手をしっかりと握り返す。
風の匂いが、ほんの少しだけ強くなった気がした。
それが、遠い国への道の始まりだと、
まだアルスははっきりとは気づいていなかった。




