第40話
6月8日。遂に、『Heaven or Hell project』の最終審査の日となった。
審査が始まる2時間前。僕は、確認のために、少し早めに会場である日本武道館に来ていた。
スタッフパスを首にかけて、歩き出した。
今日の審査官は10人。今日の進行スケジュール、各グループの出番順を頭の中で確認しながら、ロビーを横切る。
そのとき、人の気配を感じた。
少し離れた場所に、1人の女性が立っていた。
スマホを見ているようで、見ていない。画面を見つめるふりをしながら、その実どこも見ていない。
彼女が葛西蒼。
会ったことはない。でも、写真で見た顔だと分かった。
優太くんから聞いた言葉が頭をよぎった。
——必死で、怯えてて、孤独で。
彼女はスマホを持つ手を微かに動かした。それだけだった。
表情は一切変わらない。
視線が交わった。一瞬だけ、彼女の目に蒼い炎が見えた気がした。
次の瞬間、彼女が笑顔を作って、こちらに歩いてくる。
「乃木健人さん、ですよね。今日はよろしくお願いします」
きれいな礼だった。声のトーンも、間も、完璧だった。
「あ、はい。こちらこそ」
何か言葉をかけようとしたが、何も言えなかった。彼女は軽く頭を下げて、踵を返した。
その背中を、僕はしばらく見ていた。
あの目。笑顔の奥にある、あの目。
——健人がセンターで歌ってた時の、あの目と同じなの。
廊下の角に、葛西蒼の背中が消えた。
僕は少しの間、その場に立ったまま動けなかった。
分からない、と思った。でも、何かが胸の中に引っかかって、離れなかった。
誰かと話すたびに、正解を探している。嫌われない答えを探している。
笑顔を崩さないように、声のトーンを保つように、常に何かを計算し続けている。
そうしないと、自分が何者なのか分からなくなるから。
そして歩き出しながら、もう一度だけ廊下の角を見た。
もう、そこには誰もいなかった。
控室のドアを開けると、7人が一斉にこちらを見た。
千佳が真っ先に立ち上がる。
「遅い!どこ行ってたの?」
「ちょっといろんなこと確認してた」
「もうすぐ本番なんだけど!?」
「分かってるよ」
ルナが腕を組んで足を貧乏ゆすりしている。彼女は「余裕じゃん」といった顔をしているが、リズムが少し速い。
7人を見渡した。
みんな緊張している。当然だ。
「健人くん、私たちに何か言ってよ」
千佳が言った。
「いつも通り、本当にいつも通りでいい」
「それだけ?」
頷いた。
千佳が「もー」と言いながら、でも少し笑った。
「健人がそう言うならそれだけで十分だって!」
玲奈ちゃんが笑いながら千佳の背中を叩いた。
「そうそう。そう言われたなら信じなよ」
初歌ちゃんがこちらを見ていた。何かを確認するような目で。
僕が頷くと、彼女は静かに視線を前に戻した。
***
「さあいよいよ始まりました!『Heaven or Hell Project』最終審査!」
司会の声が日本武道館に響く。
「それでは、今夜パフォーマンスをする2組をご紹介します!まず1組目は…」
Emmaの出番は、僕たちより先だった。僕は舞台袖からパフォーマンスを見ることにした。
3人がステージに出た瞬間、空気が変わった。
葛西蒼が真ん中に立ち、その両脇に優太くんと彩葉ちゃんが並ぶ。
照明が落ちた。暗闇が一瞬訪れて、次の瞬間、スポットライトが3人を切り取った。
音楽が始まった。
『Okey…Let's go!』
最初のこのフレーズだけで、確信した。
葛西蒼は完璧だ。
動きには無駄がない。指先の角度まで、全部計算されている。
表情は端正に制御されていて、感情が外に漏れる隙間がどこにもない。
視線の運び方、重心の移動、息継ぎのタイミング。全部が緻密に組み上げられている。
審査官の視線が、自然と彼女に集まっていくのが分かった。
見ていて、息が詰まった。気が付くと、昔の自分のことを考えていた。
昔の自分も、あんな風に立っていたのかもしれない。
全部計算して、全部制御して、それでも何かが足りないと感じながら。完璧であることと、届くことは、違う。
それをステージの上で初めて知った日のことを、まだ覚えている。
優太くんと彩葉ちゃんの動きを目で追った。技術の話ではない。この2人は今日、覚悟を持ってあのステージに立っている。それが伝わってきた。
あの頃と同じ目をしている。いや、違う。あの頃より、もっと深いところにある目だ。
Emma結成から9年間。
その重さが、二人の動きの中にあった。これが最後だと知っている人間の動きだった。優太くんの目が一瞬だけ彩葉ちゃんに向いた。彩葉ちゃんは前を向いたまま、でも微かに頷いた。
言葉のない会話だった。9年間だけが持てる会話だった。
曲が進むにつれて、武道館の空気が変わり始めた。審査官席の何人かが、無意識に身を乗り出しているのが見えた。
観客席からは、息を呑む気配がした。
サビに入り、葛西蒼の声が武道館に広がった。技術的に正確で、感情的に隙がない。
それなのに、どこか遠い。ガラスの向こう側から聞こえてくるような声だった。
でも、目だけが違った。目の奥に、蒼い炎があった。
アウトロに差しかかったとき、葛西蒼の視線が一瞬、どこも見ていない場所に向いた。
ほんの一拍。それだけだった。
鳥肌が立った。
拍手が起きた。大きな拍手だった。
3人がお辞儀をして、舞台袖に戻ってくる。
葛西蒼の表情は、もう元に戻っていた。
端正に制御された、いつもの顔。
彼女はこちらを見なかった。だが、ステージの方向だけ、少し長く見ていた。
今度はMETROPOLARiSの番だ。
7人が横に並ぶ。
千佳が深呼吸をし、ルナが首を鳴らした。初歌ちゃんは目を閉じ、菖蒲さんが静かに前を見ている。
綾乃さんが指先を軽く動かしている。志歩ちゃんが隣の玲奈ちゃんの手を一瞬だけ握った。
照明の色が変わった。
「Okey…Let's go!」
僕が言うと、7人は頷くだけだった。そして、ステージに出ていく。
『Okey…Let's go!』
ルナの声が、一瞬にして会場の空気を変えた。
千佳が客席を見渡して、笑った。本当の笑顔だった。
作った笑顔じゃない。ただそこにいる人間の、自然な表情だった。
菖蒲さんは、曲の途中で一度だけ目を閉じた。何かを確かめるような、一瞬だった。
次に目を開けたとき、彼女の動きが少しだけ変わった。何が変わったのかは、うまく言葉にできない。
ルナの動きが、練習より大きかった。いつもより少しだけ重心が低い。
武道館の広さを、体で受け取っている。
初歌ちゃんの声が、最初の一音から前に出ていた。いつもは少し抑えるところを、今日は抑えていない。
7人の動きが揃っていく。
でも、揃っているのに、全員が違う。千佳は千佳の動きを、ルナはルナの動きをしている。
そして、初歌ちゃんは初歌ちゃんの声を出している。揃えようとして揃っているんじゃなく、それぞれがそこにいる結果として揃っている。
ふと気がついたら、綾乃さんが笑っていた。客席に向けた笑顔じゃない。
隣に向けた、不意打ちみたいな笑顔だった。つられて隣も笑った。
それが端から端へ、一瞬で伝わった。
玲奈ちゃんのソロパート。高音が空気を切った。
伸びやかで、力強い。客席のどこかから、短い息が漏れた。
玲奈ちゃんのソロが終わった瞬間、志歩が一歩前に出た。音を受け取るような、自然な動きだった。
次のフレーズが始まったとき、2人の声が重なった。ぴったりではなかった。でも、それがよかった。
審査官席の1人が、ペンを止めた。
計算じゃない。
Emmaのステージを思い出した。完璧な計算で組み上げられた、隙のないステージ。
でも、これは違う。
7人は今、武道館という場所に、ただいる。
照明が7人の上で動いている。音が広がっていく。
サビに入ったとき、何かが変わった。音の圧が、増した。
7人が前に出てきた。距離が縮まったわけじゃない。
でも、確かに近くなった。
僕は舞台袖から、7人を見ていた。
何も考えていなかった。ただ見ていた。
胸の中で、何かが静かに落ち着いていった。ずっとそこにあった緊張が、音の中に溶けていくような感覚だった。
曲が終わった。
一瞬の静寂があって、会場が爆発した。
スタンディングオベーション。歓声。拍手。
7人がお辞儀をする。
僕は気がついたら、手が震えていた。拍手をしようとして、できなかった。
指が、うまく動かなかった。
***
全ての審査が終わったとき、僕は武道館の外に出た。
日が暮れようとしていた。西の空が、じわりと赤く染まり始めている。
僕はしばらく、その空を見ていた。




