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造物のアルス  作者: おのい えな


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第1話

 山は、息を潜めていた。

 雪は重く積もり、木々は白い重さに耐えるようにしなっている。

 鳥の声も風の唸りもなく、あたり一面の静けさだけが、ゆっくりと世界を覆っていた。


 その中で、小さな点のようにひとつだけ、色を持つ場所がある。


 山肌に寄り添うように建てられた粗末な小屋。

 その前にしゃがみ込んでいるアルスの指先で、砕けた魔石の粉が淡く青い光を灯していた。


 粉のひと粒ひと粒が、雪の白の上で細かく瞬いては消える。

 その光が何なのか、なぜ光るのか、アルスは知らない。


 ただ、指でそっと触れれば光が強くなり、離せば弱くなるという“現象”だけを、

 アルスは息をするのも忘れたように、じっと眺めていた。


 冷たいはずの雪の感触も、粉の温度も、どこか曖昧だ。

 熱いのか、冷たいのか、それを判断するための基準がまだ薄い。


 指の腹に残った淡いひりつきは、きっと「冷たい」なのだろう――

 そんな程度の理解しか、アルスにはない。


「……アルス、外にいたのか」


 背後から低い声がした。

 雪の静けさを乱さず、それでも確かに届いてくる声。


 アルスが振り返ると、小屋の扉を押し開けながら、ユベルが杖をついて立っていた。

 吐く息が白く細く伸び、その肩はわずかに震えている。


 八十を越えたその体は、冬の冷気に触れるたび、小さく縮むように震え、

 肩の上下もゆっくりとしか動かない。


「寒いぞ。戻ってきなさい」


「……はい」


 アルスは素直に立ち上がった。

 だが、足の運びはどこかぎこちなく、踏みしめた雪の上でバランスを崩し、

 膝を少しだけ雪に沈める。


 ユベルが近づき、乾いた手でアルスの手を取った。


 その指先は、驚くほど冷たかった。


「やれやれ……指先が氷みたいだ。手袋はどこやった」


 ユベルは眉間に皺を寄せて問う。


「……燃やしました」


 アルスは少し間をおいてから、当たり前のことを告げるみたいに答えた。


「火に手を突っ込んだのか?」


「……でもあったかかったよ?」


 アルスは首を傾げる。

 “あたたかい”という感覚と、“燃やした”という事実が、まだ彼の中で結びついていない。


 ユベルは短く息を吐き、笑ったともため息をついたともつかない表情で目を細めた。


「そうだな」


 その言葉は短い。

 けれど、薄暗い山の空気の中で、炉の火よりもずっと温かかった。


 ◆


 小屋の中は、外の沈黙とは別の静けさに満ちていた。


 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、ランタンの揺らぎが古い木の壁に橙色の光を落とす。

 その光に照らされて、棚に並ぶ瓶や古書が、生き物のように影を伸ばしていた。


 机の上には、魔法語で埋め尽くされた紙束。

 瓶に詰められた細かな魔石の欠片。

 干して束ねられた薬草。

 表紙の角が擦り切れた古い本。


 この小屋のすべてが、ユベルの長い研究の軌跡だった。


 アルスは入り口で雪を払うと、いつものように靴を脱いで炉のそばに座った。

 冷え切った足先を、少し離れた位置で火にかざす。


「……あまり近づけすぎるなよ。また手袋を燃やすぞ」


「はい」


 ユベルは杖を壁に立てかけると、アルスのほうをあごで示した。


「アルス。手を見せろ」


 言われるまま、アルスは手を差し出す。

 指先は赤くなり、ところどころ皮膚が荒れている。


「痛いなら、痛いと言え」


「いたい」


 間髪入れずに返ってきた言葉に、ユベルの手が止まった。


「まだ触れとらん。嘘はつくな」


「はい」


 アルスは首をかしげながら素直に返事をする。

 “痛い”という言葉がどういうときにふさわしいのか、まだよく分かっていないのだ。


 ユベルは小さく息をつき、手のひらの様子を一通り確かめると、

 火加減をひと目見てから暖炉に薪を足した。


 アルスが初めてやけどをしたときも、同じようなやりとりがあった。

 そのときに覚えた言葉の使い方を、彼はまだ手探りで試し続けている。


 ◆


 床板の軋む音とともに、ユベルが椅子に腰を下ろした。

 その動きも、少しずつゆっくりになってきていた。


「アルス。今日も魔法を練習する」


「はい」


 呼ばれると、アルスはすっと立ち上がる。

 その身のこなしはぎこちないが、迷いがない。


「今日は“分解”だ」


 ユベルは作業台に、小さな灰色の魔石をひとつ置いた。

 拳ほどの大きさの、どこにでもありそうな石。

 けれど、その内側には微かな揺らぎがある。


 アルスは作業台の前に立ち、両手をかざした。


 深く息を吸い込む。

 肺の中に冷たい空気が入り、少し遅れて温かさに変わっていく。


 指先が、かすかな光を帯びはじめた。


「強く押すな。石の“揺れ”を感じろ。壊すんじゃない。……戻すんだ」


「戻す……」


 アルスは目を閉じる。


 指先から伝わる、ほとんど聞こえないほどの振動。

 静かな石の奥で、水面に波紋が広がるように、細い波が震えている。


 そこから少しでもずれると、ただの“破壊”になる――

 ユベルはそう教えた。


 アルスの集中が、ほんの少しだけ途切れた瞬間――


 ぱきり、と乾いた音がした。


「……割れたな」


 ユベルは声を低く落とした。

 叱るでもなく、惜しむでもなく。ただ事実として口にしただけの声だった。


「もう一度だ。焦らず、波を読むんだ」


「はい」


 三度、四度、五度。

 石は少しずつ小さくなっていく。


 失敗するたび、粉になった石が作業台の端に集められていく。

 青や灰色や鈍い赤の粉が、薄く混ざり合っては静かに光っていた。


 ユベルの呼吸は、そのたびに少し荒くなる。

 咳の合間、杖を握る指先も、わずかに震えていた。


 アルスはそれを、ただの“揺れ”としてしか受け取れない。

 自分の練習が、ユベルの体力を削っているのだという自覚までは、まだたどり着いていなかった。


 ◆


 窓の外の白が、いつのまにか薄闇を帯びていた。

 黒々とした木々の影が伸び、山は再び夜の支度を始めている。


「……だいぶ時間が経ったな」


 黙り込んでいたユベルがぽつりと言い、深く息を吐いた。


「今日はもう終わろう」


 杖の先で床を軽く叩き、ユベルは机の上の古書を閉じる。

 指先の節が、以前より目立って見えた。


 アルスは魔石の粉を瓶に戻しながら、その音を聞いている。


「それで、アルス」


 名を呼ばれ、アルスは顔を上げた。


「はい」


「お前には、そろそろ大事なことを話さなければならん」


 炉の火がぱち、と弾ける音だけが、しばしの沈黙を埋める。


 古書を閉じ、ユベルは立ち上がった。

 炉の火の前に立つその姿は、炎のゆらぎのせいか、いつもより細く見えた。


「……話す?」


 アルスが首を傾げると、ユベルは一度だけゆっくりと頷いた。


「そうだ。私はもう長くない」


 静かで、深い声だった。


「ユベルは長いよ」


 アルスは素直に思ったことを口にする。

 八十年という時間の長さを、彼は数字としてしか知らない。


「そうだな」


 ユベルがふっと笑う。

 ほんの少し、肩の力が抜けたような笑いだった。


「アルス。お前は、この山を下りなさい」


 言葉は、驚くほど静かに落ちた。


「……ぼくが?」


 アルスは炉の火から視線を外し、ユベルを見上げる。

 山を下りるという言葉の重さを、まだきちんとは測れないまま。


「そうだ」


 ユベルの紫の瞳が、まっすぐにアルスを捉えていた。


「お前は生きなければならん。――“アルス=ローデン”として」


 その瞬間、ユベルの瞳の奥に、深い影が揺れた。


 アルスには、その影が何を意味するのか分からない。

 けれど、不思議と胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「……ユベルは来ないの?」


 問いかけというより、確認に近い声だった。


「そうだ、アルス。一人で行くんだ」


 ユベルは視線を炉の火へと落とし、短く息を吐いた。


「……どこへ?」


「どこでもいいさ。ここ以外ならどこでも。見たことないものを見てこい」


 言いながら、ユベルはそこで言葉を切る。

 本当はもっと言いたいことがあった。

 世界を見ろ。多くを学べ――。


 だが、それを口にするには、喉の奥が少しだけ痛かった。


 ぱちり、と炉の火が弾けた。

 その音だけが、ふたりの間に落ちた静寂を照らしていた。


 ◆


 その夜、アルスはなかなか眠れなかった。


 寝台に横たわり、粗い毛布にくるまりながら、天井の木目をぼんやりと追う。

 節の形や並び方を目でなぞりながら、その意味のない模様に、どうにか考えを引っかけようとする。


 外では、雪が落ちる音がする。

 風が木の枝を揺らす気配も、かすかに伝わってくる。


 遠くで獣の鳴く声がした。

 それもすぐに、雪に吸い込まれていく。


 世界のすべてが、今夜だけは少し違う音で響いているように思えた。


 それが何なのか、アルスにはまだ言葉がない。


 目を閉じても、ユベルの声と、炉の火の明滅だけが、まぶたの裏に残っていた。


 胸の奥のどこかが、きゅうっと縮むような感覚がある。

 それが不安なのか、期待なのか、別の何かなのかも、彼にはまだ判断がつかなかった。


 アルスはまだ知らなかった。


 この日が、ユベルと過ごす最後の“穏やかな夜”だということを。


 そして、

 山を下りるという言葉が、静かに彼の世界を変え始めていることも――。


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